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第十四幕 交錯する運命、残照の祈り

暁闇が徐々に薄れ、東の空が白み始める頃。

真田の屋敷は出陣の準備に追われ、騒然とした空気に包まれていた。


「急げ! 鎧櫃は!?」

「馬の支度を急がせろ!」


怒号にも似た声が飛び交い、足軽たちが慌ただしく駆け回る。

庭先では焚火が赤々と燃え上がり、出陣を控えた者たちの顔を不安と緊張に染めている。


そんな中、頼昌は家臣たちに、矢継ぎ早に指示を出していた。

その表情は厳しく引き締まり、長年戦場を駆け抜けてきた武将としての覚悟と決意が、その瞳に宿っている。


「殿! 申し上げます!」


その時、伝令が膝をつき、荒い息を吐きながら報告した。


「武田の進撃、想像を絶する速さ! 佐久郡の諸城は瞬く間に蹂躙され、その数すでに二十を越える模様!」


その言葉は冷たい刃のように頼昌の胸に突き刺さった。

しかし頼昌は表情を変えることなく、冷静に次の質問を投げかけた。


「村上と諏訪の方はどうだ」


伝令は、震える声で答えた。


「はっ! 諏訪と村上、両軍は、連携を取りつつ、小県郡の国境の衛線を突破! 我が方の兵は各地で、苦戦を強いられており、もはや時間の問題……!」


その報告は絶望的な状況を、さらに悪化させるものであった。

しかし頼昌は顔色一つ変えず、じっと頭の中で戦略を巡らせる。

その瞳には、絶望など宿っていない。



そして、源太左衛門はというと──武者震いを必死に抑え込みながら、騒がしい屋敷の庭に、一人静かに立っていた。


「……」


手には愛用の十文字槍。その穂先は朝日に照らされ、冷たい光を放っている。

彼は無言でその穂先を見つめていた。

周囲を駆け回る家臣たちの慌ただしい様子など、目に入らないかのように。


「源太左衛門」


不意に背後から声がかけられた。

聞き慣れた、しかしどこかいつもとは違う、緊張を含んだ声。


「胡蝶か。どうした?」


源太左衛門は振り返り、胡蝶に声をかけた。

その声は普段と変わらぬ明るい響きを帯びている。


「……」


しかし胡蝶は何も答えない。

ただじっと、源太左衛門を見つめている。

何かを言いたげでありながら、同時に、何かを言い淀んでいるかのようでもある。

薄絹の衣を纏ったその姿は、朝靄の中に溶け込んでしまいそうなほど、儚げで……。


そんな胡蝶の姿を見て、源太左衛門は、ふっと笑みを浮かべた。

緊張で強張っていた肩の力を抜くと、胡蝶の肩を軽く叩いた。


「何をそんなに神妙な顔をしておるのだ? 言いたいことがあるならば、遠慮なく言ってみろ。お前らしくもない」


その声は優しく、温かく……幼い弟を諭すかのような口調であった。

その言葉に胡蝶はようやく、重い口を開いた。


「此度の戦は……その……本当に、大丈夫なのであろうか。お前も、父上も、すぐに戻ってきてくれるよな?」


声は小さく、震えている。

いつもの、冷静沈着な胡蝶らしからぬ言葉であった。

その言葉に源太左衛門は、一瞬悲しげな表情を浮かべた。

彼の瞳には、この戦の厳しさを十分に理解していること、そして胡蝶の不安を見抜いていることが、はっきりと示されていた。


「ははっ」


しかし、すぐにその表情は明るい笑みに変わった。


「何を馬鹿なことを言っておるのだ。この、真田源太左衛門幸綱が、負けるわけがなかろう!」


源太左衛門はわざと大袈裟な身振り手振りを交え、胸を張って言った。

その言葉と表情は、自信に満ち溢れている。


「それに、海野の殿もきっと良い策を考えておられるはずだ」


源太左衛門は言葉を続けながら、胡蝶の目をじっと見つめた。


「心配するな、胡蝶!俺は必ず、生きて戻る。そして必ず、武功を立てて、お前に自慢話を聞かせてやる」


源太左衛門はそう言うと、再び胡蝶の肩を軽く叩いた。


「だから、お前は、安心して、ここで待っていれば良い。……母上を、頼んだぞ」


源太左衛門の表情には、悲壮感が微塵も感じられない。

それは彼がこの戦の厳しさを十分に理解していながらも、決して諦めていないことの証であった。


「源太左衛門、支度は整ったか」


不意に背後から力強い声がかけられた。

二人が振り返ると、そこには頼昌と琴が、寄り添うように立っていた。

頼昌はすでに鎧を身につけ、腰には愛刀を佩いている。


一方、琴は華やかな着物を身につけているものの、その表情は明らかに暗く、沈んでいる。

不安げに揺れる瞳、固く結ばれた唇、わずかに震える指先が、彼女の心の内の激しい動揺を物語っていた。

嵐の前の静けさのように、張り詰めた空気が彼女の周囲を包み込んでいる。


「父上。この源太左衛門、いつでも出陣できます。……武田の不埒な輩どもに、真田の武威、とくと見せつけてくれましょうぞ」


源太左衛門は頼昌の問いに、力強く答えた。その声は、自信に満ち溢れている。

これから始まる戦が、自身の武勇を示す絶好の機会であるかのように。

その言葉に頼昌は何も言わず、ただ深く頷いた。

頼昌は源太左衛門の肩を、力強く叩いた。源太左衛門も、無言でそれを受け入れる。


「……」


二人の様子を黙って見ていた琴が、ゆっくりと歩み寄ってきた。

その瞳には涙が今にも溢れ出しそうに、溜まっている。


「ご無事で。そして、必ず、ここに戻って来てくださいませ」


琴はそう言うと、頼昌の鎧の胸元にそっと手を触れた。

その手は、白く、細い。


「ああ、約束しよう」


頼昌は琴の手を優しく包み込むと、力強く答えた。

その言葉には深い愛情と、決意が込められている。

琴は次に、息子を見て、言った。


「貴方も無理はしないで……必ず、必ず、生きて、戻ってきておくれ」


琴はそう言うと、源太左衛門の頬にそっと手を伸ばした。

その手は、わずかに震えている。


「母上。ご心配には及びませぬ。この源太左衛門、必ずや武功を立て、母上に良い土産話を持って帰って参ります」


その言葉には母親を安心させようという、息子としての優しさが込められていた。

その瞳の奥に、かすかな不安の色が浮かんでいるのを、琴は見逃さなかった。


「……えぇ……信じて、いるわ」


琴は精一杯の笑顔を作り、そう答えた。

しかしその声は、わずかに震えている。息子の不安を指摘することはしない。それは彼が既に元服を済ませた、一人前の武士であるから。

そして何より……息子の覚悟を、誰よりも理解しているからであった。


──覚悟を決めているであろう息子に、母として、一体何が言えようか。


本当は「行かないで」と縋り付きたい。

「危ないと思ったら、すぐに逃げなさい」と言ってやりたい。

それが、母としての偽らざる本心であった。


しかし、それでは駄目なのだ。

それでは、武家の妻として、そして武士の母として失格なのだ。


(それでも)


琴は心の中で小さく呟いた。


(それでも、辛いものは、辛い)


琴は必死に涙を堪えた。

ここで涙を見せてしまえば息子を、夫を不安にさせてしまう。

それは武家の妻として、決してあってはならないこと。


(母上……)


──胡蝶はそんな母の気丈な振る舞いと、その裏に隠された張り裂けんばかりの悲痛な想いを、全て察していた。

長年共に暮らしてきたのだ。母の心の機微など、手に取るように分かる。

そして自分もまた、同じ気持ちであった。

いや、それ以上に不安、恐ろしかった。源太左衛門を……そして、父・頼昌を失ってしまうのではないかと。


胡蝶は、いてもたってもいられず、頼昌の前に勢いよく膝をついた。


「父上! お願いでございます! 私も、共に、戦場へお連れください!」


絞り出すような声であった。しかし、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。


「胡蝶」


頼昌が胡蝶の言葉を遮るように、低い声で名を呼んだ。

その声はいつもの優しい父の声ではない。厳しく、重い武士の声であった。

胡蝶はびくりと、身体を震わせた。まるで雷に打たれたかのように。


「お前の気持ちは、よく分かる。しかし、それは許されぬ」


頼昌は胡蝶の目を、じっと見つめながら言った。


「何故でございますか? 私とて、武芸の心得はございます! 足手まといには、なりませぬ!生きるか死ぬかの瀬戸際で、武士の面目など……!」


胡蝶は食い下がるように言った。その声は震えている。


「そうではない」


頼昌は、首を横に振った。


「お前には大切な役目があるのだ……この真田の家を、そして琴を守ること。それが、今のお前の役目だ」


その瞳には胡蝶への深い信頼と、愛情が込められている。

胡蝶は父の瞳を見た瞬間に、口を開けなくなった。そして、体が……動かない。


「それが、お前にしかできぬ、役目だ。……分かってくれるな、胡蝶」



父の言葉は、重い鎖のように、胡蝶の心を縛り付ける。


(私には、私の役目がある……しかし……)


父への不満……そして自分だけが、この場に残されることへの言いようのないもどかしさ。

しかし同時に、父の言葉が正論であることも、理解している。

しかし、同時に胡蝶の心の中には言いようのない不満と、焦燥感が渦巻いていた。


──自分も、共に戦いたい。

──父の、そして源太左衛門の力になりたい。


それなのに自分は何もできない。自身が女子ならば、諦めもついたが、戦う力があるのに、ここで無事を祈ることしかできない。

それが、胡蝶には耐え難いほど悔しかった。


「殿! 出陣の支度、万端整いました!」


その時、鋭い声が響き渡った。

見ると鎧を纏った家臣たちが、頼昌の前に一斉に膝をついている。


「……うむ」


頼昌は短く、重々しく答えた。

そして、最後に胡蝶を一瞥した。胡蝶もまた、父を見つめ返した。

その瞳には言いようのない寂しさが浮かんでいる。


(……父上)


何かを言おうとした。

しかし言葉は出てこなかった。

喉の奥に何かがつっかえているかのようであった。

頼昌はそんな胡蝶の気持ちを全て理解しているかのように、静かに頷く。

そして胡蝶と琴に背を向け、家臣たちに力強く号令した。


「皆の者、出陣じゃ! 我らが武威、敵にとくと見せつけてくれようぞ!」

「応!」


家臣たちが一斉に、雄叫びを上げる。

その声は、大地を揺るがすほどの迫力。そして、頼昌はゆっくりと歩き出した。


「胡蝶!」


源太左衛門が胡蝶に声をかけた。

その声は明るく、力強い。


「心配するな!俺と父上がいる限り、この真田の郷には指一本触れさせぬ!母上を、頼むぞ!」


源太左衛門はそう言うと、胡蝶に笑顔を見せた。

そして源太左衛門は踵を返し、父の後に続いた。


「……」


胡蝶は遠ざかっていく父と源太左衛門の背中を、ただじっと見つめていた。

二人の姿は、徐々に小さくなっていく。

朝日を浴びて輝く鎧も、今はもう霞んで見える。

それでも胡蝶は目を逸らすことができなかった。

──今、目を逸らしてしまえば、二度と二人に会えなくなってしまうような……そんな気がしたのだ。


その隣には、母・琴が静かに立っていた。

彼女もまた、遠ざかっていく夫と息子の背中を、じっと見つめている。

その瞳には涙は、なかった。

しかし、その強くあろうとする姿がかえって胡蝶の心を締め付ける。


琴と胡蝶は何も言わず、ただ、立ち尽くしていた。

聞こえるのは風の音と、遠くから聞こえてくる、兵士たちの足音だけ。

その音は徐々に遠ざかっていく。

そしてついに、二人の姿は完全に見えなくなった。


「あぁ……行って、しまった」


琴の呟きが、空に消える。

空はどこまでも青く、澄み渡っている……。

しかしその青空は、今の自分たちには、残酷なほど美しく見えた。

まるで……この世の全てが自分たちを置き去りにして、進んでいくかのようで──。


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