「今日子! 今日子っ……!」
低いテーブルに突っ伏した、確かに知っている、──けれども、
死を選ぶつもりだというのは、彼女からの手紙を目にしたときから予感していた。だからこそ、無視し切れずにここにやって来たのだ。
そして、その傍らに倒れて動かないのは……。
施錠された狭いマンションの一室。
命を絶った女性と、ぐったりして目も虚ろな幼い少女を発見した
女性、──
その娘である
──────────────
圭亮さんへ
あなたの娘がいます。別れたあとで生まれました。名前は真理愛です。
最後に会ってあげてください。おねがいします。
さようなら。
今日子
──────────────
「この手紙に、部屋の鍵が入って届いたんです。悪戯とか冗談、ってまったく疑わなかったわけじゃないんですけど。メールならともかく、わざわざ手紙だったから。だって手紙なんて使わないでしょ、いまどき。……なんか不安になってしまって、行かなきゃいけないんじゃないかって思って」
圭亮は、封筒の裏に書かれた住所を訪ねて発見者になった経緯をありのままに説明する。
「以前に今日子、あ、倉吉さんと付き合っていたのは事実です。別れてもう、──五年以上にはなると思いますが。それから一度も会っていません、本当に」
「そうですか。お子さん、……真理愛ちゃんのことはご存じなかった?」
初めて会う刑事という人種は、案外と普通で特別威圧感があるわけでもなかった。愛想もよくはないが悪くもない。ドラマと同じく二人組だが、若い方は無表情で一言も口を利かなかった。
話すのは年嵩の方だけだ。
「はい、この手紙を見るまでは全然」
「今日子さんの死因は、向精神薬の
「……自殺、ってこと、ですよね?」
圭亮の問いに、刑事は淡々と答える。
「断定はできませんが、現場の状況からはおそらく」
「あ、あの子、は? 大丈夫だったんですか?」
少女に質問が及んだ時、若い方の刑事が初めて感情を表した。ほんの一瞬、歪んだ表情。
……刑事も人間だ。もしかしたら、人の親なのかもしれない。
「ええ。栄養状態が悪いのと、他にも少しあってしばらく入院は必要だそうです。あの部屋に、すぐ食べられるようなものは皆無でした。真理愛ちゃんが口にできたのは、その間水道の水だけで。……空腹で力尽きたと思われます。医師の話では、数日間は固形物は何も食べていなかったのではないか、と」
圭亮は今回初めて知ったのだが、今日子には係累がまったくいないらしかった。まさしく天涯孤独。
だからこそ、圭亮以外に頼る当てもなかったのだろう。
一人ではどうしていいかわからずに、圭亮は実家の両親に連絡を取った。
しどろもどろですぐ黙り込んでしまう圭亮を叱咤しながらも、父の
「圭亮! 子ども、って」
「お、俺にもまだよくわからないんだよ。今日子、あ、以前に付き合ってた人が、俺の子がいるって手紙くれて、行ってみたら今日子は死んでて、この子、が」
病室の小さなベッド。点滴の管に繋がれて、天井を見つめて横たわっている
意識はあるものの、彼女はまったく言葉を発することはない。目線さえ寄越さない。まるで、生きている人形の如く。
圭亮は、自分の隣に立ってベッドの少女を覗き込んでいた母に腕を引かれた。何も考えられずに抵抗する気も起きないまま、狭い個室の隅に連れて行かれる。
「圭亮。今こんなこと言うのは、ちょっとそのあれなんだけど。……亡くなった方、を疑うわけじゃないけど、本当にあなたの子かどうかわからないでしょう。その、ディーなんたら鑑定? とかいうのやった方が──」
「母さん! 止めてくれよ、真理愛に聞こえる!」
良枝の台詞に、圭亮は思わず反論していた。
己の中に確かにあった疑惑を、母によって白日の下に晒された後ろめたさを無意識に誤魔化すかのように。
ハッとしたように口を噤む母に、まるで理不尽な八つ当たりをした気分になる。
「圭亮、お母さん。この子、誰かに似てないか?」
一人ベッドの横に残っていた父の政男の、場違いなくらい落ち着いた声に、母子は毒気を抜かれたようにそちらに顔を向けた。
「お父さん、いったい何なの? 圭亮、場所を考えなかったのはお母さんが悪かったわ、でも」
おろおろしている母から離れ、圭亮はベッドの脇に戻って来た。
「何だって? 父さん」
「だからこの子の顔。よく見てみろ」
「顔、って──」
まったく動かない、生気のない瞳。ぱっちりと見開かれた、大きな……。
「かあさ、ん?」
「……何? 圭亮」
「ち、がう。この子、……真理愛。母さんに、似てる」
圭亮の絞り出すような声に、良枝は半信半疑の様子でフラフラと歩いて来た。
「何を言ってるの? 似てるって、どこが?」
「ああ、自分ではわからないものなのか。……目元がそっくりだ。ほら、この瞼とか。圭亮はお前とは似てないのに、不思議なもんだな」
政男の言葉通り、くっきり刻み付けたような特徴的な二重瞼は、良枝から受け継いだものだと一目でわかる。
「俺、小さい頃から母さんに似てない似てないって言われたもんなぁ。親戚にも『お母さんは目が大きくてえらい
「私は嫌だったのよ、こんな目。田舎だったから変に目立ったし。……でも、本当にそう、なの? 私に?」
圭亮は、母方の親族とは一人を除いて没交渉だ。母の弟にあたる叔父以外、存在さえ知らされたことはなかった。
子ども心にも美しいと感じていた母。母に似た顔立ちの叔父。二人は、母が二十歳そこそこの頃に田舎から逃げるように東京に出て来たらしい。
今の反応でも自明の通り、母は己の外国人風と言えなくもない顔立ち、特にくっきりした目元についてできる限り触れて欲しくなかったようだ。
だから圭亮も大まかなところしか知らされてはいないが、生家では血筋を疑われて相当苦労したという。
「この子は、圭亮の子だよ。つまり、俺とお前の孫だ」
事態を飲み込めていない様子の良枝に、政男がきっぱりと言い渡した。
翌日、二人組の刑事はまたやって来た。
圭亮はよく眠っている真理愛を病室に残し、看護師に声を掛けて談話コーナーへ向かう。今度は良枝も同席することになった。
「虐待?」
「ええ。真理愛ちゃんは母親の今日子さんに、日常的に虐待を受けていたと推測されます」
「ぎゃ、虐待、って。あんな小さな子を殴ったりとか、あの」
突き付けられた、あまりにも重い事実を受け止めきれない
「いえ、そういう身体的なものではなく、養育放棄。所謂ネグレクトと呼ばれるものです。しかし、虐待には違いありません」
「あの、真理愛は栄養失調だって言われたんですけど。今日子が死を考えるような状態だったから、死ぬ前から僕が見つけるまで何も食べられなかった、だけじゃ、なくて?」
「あなたに発見されるまでの数日間、真理愛ちゃんが水以外摂取していないのはまず間違いないそうです」
「はい、それはまあわかる気もするんです。言葉は悪いですけど、それどころじゃなかった、っていうのか。……そういう特殊な状況なら、誰だって」
縋るような思いでようやく口にした圭亮に、刑事の答えは甘いものではなかった。
「交友関係から外出状況を聞く限り、以前から真理愛ちゃんを一人置いて家を空けることは度々あったようなんです。発育状態から見ても、おそらく普段からきちんと食事も与えていなかったのでは、と」
「そんな、酷い……」
良枝の苦しげな声。
「真理愛ちゃんは今、四歳と九か月です。一般的には幼稚園や保育園の年中組、と言うんですかね、それにあたる年齢になります。しかし、調べられる範囲では就園した記録はありません」
「えっと、それって。生まれてからずっとあのマンションの部屋にいた、……今日子に閉じ込められてた、ってことですか?」
圭亮の問いに、刑事は少し考える素振りを見せた。
「それは現時点では何とも言えません。ただ、同じマンションの住人にも、真理愛ちゃんの存在はほとんど知られていなかったようです。少なくとも、『泣き声が聞こえた』『異常を感じた』と言う証言は出て来ていません」
「……小さな子が、赤ちゃんがいたら、普通周りにはわかりますよね? 泣き声もそうですし、公園に連れて行ったりとかで人目につきますから」
遠慮がちに口を挟んだ良枝にも、刑事は肯定も否定も返さない。
「外に連れ出した形跡がなくても、それだけで閉じ込めていたと判断することはできませんから。泣き声にしても、聞こえないからなかったとは言えないでしょう。……単身世帯が多いマンションで、留守にしている部屋も少なくなかったので、すべての住人から聞き取りができたわけではないんです。ですから、今後新たな証言や目撃情報が出て来る可能性はあります」
そのあとすぐに話を終えて帰って行く二人を見送った。
警察案件ということもあるのかは圭亮にはわからなかったが、真理愛には常時の付き添いは不要だった。
圭亮が二人を発見したのは土曜日。
金曜日の夜、仕事を終えて帰宅したところに手紙が届いていたのだ。スマートフォンのアドレスからも今日子のデータは削除していて、直接訪ねる以外に連絡を取る方法もなかった。そもそも、彼女と別れてから何度か機種変更しているのだが。
手紙の内容が気にはなったものの、さすがに何の確証もなく夜遅く動こうとは思えなかった。翌朝に封筒の住所とマンション名を検索して、ルートを調べた上で訪問したのだ。
翌日曜日は一日病院に張り付いていたが、月曜からは普段通りの勤務を続けている。
圭亮は仕事の帰りに毎日病室を訪れ、時間が許す限り真理愛の傍についているように努めた。両親も日々顔を出してくれている。
法的な手続きはこれからだが、圭亮は真理愛を娘として引き取る意思を固めていた。
「圭亮。あの子が退院したら、一緒に
「父さん、でも──」
「……あの子はお前ひとりで育てるのは無理だ。たとえ空きがあったって、すぐに保育園に入れられる状態じゃないと思う。おそらく特別なケアがいる。ただでさえ仕事をしながらの単身での子育ては大変なのに、今のお前にそこまでできるわけないだろう」
政男は六十歳になる年度末だったこの三月に定年退職しているが、在職中は福祉分野にも携わっていた。
福祉のプロとまでは言えないが、圭亮とは比べ物にならない知識と経験は有している筈だ。
「そうよ、圭亮。昼間はうちで私とお父さんが面倒みるから。あなたは一緒に居る時間だけ大事にしてあげて」
「父さん、母さん。親不孝者でごめん」
項垂れる圭亮に、政男は何でもない風に告げた。
「何言ってるんだ。絶対無理だと諦めてた孫ができたんだぞ。むしろ喜ぶところじゃないか?」
「そうよねぇ。圭亮は結婚もしないと思ってたから」
両親が孫を望んでいたらしいことなど、圭亮は今の今まで知らなかった。
匂わされた覚えも一切ない。
確固とした独身主義というわけではないが、圭亮には二十九歳になる今まで結婚願望はまったくなかった。
本音を言えば、子どもも特に好きなわけではない。欲しいと思ったこともなかったのだ。
これまで交際してきた数人の女性とも、結婚の話題はさり気なく避けるようにしていた。
相手を縛る気もないが、何より縛られたくなかった。責任を負わない、自由な立場で彷徨っていたかった。
いざ言葉にしてみれば、三十目前だというのに恥ずかしい限りのいい加減さではあるが。
その空気を読んでか、あるいは単に魅力がないと見限られたからか、圭亮は常に振られる方だったのだ。
そういえば、今日子も向こうから離れて行った。
彼女と付き合っていたのは、就職した年の夏から翌春に掛けてだった。
二年目に入った頃から会う間隔も空いて行ったのだが、仕事が楽しく、また忙しくなり追うこともしなかった。
特にこれという、きっかけになった出来事はなかったように思う。
彼女からの連絡が途絶えがちになり、会う頻度が下がって行ったのは当然感じていた。だからと言ってどうしても繋ぎ止めたいと努力することもせず、なんとなくそのまま疎遠になって自然消滅してしまった、気が。
別れたときの記憶さえ曖昧な自分に愕然とする。娘、の母だった彼女に対する、あまりにも薄い想いに。
……今日子が妊娠を知ったのはいつだったのか。何故、黙って一人で産んだのだろう。
そこでようやく思い至る。
もしあの頃、子どもができたと打ち明けられていたら? 圭亮はまだ二十三、四だった。「結婚しよう」と、「産んでくれ」と迷いなく告げる自信などなかった。
いや、今でさえ即答できる気がしない。
今日子がそこまで見通していたのかはわからない。別れたあとで気がついて、もう産むしかない状態だったのかもしれない。
それでも彼女にとって圭亮は、我が子の父親として信頼するに足る存在だとは見做されていなかったのではないのか。
──最後の最期になるまで。