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第十二幕 乱世の奔流、抗えぬ運命

空は抜けるように青く澄み渡り、柔らかな日差しが大地を暖かく包み込んでいる。

しかし、その穏やかな光景とは裏腹に、見張り台に立つ番兵の男の表情は、強張っていた。

その視線は遠く、北の山並みに釘付けになっている。


男の役目は更に北にある狼煙場からの合図を確認し、自分もすぐさま狼煙を上げ、南の狼煙番に知らせること。

特に、このところ不穏な動きを見せる北の村上には、厳重な警戒が必要であった。


「……」


この数日、何度目を凝らしても敵の姿は見えない。

見えるのはただどこまでも続く、青々とした山並みだけ。


(……村上軍がこちらに向かっているという情報……間違いであれば良いのだが)


男は不安を振り払うように頭を振った。

その時だった。


「……!」


男の目に、遠くの山頂にゆらりと立ち上る、黒い煙が飛び込んできた。


(狼煙……!)


男は、息を呑んだ。

その煙は次第に太く、濃く、そしてはっきりとその姿を、天に昇らせていく。

間違いない。あれは狼煙だ。


──しかも、ただの狼煙ではない。

尋常ではない、太さと濃さ。


(敵襲だ……!)


男は全身に、冷たい汗が噴き出すのを感じた。

その手は震え、心臓が早鐘のように激しく打ち鳴らされている。


震える手で、腰に下げた火打石を取り出し、乾いた薪に打ち付けた。

しかし手が震え、なかなか火がつかない。


「くそっ……!」


男は悪態をつきながら、何度も何度も、火打石を打ち付けた。

そしてようやく、小さな火種が生まれた。


その火種を大切に薪に移し、息を吹きかけ火を大きくしていく。

やがて炎は勢いよく燃え上がり、黒い煙が空高く立ち上った。


その煙を確認した男は、周囲の山々を見渡した。


(……この煙の量……敵は、どれほどの、数なのだ……?)


男は不安に駆られながら、丸めた両手を目に当て、遠くの山裾を凝視した。

すると、そこには黒い蟻の群れのように、うごめく無数の人影が、見えた。


「……!?」


それは紛れもなく、敵の軍勢。

先頭には風になびく村上家の旗。それは村上家の当主も出陣していることを意味しており……つまりは、主力の精兵──


「ば、馬鹿な……」


その後ろには、槍を構え鎧を纏った兵士たちが、整然と隊列を組み、進んでくる。

その数は数百ではきかない。

数千は、いるだろうか。


巨大な黒き龍が、うねりながらこちらへ向かってくるかのような圧倒的な迫力に、男は思わず息を呑んだ。


(あ、あんな、大軍が……!)


男は恐怖に足がすくむのを必死に堪えながら、再び狼煙を見上げた。

黒い煙は空高く立ち上り、この地に迫り来る巨大な災厄を告げているかのようであった。




──そして、諏訪郡との境を見張る兵士も、また同じであった。




「!」


見張りの兵士は、このところの不穏な情勢を鑑み一睡もせず、目を皿のようにして周囲を警戒していた。

その目に、南の街道を土煙を上げながら、こちらへ向かってくる一団の姿が飛び込んできた。


(まさか……!)


彼は息を呑み、目を凝らした。


最初はただの土煙としか見えなかった。

しかしそれが次第に近づいてくるにつれ、徐々にその姿を現していく。

先頭には諏訪梶の葉が描かれた、旗印。

その旗は燃え盛る炎のように激しく、そして威風堂々とはためいている。


「な……なんという大軍か……!?」


男は恐怖に顔を引き攣らせ、掠れた声で呟いた。

その手は震え、全身から冷たい汗が噴き出している。


「急ぎ、御屋形様にこのことをお伝えせねば!しかも、あの旗印があるということは……諏訪頼重自ら、軍勢を率いているのは明白……!」


見張りの兵は震える声で叫んだ。


「伝令! 馬を用意せい!」


兵士たちは慌てて腰に下げた早鐘を打ち鳴らし、周囲に敵襲を知らせた。

そして数人の兵士が伝令役として選ばれ、馬に跨り海野の屋敷へと向かって駆け出した。


「敵の数は……少なくとも三千……! とにかく急げ! 一刻も早く、御屋形様にこのことをお伝えするのだ!」


砂塵が舞い上がり、馬の嘶きが空に響く。

一本の矢のように、彼らは海野の屋敷を目指し、駆けていく。

背後に、諏訪の大軍勢の気配を感じながら──。




♢   ♢   ♢




海野家の屋敷は未曽有の混乱と喧騒に包まれていた。

重厚な梁と柱で組まれた広間は、普段であれば静謐な空気が漂っているはずだが、今そこにあるのは、切迫した空気と焦燥感だけ。


「村上が攻めてきたというのは本当か!?」

「南からは諏訪の大軍勢が迫っていると!?」

「国人衆にも、声をかけよ! このままでは海野が滅ぼされるぞ!」

「山内上杉へ送った使者はまだ戻らぬのか!?」


怒号と、悲鳴にも似た叫び声が広間中に響き渡る。

武将たちは顔を真っ赤にし、額に汗を浮かべ早口で指示を飛ばしている。

その顔には焦りと不安、恐怖の色が浮かんでいた。


「……」


普段は冷静沈着、泰然自若としている海野棟綱でさえ、その顔には隠しきれない動揺が浮かんでいる。

その瞳は激しく揺れ動き、その手は微かに震えていた。

長年、この乱世を生き抜いてきた歴戦の猛者でさえ、この未曽有の事態には冷静ではいられないのだ。


「敵は本当に村上と諏訪なのか!? 何かの間違いでは……」

「し、しかし何故今……!?」

「分からぬ……分からぬが、今はそんなことを考えている暇はない!」

「物見からの伝令はまだか!?数が分からねば、どうしようも……」


情報が錯綜し、混乱に拍車がかかる。

誰もが事態を正確に把握できず、ただ右往左往するばかり。


そんな中──海野棟綱の娘婿、真田頼昌が手を翳し、叫んだ。


「とにかく、急ぎ、配下の武家に伝令を走らせよ! 兵を一人残らず掻き集めるのだ!」


その声に家臣たちは我に返り、再び慌ただしく動き始めた。

しかし混乱と動揺は、簡単には収まりそうにない。


「御屋形様! しっかりとなされい! 大将たる者、冷静沈着、事態を見極めねばなりませぬ!」


広間に響き渡る頼昌の声。それは混乱と喧騒を切り裂くように力強く、棟綱の耳に届いた。


「う、うむ……。そなたの言う通りじゃ……」


棟綱は、はっと我に返り、大きく深呼吸をした。その瞳から徐々に動揺の色が、消えていく。

この混乱の極みにある状況下で、頼昌だけは不思議なほど冷静であった。その表情は普段と変わらず、声は静かで力強い。


──その時であった。


「伝令!伝令!申し上げます!」


一人の伝令兵が土埃にまみれ、息を切らしながら広間に駆け込んできた。

その顔は青ざめ、目が恐怖に見開かれている。


「申し上げます! 更級郡より、村上の軍勢が、南下してきております!」


伝令兵は掠れた声で叫んだ。


「数は!? 敵の数は、どれほどじゃ!?」


武将たちは色めき立ち、口々に伝令兵に問いかけた。


「はっ……! 少なくとも、二千……! 周囲の国人衆も村上に呼応し、続々と兵を集めており……その数はさらに増えるものと……!」


伝令兵は震える声で答えた。

その言葉は広間に重く響き渡る。


「二千以上……だと……!?」


武将たちは顔面蒼白となり、言葉を失った。

二千を超える、大軍勢。

しかもそれはまだ増え続けているという。


武将たちが村上勢の、予想を遥かに上回る大軍勢に戦慄し、言葉を失っているその時──。


「報告いたします! 」


さらに別の伝令兵が広間に転がり込んできた。

その形相は、先ほどの伝令兵よりも切迫しており、体は泥と汗で汚れていた。

伝令兵は立ち上がる間ももどかしいとばかりに、床に膝をついたまま、嗄れた声で叫んだ。


「諏訪郡より三千を超える軍勢が、こちらへ進軍中! その勢いたるや凄まじく、押し寄せる大津波の如し……!」


その言葉は冷たい水を頭から浴びせたかのように、武将たちの思考を停止させた。

広間は一瞬静まり返り、誰もが言葉を失いただ呆然と立ち尽くしている。

しかし、そんな彼らの様子などお構いなしに伝令兵は言葉を続けた。


「諏訪家配下の主要な武家が、ことごとく参陣している模様! そして……遠目ではありましたが、諏訪梶葉の旗印を、確認いたしました! おそらく、諏訪頼重本人が、大将かと……!」


その言葉は轟雷のように、広間に轟いた。


「な、何だと……!」

「諏訪の棟梁が軍勢を率いて……!?」


敵方の当主が、自ら軍勢を率いてくる。それすなわち、相手方がこの戦に並々ならぬ覚悟で臨んでいることの、何よりの証。

ましてや相手は智謀、武勇に優れ、実力者と名高い諏訪頼重。その存在は海野家にとって、脅威以外の何物でもない。

そして──諏訪の当主がいるのであれば。当然、村上の当主も参戦している可能性が高い。

圧倒的な規模と、敵の本気度を悟り、海野の屋敷は騒然となった。


しかし──。


「……」


その喧騒の中、頼昌だけは静かに戦況を見極めていた。


(村上勢が二千以上。そして、諏訪勢が三千以上……。途中で合流するであろう国人衆の兵を加味すれば、敵の総数は六千前後にも達するか……)

(対して、この海野が今、即座に動かせる兵は……どれだけ無理をしても三千が限度……)


圧倒的な兵力差。

しかし頼昌の瞳から光が消えることはなかった。


(……しかし、焦るな。必ずや勝機はあるはずだ……)


兵力では、倍以上の差をつけられている。しかし、地の利は、こちらにある。


(まずは、籠城。徹底的に時間を稼ぐのだ……。さすれば必ず山内上杉家が、援軍を送ってくる筈……)


昨今の、信濃における情勢を鑑みれば、恐らくは四千前後の援軍は期待できる。

そうなれば兵力はほぼ互角……。押し返すことも十分に可能だ──。


頼昌が必死に思考を巡らせ、活路を見出そうとしていたその時であった。


「申し上げます!!」


またも伝令兵が血相を変え、広間に飛び込んできた。

これで、三人目。


(今度は一体何事だ……?)


不吉な予感に武将たちは息を呑み、固唾を飲んで伝令兵の言葉を待った。


「い、一大事にございます! た、武田……! 武田の軍勢が我が領地へ、向かってきております!」


──武田?


──武田だと!?


村上、諏訪に続いて……武田が、攻め込んできた……!?


──それではこの海野の領地は、三つの勢力から同時に攻められるというのか!?

それも、甲斐一国を支配する武田家という大勢力を相手に──。


「……」


想像を絶する事態に、広間は一瞬静まり返った。

まるで時が止まったかのように、諸将の動きが止まる。

しかしその静寂は、すぐに打ち破られた。


「……さ、さらに、申し上げます! 旗印は武田菱!武田家当主・武田信虎、そしてその嫡男の、武田晴信も出陣しているとの報せが!」


そして──


「その数……五千以上──!」


伝令兵の絶望的な報告が、広間に響き渡る。

頼昌のこめかみから、一筋の冷たい汗が流れ落ちた。


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