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第十三幕 侵略の狼煙、赤き奔流

信濃国、海野領に位置する小高い丘の上に築かれた丸山砦は、今まさに、巨大な黒雲に覆われんとしていた。


「な……なんだ……あの数の兵は……」


砦の見張り台に立つ兵士は、掠れた声で呟いた。その目は恐怖に見開かれ、顔は青ざめている。

眼下に広がるのは、夥しい数の武田兵。黒い蟻の群れが、獲物を求めて蠢いているかのようだ。

彼らは砦を取り囲むように布陣し、その数は増え続けている。


「おい、見ろあいつらを!」


武田軍の兵士たちは、皆同じ意匠の兜、胴丸、そして、揃いの槍を携えた兵士たちが、整然と並んでいる。

この時代、兵士たちの装備は、各自で調達するのが一般的であった。故に、同じ軍勢の中でも、装備はバラバラ。それが当たり前なのだ。

しかし、眼下に広がる武田軍の兵士たちは、まるで一つの意思を持つ、巨大な軍団のように見える。


それは武田家の強大な経済力、統率力の高さを、如実に物語っていた。

兵士たちは、その異様な光景に言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くす。

砦の内部は、混乱と喧騒に包まれていた。兵士たちは右往左往し、怒号が飛び交う。


「急げ!持ち場につけ!」

「弓の準備はまだか!」

「狼煙を上げろ!早く!」


誰もが焦燥感に駆られ、冷静さを失っていた。


「伝令!伝令!至急、伝令を出せ!赤坂砦と、狐塚砦に援軍の要請を!急げ!」


指揮官が、嗄れた声で叫んだ。

しかし、その言葉は、すぐに絶望的な報告によって、かき消される。


「赤坂砦、狐塚砦、共に武田の別働隊に包囲されており、援軍は望めませぬ!」

「な、なんだと……!?」


隊長は言葉を失った。

周囲の砦もすでに、武田方に包囲されている──。

それはすなわち、この砦が孤立無援であることを意味していた。


「どうすれば良いのだ……」

「あんな大軍、相手にできるわけがない!」


兵士たちは口々に絶望的な言葉を呟き始めた。

士気は急速に失われ、砦内は混乱と恐怖に支配されていく。

慌てふためく声、武具のぶつかり合う音、そして絶望的な嘆き声が砦中に響き渡っていた。




──そして、そんな砦を遠くから見つめる、双眼。




武田軍の中央、ひときわ目立つ場所に、武田菱の描かれた、大きな旗がはためいている。

その旗の下、木椅子に腰掛け、腕組みをしている一人の若武者──。


「……」


年の頃は二十歳前後であろうか。

その顔立ちは、精悍でありながら、どこか冷たい印象を与える。

彫りの深い目元、高い鼻梁、そして固く結ばれた唇は、意志の強さを物語っていた。

年若いながら瞳には、周囲を圧倒するような鋭い光が宿っている。

戦場に渦巻く死の匂い、血の匂い。彼はそれらを、まるで芳醇な酒の香りであるかのように、深く吸い込んで、口を開き──


「笑止千万。なんと無様な光景か」


その若武者は、薄く笑みを浮かべ、嘲るように呟いた。

その声には隠しきれない退屈さが滲んでいる。

その言葉に傍らに控えていた側近の将が、主君に同調するように不敵な笑みを浮かべた。


「全に。海野の者ども、あのような頼りなき砦と、雀の涙ほどの兵で、我ら武田の精鋭を止められると、本気で思っているとは……哀れでございますな」


側近は大袈裟な身振り手振りを交え、嘲笑を込めて言った。

それを聞いた若武者は、やれやれと大袈裟に肩を竦めた。その仕草は、子供の駄々を宥める成熟した大人のようであり、同時に底知れぬ威圧感を放っている。


「俺が無様だと言ったのは、あの脆弱な砦のことではない」


若武者はそう言うと、顎で自身の周囲に布陣する武田軍の軍勢を指し示した。


「この、我が武田の軍勢のことよ」


その言葉は、予想外の方向から飛んできた刃のように鋭く、側近の胸に突き刺さった。


「……は?」


側近は主君の言葉の真意を理解できず、目を丸くして間の抜けた声を上げた。

その表情は先ほどまでの嘲笑が嘘のように消え失せ、困惑とわずかな恐怖に染まっている。

そんな側近の姿を見て、若武者はくつくつと喉を鳴らして笑った。


「あのような支城を落とすのに、せいぜい、兵は数百もあれば十分であろう。……だというのに、この大袈裟な陣立ては、一体、何だ? 祭りの練り歩きかと思うたわ」


若武者は皮肉たっぷりに言い放つと、遠く小高い丘の上にそびえる砦を見つめた。

その瞳には軽蔑と、そしてかすかな苛立ちの色が浮かんでいる。まるでこの光景が、彼の美学に反する不快なものであるかのように。


「『もし』、この俺が大将であるならば……そうさな」


若武者は顎に手を当て、思案するように呟いた。その瞳には冷徹な光が宿り、盤上の駒を動かすかのように戦の行く末を見据えている。


「まず、この砦には、精鋭の弓兵を五十、足軽を百ほど残す。そして、本隊は二手に分け、一隊は飯富砦へ、もう一隊は西の諏訪領との境にある狼煙台を、密かに制圧する」


若武者は流れるような口調で作戦を述べ始めた。

その言葉は淀みなく、迷いがない。すでに彼の頭の中では、戦の全てが決着しているかのようであった。


「砦に残した兵には、敵を挑発させ、注意を引きつけておく。その間に別動隊が周囲の拠点を、一つずつ確実に落としていくのだ。そして……最後にわざと、北へ続く道を開けておく」


若武者の指が、空中に地図を描くように動く。

その指先は正確にそれぞれの拠点の位置を示し、そこに本当に砦や狼煙台が、存在するかのように見えた。


「逃げ道があると思えば、敵は必ず、そこから脱出しようとする。そうなれば、こちらの思う壺よ。殆ど犠牲を出すことなく、砦を制圧し、進軍出来る──」


若武者の言葉は冷徹でありながら、合理的であった。

それは、人の命を単なる数字としてしか見ていない、冷酷な戦略。

しかし同時に、最も効率的で、最も死人が少なく、最も確実な勝利を約束するものでもあった。


「……」


その言葉を聞いていた側近は、全身に、冷たい汗が流れるのを感じた。

目の前の若武者の恐ろしいまでの聡明さ、冷酷さに圧倒されたからであった。

そして、同時にその言葉の中に「もしも大将であるならば」という不穏な響きを感じ取り、身体を硬直させた。

忠誠心と恐怖心が入り混じった、複雑な感情が側近を支配する。


そんな彼の様子を見て、若武者はさらに愉快そうにくつくつと笑った。


「このように何の考えもなしに、完全に包囲してしまえば、敵とて死に物狂いで戦う他あるまい。……あぁ、愚か極まりない。無様極まりない」


若武者は嘲笑を込めて言い放った。

そして、ゆっくりと立ち上がる。その瞬間、周囲の空気が、一変した。

まるで、巨大な猛禽類が、翼を広げたかのような、圧倒的な威圧感。

それは、生まれながらの支配者の風格。この乱世を、力で制する者の、傲慢なまでの自信。


「さて」


若武者は薄く笑みを浮かべ、呟いた。


「武田の『出来損ない』の当主殿に代わり、この不肖の息子めが、直々に手本を見せて差し上げるとしよう──」


その瞳は、もはや眼前の小さな砦など見ていなかった。

彼の視線は、はるか遠く、この信濃の地を……そして、その先にある、天下を見据えているかのように──。


この大胆不敵、そして冷酷な戦略を披露した若武者の名は──武田晴信。

源氏の名門、甲斐源氏嫡流たる武田家。その栄光ある家督を継ぐべき、若き嫡男である。


漆黒の髪は風に靡き、生き物のようにうねりを上げる。

深紅の鎧は夕日を浴びて、燃え上がる炎のように、輝きを放つ。


──彼こそが後の世で「甲斐の虎」と呼ばれる男。


そして武勇と智謀を天下に轟かせることとなる戦国武将として、その名を歴史に刻む……


「武田信玄」その人であった。


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