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Daddy②

    ◇  ◇  ◇


 真理愛の入院中に、圭亮は一人暮らしのマンションを引き払い実家に戻った。


 通勤は少し不便にはなるけれど、もともと通えない距離でも何でもないのだ。


 遠方の大学に進学したのを機に家を出て、就職して地元に戻ったときにも実家に住むつもりはなかった。


 親の方もそれが当然だと思っていたようだ。


 もし圭亮がずっと同じ部屋マンションに住んでいなければ、あの手紙は宛先不明で配達されなかっただろう。


 その場合、真理愛の存在を知ることもなかったのかもしれない。


 運命の分かれ道というのは、ごく平凡な人間にも待ち受けているのだ、と圭亮は改めて痛感した。




「ただいま」


 退院した真理愛を引き取って、実家で両親と暮らし始めて約一か月。なんとか四人の生活にも慣れてきたところだった。




「圭亮! おかえり、ちょっとこっち! こっち来て、早く!」


 玄関ドアを開けた圭亮に、待ち構えていたように良枝が捲し立てた。何時になく興奮した様子の母に、圭亮は慌てる。




「な、何? 真理愛に何か──」


「いいから来て!」


 引き摺られるようにリビングルームに足を踏み入れた圭亮の目に、真っ先に飛び込んできたのは父の姿だった。




「ほーら、真理愛ちゃん。お星さまキラキラ!」


 真理愛と床に広げた絵本を挟んで向き合って座り、顔の横で掌を揺らしている。


 そして──。


 政男の真似なのか両手を半端に上げている真理愛の顔に浮かぶ、少しぎこちない、しかし確かな笑み。


 父親の、祖父じじバカ全開の滑稽とも思える姿に呆れる暇もなかった。それどころではない。正直なところ、意識の隅にもなかった。




「真理愛が、笑って、る……?」


「そうなの! あの絵本、お父さんが買って来たんだけど、気に入ったみたいで。じーっと見てるから、星の絵だからってお父さんが手振りしたら、真理愛ちゃんが!」


「ああ、おかえり圭亮。真理愛ちゃん、パパだよ」


 その声が合図のように、真理愛が圭亮に顔を向けた。




「圭亮! 何怖い顔してんだ。笑え!」


 政男の小声での叱責に、咄嗟に引き攣った笑顔を作った圭亮に、真理愛もまたあまり上手くない笑みを浮かべる。




 ──それでも、可愛い。




「……真理愛」


 押し寄せた複雑な感情に、それ以上は言葉にならない状態の圭亮を見やり、政男が真理愛に何か囁いてキッチンに向かった。




 飲み物を入れたコップを持って戻って来た政男に、真理愛が手を伸ばす。




「真理愛ちゃん、ほら牛乳。零さないようにな」


「じーじ! エプロン忘れないで」


 良枝がすかさず注意するのに、政男は反対の手に持っていたエプロンを示して言い返す。




「じーじと呼んでいいのは真理愛ちゃんだけだ。ばーさんにじーさんと呼ばれる覚えはないわ」


「だって、『お父さん』だと真理愛ちゃんが覚えるのに困るじゃない。だから私は『じーじ』って呼ぶわよ!」


「父さん、っと、『じーじ』の負けだな」


 軽口を叩く圭亮に、政男は床の絵本を拾い上げて渡して来た。




「これ。寝る前に読んでやれ。読み聞かせは大事らしいぞ」


「わかった。ありがとう。……星の絵本? 絵が綺麗だな」


 ありがたく受け取って頷き、ぱらぱらとめくってみる。




「こういうのは全然詳しくないから、本屋さんで聞いたんだ。小さな子には、見てわかりやすいのがいいだろうって」


「そうだよな~」




 寝るための支度をすべて済ませた真理愛の手を引いて、ベッドに向かう。


 今は、圭亮が高校時代まで使っていた自室が、二人の寝室になっていた。真理愛がもっと大きくなったら、個室を与えられるだけの余裕もある。物置同然になっている空き部屋があるのだ。まだまだ先の話になるけれど。


 圭亮は、繋いだ手とは反対側に持つ絵本を真理愛が見ているのに気づいた。




「ん? うん。真理愛、この絵本好きなんだよな? ねんねするまでパパが読んであげるよ」


 その言葉に、真理愛が圭亮の顔を見上げて笑った。今日見た中で、一番自然な、笑顔。




「……真理愛」


 圭亮の胸にあるこの感情の名は、なんだろう。






    ◇  ◇  ◇


 十二月二十五日は、真理愛の誕生日だ。


 圭亮の娘は、今日で五歳になる。




「ただいま。悪い、遅くなって」


 どうしても避けられなかった残業を終えて急いで帰宅した圭亮は、ダイニングキッチンに顔だけ出して詫びる。




「待たせてごめんな、真理愛。今、手を洗って──」


「……ぱぱ」


 テーブルについている真理愛の口から零れるのは、初めて聞く娘が己を呼ぶ言葉。




「真理愛……? パパ、って」


「そうなのよ! 今日初めてね、お喋りしたの。お喋りって言っても私たちのことを──」


 真理愛のすぐ横に陣取った良枝が、昂った様子のままに報告してくる。


「ばーば」


「おう、圭亮」


 政男が冷蔵庫の前から、圭亮に声を掛けて来た。真理愛がそちらに顔を向ける。




「じーじ」


 まるで指差し確認でもするように、一人一人の顔を順にじっと見つめて名を呼ぶ真理愛。


 圭亮が定時で帰れないと連絡した際に、三人で夕食を済ませておくと聞いていた。だから後はケーキだけだ。


 真理愛と良枝が座る食卓に、政男が冷蔵庫から出して来たケーキを置いた。少しいびつに塗られた真っ白なクリームに、赤い苺が載っている。


 どうやら、良枝のお手製らしい。




「お店にはクリスマスケーキしか売ってなかったのよ! でも、真理愛ちゃんのお誕生日なのに、クリスマスケーキじゃ嫌だったの。ごめんなさいね、ケーキ屋さんの方が絶対美味しいのはわかってるんだけど、ばーばの我が儘で」


「明日には普通の売ってるだろ。今日はばーばのを食べて、明日美味しいケーキ買って来ような」


 宥めるような政男に、真理愛は首を横に振る。




「ばーばの、けーき。……たべる」


 たどたどしい言葉に、良枝が不意に顔を覆って泣き出した。突然のことに、真理愛は驚いて固まってしまったようだ。




「ばあさん、何泣いてんだ。真理愛ちゃんが困ってるだろ! まったく。……なぁ?」


「真理愛、ばーばは嬉しくて泣いてるんだよ。真理愛は何も悪くない」


 戸惑う真理愛に、政男と圭亮が口々に声を掛ける。




「じーじ。ぱぱ。……ばーば、けーき」


 すぐ脇に重ねて置かれた皿を一枚手に取って、真理愛が良枝に差し出した。




「ほら、ばあさん。真理愛ちゃんにケーキ切ってやらんか」


「あ、そう、ね。待ってね、ナイフを──」


「はい、これ」


 先回りした圭亮が持って来たケーキナイフを受け取って、良枝がケーキを切り分けている。その間に、圭亮は真理愛の後ろに回ってエプロンを掛けた。


 良枝が一人分ずつカットしたケーキを、皿に乗せて順に渡して行く。


 全員に行き渡ると、とりあえず大人三人で『ハッピーバースデー』を歌って「真理愛ちゃん、お誕生日おめでとう!」と声を揃えて祝った。




「さあ、食べましょ。ね、真理愛ちゃんも。はい、『いただきます』」


 反応の仕方がわからないようで黙ったままの真理愛に、良枝がフォークを握らせる。


 目の前の皿に載ったケーキの端に、真理愛がフォークを突き刺した。切り取った欠片が大きすぎて、半分がエプロンのポケットに落ちる。もう半分も、口に入った方が少なかったかもしれない。




「ああ、ほら。クリームでベタベタだよ」


 真理愛の汚れた口元を濡れタオルで拭きながら、圭亮は何故か笑いが込み上げて来た。




「おいし、い」


「うん、美味しいな。母さ、ばーば、ホントに美味いよ。見た目も綺麗だし、凄いじゃん」 


 圭亮が褒めるのに、良枝も涙を拭い嬉しそうだ。




「そ、そう? ケーキなんて何年ぶりかしら。圭亮が小さい頃は作ってたけど、こんなデコレーションしたことなかったわね」


「うん、確かに。種類が違うのかもしれないけど、焼いたそのまんまだったよな」


 家族団欒だんらん


 圭亮が子どものときにも、この家に確かにあったもの。


 しかし、メンバーのうち三人は同じなのにも拘らず、全員の立ち位置が、……属性が変わるとここまで別物になるのか。


 父と母と息子だったものが、祖父母と父と、娘になった。それに伴ってすべてが変わった。


 そもそも、冷たい家庭だと感じたことこそなかったが、ここまで笑顔に満ちていただろうか。圭亮が覚えていないだけなのか?




 今までも、圭亮は真理愛を我が子として受け入れているつもりだった。可愛いと思い、慈しんでいた。


 大切だったと自信を持って言い切れる。


 それでも、親子の愛よりなにより『義務感』が先立っていたのは否定のしようもなかった。


 無論、父親として子どもに責任を感じることが悪いとは思わない。そんなものは当然の前提だ。


 しかし、本当に何にも優先するほどの愛情を持っていたかと訊かれると、正直迷いがあったのもまた、事実だったのだ。


 けれど、今日。ついさっき。


 真理愛に「パパ」と呼ばれた瞬間。圭亮はこの小さな命を心の底から愛おしいと思った。


 頭の中で捏ね回した理屈ではなく、自然に身の内から湧き上がってきた温かい感情に身体中が満たされた。


 なんともいえないあの感覚を、圭亮はきっと忘れることはない。




「ああ、圭亮。そろそろ真理愛ちゃんをお風呂に入れるから。出たら寝かしつけてあげて」


 良枝の言葉に、圭亮はふと思いついて提案する。




「風呂、俺が入れようかな。……パパ、だしな」


「それは、真理愛ちゃんにはいいだろうけど。大丈夫なの? ちゃんと入れられる?」


 良枝が心配するのに、圭亮は咄嗟に言い返した。




「いや、大丈夫だよ。できるよ! 風呂って、髪と身体洗ってやればいいんだろ?」


「確かに、そうなんだけどね。シャンプーのとき、耳にお水が入らないように気をつけて。髪が細いから丁寧にね。身体も擦り過ぎないように、お肌が凄く柔らかいんだから。あと、湯船に浸かってる間は絶対に目を離さないで、というか一緒に浸かって支えてあげなさいよ」


 圭亮が考えていたほど簡単なことではなさそうだが、ここで引くわけにはいかない。


 親なのだ。この娘の父親なのだ。最低限のことは、自分ひとりでもできるようにしておかないと。




「よし、真理愛。パパとお風呂入ろう。……パパとでいいか?」


 だんだん声が小さくなってしまったが、真理愛が目を見てしっかり頷く姿に気合を入れる。




「圭亮。あなたが洗い終わったら真理愛ちゃん連れて行くから、呼んで頂戴」


 良枝の言葉の意味が、圭亮は最初理解できなかった。きょとんとする息子に、良枝は呆れず一から説明してくれる。




「一緒に湯船に浸かるためには、二人とも体洗い終えてなきゃいけないでしょ。真理愛ちゃんを先に洗うにしても後回しでも、圭亮が自分を洗ってる間真理愛ちゃんはどうするの?」


 聞かされてみれば、単純なことだった。


 確かに、その間は真理愛を待たせておくしかない。立ったままで? いや、椅子に座らせるにしても裸で放っておくのか? この、真冬の夜に?




 ──そこまで、考えてみたことすらなかった。




「母さん。子どもって、子育てっていろいろ大変なんだな……」


「この程度で何言ってるの。実際には、一人で複数の小さな子を世話してるお母さんなんていっぱいいるでしょ。お風呂だって、一人で何とかするやり方ももちろんあるのよ。でも手があるなら使えばいいからね」


「……うん。じゃあ、髪と身体洗ったら呼ぶから、連れて来てもらえる?」


「ええ」




 入浴後。


 圭亮は真理愛の髪にドライヤーを当ててやった。


 長さはあるが頼りないほどに細く少ない髪は、あっという間に乾いてしまう。


 いま真理愛は、良枝に渡されたコップの水を飲んでいる。あとは、歯磨きして寝かしつけだ。


 この二つは、必ずではないが普段から圭亮もやっていたので慣れていた。




 これまで真理愛に関することで、手を抜いていたわけではない。それは断じてない。


 しかし、娘としての明確な愛情を自覚した今思えば、どこか責任感で機械的に行っていた部分はあったように思えて来たのだ。


 親も人間だから、いつでも子どものことだけ考えて全力で接することなどできないのが当然だという気持ちもある。それでも、少なくとも今は、真理愛の面倒を見るのが楽しいと感じている。


 たかが風呂、たかが歯磨きでも、真理愛にとっては不可欠な生活習慣なのだ。


 どうせやらなければならないのなら、楽しんだ方がいいだろう。遊び半分でいい加減にさえならなければ。




「よーし、これでピカピカだな。ぶくぶくして」


 歯ブラシを置くと、水を入れた専用のコップを渡してうがいを促す。真理愛はまだ下手で水を零してしまうため、さり気なく顎の下にタオルを当てた。


 こういうことも最初はわからなかった。何度もパジャマを水浸しにして着替えさせたものだ。


 そう思えば圭亮自身、知らず父親としてのスキルが身について来ているということなのではないか。些細なことかもしれないが、それに気づいて圭亮は口元が緩むのを感じた。




 それまで、存在していることさえまったく知らなかった真理愛と、父と娘として出逢って暮らし始めて二か月と少し。


 真理愛の五歳の誕生日を迎えた今日。


 圭亮もまた、『父親』として新たに生まれ変わったのかもしれない。


 確かに親子だけれど、決してニワトリとヒヨコではないのだ。圭亮も真理愛も、卵からかえったばかりの雛も同然なのだろう。


 まだまだよちよち歩きの二人を、人生の先輩としての両親であり祖父母が見守ってくれている。




 ここから真理愛が育つのと同時に、父としての圭亮も成長して行ける筈だ。



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