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第十幕 彼方の賢人、胡蝶の憧憬

頼昌、そして源太左衛門が出陣し虎千代までもが矢沢の家へと向かった後。

真田の屋敷は水を打ったように静まり返っていた。先日まで多くの使用人たちが慌ただしく動き回り、活気に満ち溢れていたのがまるで嘘のようだ。

人影もまばらとなり、広大な屋敷はがらんどうの空間のようにひっそりと静まり返っている。


「……」


胡蝶は自室の窓辺近くに文机を寄せ、静かに書物を読んでいた。その手には幾度となく読み込まれたのであろう、年季の入った一冊の兵法書。

背表紙には『孫子』と、墨で力強く書かれている。窓から差し込む柔らかな陽が胡蝶の透き通るように白い肌を淡く照らし、その姿は一枚の美しい絵画のようであった。


時折、ぱらりと紙をめくる音が静寂の中に小さく響く。胡蝶は書物から目を離さず、一文字一文字丁寧に文字を追っていた。


胡蝶はこのように勉学に耽る時間が何よりも好きだった。誰にも邪魔されず、ただひたすらに書物と向き合う。

この時間だけは自分は自分自身でいられる……そんな気がした。

外の世界の喧騒も、そして自分の将来への不安もすべて忘れ去ることができる、安らぎの時間。

この静寂の中で己の知識、見識を高めれば、いつか父の……真田の役に立てる。そう、信じていた。


そうして胡蝶が、書物の世界に没頭していると──。


「胡蝶」


不意に聞き慣れた優しい声が聞こえてきた。


「……!」


胡蝶は、はっと顔を上げた。

そこには母・琴が傍仕えの女中たちを引き連れ、静かに佇んでいた。

読書に没頭するあまり、彼女たちが部屋に入ってきたことに全く気づかなかったようだ。


「これは母上。それにお付きの方々も。申し訳ございませぬ、このようなお見苦しい姿を」


胡蝶は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。居住まいを正し、母への礼を尽くす。


「ふふっ……そんなに、畏まらずとも良いのです。私とあなたは母と子なのだから」


琴は胡蝶の言葉に小さく笑い、傍仕えの女中たちと共に優雅な所作で、胡蝶の前に腰を下ろした。

その一挙手一投足には気品と優雅さがあふれている。それもそのはず、彼女は信濃の名門・海野棟綱の娘。その立ち振る舞いは、幼き頃より厳しく躾けられてきたのだ。

お付きの女中たちも、元々は海野の家から琴の嫁入りに付き添ってきた者たち。その所作には、やはりどこか洗練された優雅さが感じられる。


「母上。今日は何か御用でしょうか?」


胡蝶は少し緊張した面持ちで母に尋ねた。


「用がなければ母が息子に会いに来てはいけないの?」


琴はそう言って悪戯っぽく微笑んだ。


「えっ……?あ、いえ。そういうわけではございませんが」


胡蝶は母の言葉に、一瞬戸惑い首を傾げながらも小さく頷いた。

確かに親子なのだから用事がなくとも、顔を合わせ言葉を交わすことはごく自然なことなのかもしれない……。

しかし母の真意がいまいち掴めず、胡蝶はなんだか落ち着かない気持ちになった。

それに突然女性ばかりに囲まれ、いつもは質素な自室が急に華やいだ空間へと変貌したことも、胡蝶の羞恥心を刺激する。

その落ち着かぬ様子初々しい反応が、幼子のようで可愛らしいと傍仕えの女中たちは、くすくすと楽しげに笑い声を立てた。


「胡蝶どのは何をなさっておられたの?」


女中の一人が優しく問いかける。


「はい、これにございます」


胡蝶は少し恥じらいながらも手にしていた書物を差し出した。それは『孫子』と題された、名高い兵法書。

それを見た琴は一瞬、わずかに眉を寄せた。


「胡蝶……学問に励むのは、とても良いことです。でも、そのような血なまぐさいものをわざわざ読まなくても」


琴とて教養豊かな女性。孫武が著したとされる兵法書『孫子』の存在も、もちろん知っている。

しかしそれ故に、兵法とは戦という血なまぐさい世界と直結するもの、人を殺めるための知恵と認識していた。

愛する息子にはそのようなおぞましい世界とは無縁でいてほしい……。そう、願っていた。


「そうですわ。胡蝶様には舞いなど雅な芸事がお似合いです」

「華道や、茶の湯などもきっとお上手になられましょう」


琴の言葉に同調するように女中たちも次々に言葉を重ねる。

女中たちの言葉に胡蝶は小さく微笑んだ。


「お心遣い痛み入ります。確かに皆様の仰る通り、そのような雅な習い事も良いものかもしれません。されど──」


胡蝶は優しい微笑みを浮かべ、言葉を続けた。


「──私はこの『孫子』を、単なる戦の指南書とは思っておりませぬ」


そう言って胡蝶は手に持つ書物をそっと掲げた。


「これは戦の上手さを説くものではありませぬ。むしろ戦というものがいかに愚かで、いかに避けねばならぬものか……そのことを懇々と諭してくれるものなのです」

「戦を避ける……?」


琴は怪訝そうに眉をひそめた。


「はい。孫子には『百戦百勝は、善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり』とあります。つまり戦とは、どんなに勝利を重ねようとも最善とは言えない。戦わずして、敵を降伏させる……それこそが最も優れた戦い方であると説いているのです」


胡蝶は静かに、しかし力強く言葉を紡ぐ。


「孫子は、決して戦を賛美してなどおりませぬ。むしろ戦を徹底的に避けようとしている。戦わずして勝つ……そのための知略、策略を、説いているのです」


琴は息子の言葉に息を飲んだ。今まで自分は『孫子』をただの血なまぐさい戦の書であると、思い込んでいた。

しかし胡蝶の言葉は全く異なる視点を示していた。


「私はこの『孫子』から戦の虚しさ、そして真の勝利とは何かを学んでおります。この乱世を生き抜くために、そして……真田を、母上を、守るために」


胡蝶はそう言って、母の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には確固たる決意の光が宿っていた。

そして再び、手に持つ書物に視線を落とす。

その瞳にはこの書物が紡がれてきた遥かなる時間への憧憬が浮かんでいた。


「千年以上も昔に、果てしない海の向こう……見渡す限りの山河、そのさらに果ての果て……。大陸の地でこのような深遠な思想を説いた人物がいた──。そう思うだけで私は胸が熱くなるのです」


胡蝶は遠い昔の賢人に語りかけるかのように熱を込めて言葉を紡いだ。

その理知的でありながら、どこか幻想的でもある不思議な語り口は、母である琴、そして傍仕えの女中たちをいつしか、魅了していた。

彼女たちは息を呑み、ただ静かに胡蝶の言葉に耳を傾けている。


「遠い遠い、時の彼方で生きた一人の人間の言葉が……。時を超え、海を越え、今こうして私に語りかけてくれる。これほどまでに、素晴らしいことが、他にあるでしょうか?」


胡蝶は夢見るように呟いた。

その姿はまるで幼子が美しい宝物を手にしたかのようであった。

胡蝶は確かに感じていた。

遠い昔の、偉大な異国の賢人たちと、書物を通じて自分は確かに繋がっている、と。

その繋がりは胡蝶に深い慰めと、この乱世を生き抜く勇気を、与えてくれるのだ。


「あぁ……遥か彼方海を越えた大陸の地には、一体どのような光景が広がっているのでございましょう」


胡蝶はうっとりと目を細め、遠くを見つめるように呟いた。その瞳にはまだ見ぬ異国への憧憬と、好奇心があふれている。


「この『孫子』を生んだ国の民は、どのような空の下でどのような言葉を交わし、どのような戦いを繰り広げたのか……想像するだけで、胸が高鳴るのです」


胡蝶は幼子が壮大な物語を語るかのように、夢見心地に言葉を紡いだ。

その様子を琴、はただ呆然と見つめていた。


「……」


──この子は……私などよりも遥かに深く物事を考え、そして遥かに遠くまで見据えている。


息子のあまりにも眩しい成長が琴には直視できないほどだった。

母のそんな複雑な心中など知る由もない胡蝶は、その後も女中たちを相手に、勉学で培った様々な知識や蘊蓄を身振り手振りを交え熱心に語り続けた。


「この書物によれば大陸には、それはそれは大きな国があるそうです。その国では数えきれないほどの人々が暮らし。見たこともないような壮麗な建造物が立ち並び。そして日々活気に満ちた市が開かれているとか……」


胡蝶のその淀みない語りは、見事な絵巻物を見ているかのようだった。

女中たちはその魅力的な語りに完全に心を奪われ、身を乗り出すようにして聞き入っている。


それはまさに天性の才と呼ぶべき類稀なる人を惹きつける力。


その力は単に、美しい容姿から放たれるものではない。

胡蝶の深い知性と、豊かな教養……そして何よりもその純粋で高潔な魂から発せられる真の魅力なのだ。


(こ、この子は……この子は……!私が、この小さな屋敷の中に閉じ込めておいて良い存在では、ない……!)


──その時。琴の全身を戦慄にも似た深い感動が駆け抜けた。

それは母としての深い愛情と、そして一人の人間としての、純粋な畏敬の念が混ざり合った複雑な感情。

この子は……いずれこの真田の小さな枠を飛び越え……もっともっと大きな世界で羽ばたくべき存在。

琴はその時初めて心の底から理解したのだった。


「……」


しかし同時に、琴の胸中には深い深い寂しさが広がっていった。

それは美しい蝶を、手のひらでいつまでも愛でていたいと願いながらも、その蝶が大空へ羽ばたいていくことを望まずにはいられない……そんな複雑な母心であった。


胡蝶の語りが続く中琴はゆっくりと無言で立ち上がった。

それを見た胡蝶はきょとんとした表情で母を見上げる。


「少し、用事を思い出しました」


琴はそれだけ言い残すと足早に部屋を出ていく。


「えっ……?」


突然のことに胡蝶は呆然と母の背中を見送ることしかできない。


「姫様!」

「琴様!」


女中たちは顔を見合わせると慌てて琴の後を追った。

瞬く間に静寂が部屋を満たす。一人残された胡蝶は首を傾げた。


「……何か、母上の、お気に障るようなことを、申してしまったであろうか?」


胡蝶の小さな呟きは誰に届くこともなく静寂の中に吸い込まれていく。

一方琴は屋敷の長い廊下を早足で歩いていた。その表情は先ほどまでの穏やかなそれとは異なりどこか厳しく、そして決意に満ちている。


「姫様! 急にどうなされたのです!?」

「まだ胡蝶殿とのお話の途中ではございませんか!」


背後から慌てた様子の女中たちの声が追いかけてくる。

しかし琴は、背後から追いかけてくる女中たちの声に、一顧だにせず早足で歩みを進める。その足取りは迷いがなく、まるで何かに突き動かされているかのようであった。


──実は琴がわざわざ胡蝶の部屋を訪ねたのは、単に世間話をするためではなかった。

会話の中でそれとなく胡蝶を諭し、どうにかして武士への道を諦めさせようと画策していたのだ。


無論、女中たちもそのことは百も承知。

頃合いを見て話を合わせ、胡蝶が武士になることを断念するよう仕向ける手筈であった。


──だが。


琴は話の途中で突然、席を立ってしまった。

これでは計画が丸潰れである。


「姫様……一体何がお気に召さなかったのでしょうか?」


女中の一人が意を決したように歩きながら琴に問いかけた。

琴はその言葉にぴたりと足を止めた。

そして静かに、力強く言い放った。


「──胡蝶の元服名を考えます。筆と紙を、用意して」


廊下には初夏の柔らかな日差しが差し込んでいる。

その光は琴の決意に満ちた横顔を照らし出し、後光が差しているかのようであった。

女中たちは一瞬呆気に取られたがすぐに我に返り


「はっ……!すぐにご用意いたします……!」


そう言って、慌ただしく駆け出して行った。

後に残された琴の瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいた。


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