初夏の陽光が庭先に植えられた青々とした木々に柔らかな木漏れ日を落としている。
しかしその穏やかな光景とは裏腹に、海野家の武家屋敷は重苦しい緊張感に包まれていた。
広間には歴戦の猛者たちが集い、熱を帯びた軍議が繰り広げられている。
床の間には「忠義」と大書された掛け軸。その前には床机が置かれ、海野家当主が座っていた。
広間には二十人ほどの武将たちが車座になって、膝を突き合わせている。
彼らはこの信濃の混乱を生き抜いてきた猛者たちであり、その顔には深い皺が刻まれ、眼光は鋭く、修羅場を潜り抜けてきた歴戦の強者であることが一目で分かる。
「最早この信濃の混乱、目も当てられぬ惨状よ!」
床机のすぐ側に座る古参の武将が苦々しげに口を開いた。
「山内上杉との盟約があるとはいえ、このまま手をこまねいていては、いずれ、我らは村上や諏訪、果ては甲斐の武田に呑み込まれてしまうぞ!」
その言葉に場内の空気が一瞬にして張り詰める。武将たちの表情が、さらに険しくなった。
「されど……」
今度は若手の武将が恐る恐る口を開いた。
彼はまだ若く経験こそ浅いが、その瞳には強い意志の光が宿っている。
身につけているのは、比較的新しい鎧。まだ、大きな戦を経験していないことが伺える。
「村上は武田と争うておりまする。この隙に、一気に攻め込むべきではござらぬか?」
「若造が!戦とはそんなに簡単なものではない」
先ほどとは別の歴戦の武将が、若者の言葉を一蹴した。
その声は低く重々しく、その体格は他の武将たちと比べても一際大きく、その存在感は圧倒的だ。
「村上とて、我らを狙っておらぬはずがない。それに、諏訪がその隙をついて襲ってこぬとも限らぬ」
その言葉に多くの武将たちが頷いた。現状の厳しさは誰もが理解している。
広間の一角でそれまで黙って話を聞いていた真田頼昌が静かに口を開いた。
「皆の気持ちは分かる……だが今、最も重要なのは、この海野家を守ること。そのためには慎重に、慎重を期さねばならぬ」
頼昌の言葉は静かだが力強く、その場にいる者たちの心を落ち着かせる力があった。
その声は決して大きくはないが、広間の隅々までしっかりと響き渡る。
「右馬之助殿の申される通りだ」
古参の武将が頼昌の言葉に深く頷いた。
「冷静さを失っては、戦には勝てぬ」
「しかし、このままでは……」
その時、これまで床机で沈黙を保っていた海野家当主・海野棟綱が、重々しく口を開いた。
「右馬之助の申す通り。今は迂闊に動くべきではない。情勢は混沌を極め、一寸先は闇。このような時こそ冷静沈着、我らはまず生き残ることを第一とせねばならぬ」
海野棟綱。信濃国小県郡を拠点に、平安の世より続く名門・滋野氏の嫡流、海野家の現当主である。
その顔立ちは、老齢を感じさせつつも、未だ衰えぬ威厳を湛え歴戦の武将としての風格を漂わせている。
長く厳しい戦乱の世を生き抜いてきたその経験と知略は、海野家を支える大黒柱として家臣たちから絶大な信頼を集めているのだ。
そして胡蝶の母である琴の父であり、頼昌にとっては義父にあたる棟綱は頼昌を信頼しきった視線で見つめ、静かに頷いた。
頼昌は棟綱からの信頼厚く、海野家という勢力の中で確固たる地位を築いている。
だが、それは決して棟綱の娘婿という立場故ではない。頼昌の実直な人柄、武将としての卓越した実力、先を見据えた確かな慧眼は海野家の家臣誰しもが認めるところであり、それ故に頼昌の言葉は皆の心に深く響くのだ。
「お褒めにあずかり、恐悦至極にございます、御屋形様。されど……」
頼昌は恭しく一礼すると、力強く言葉を続けた。
「……上杉とて我らの後ろ盾として、万全とは言い難い。名目上確かに我らは盟約を結んでおりますが、この戦乱の世、いつ何時その関係が反故にされるやも知れませぬ」
山内上杉氏───
室町幕府の要職である関東管領を世襲し、関東一円にその威光を轟かせる、大名である。
その歴史は古く、鎌倉時代より続き、この信濃においても大きな影響力を持っている。
特に海野家をはじめとする、信濃東部の諸豪族にとっては実質的な後ろ盾とも言える存在であり、その動向は常に注視すべきものであった。
「左様!上杉を頼る、それ自体は悪手ではありませぬ。されど、頼り切りはいかがなものか」
「では、他に如何なる策があると申される!」
「村上は武田と争うておる。今こそ好機、ここは一度打って出るべきではござらぬか」
「いや、それは危険すぎる。今は力を蓄え、時を待つべきだ」
「し、しかし……それでは、いつまで待てば良いのだ。このままでは、座して死を待つに等しいぞ!」
「……」
喧々囂々、広間には武将たちの怒号が飛び交い、その熱気は初夏の夕刻の気だるさを吹き飛ばすほどであった。
そうして幾度となく議論が重ねられ、ようやく軍議が終わったのは西の空が茜色に染まる頃であった。
沈みゆく夕日が海野家の屋敷を赤く染め上げ、長い影が庭に伸びている。時折ひぐらしの鳴く声が聞こえ、夏の訪れを感じさせた。
武将たちが各々帰路につく中、海野棟綱は帰ろうとする頼昌を呼び止めた。
「右馬之助」
「御屋形様、いかがなされました?」
頼昌は静かに一礼した。
「いやなに、大したことではない。……少し、話そうか」
棟綱はそう言うと縁側に腰を下ろし、隣を叩いた。
「はっ」
頼昌も、棟綱の隣に腰を下ろした。
「……琴とは、仲睦まじくやっておるようじゃな」
棟綱は西の空を眺めながら、穏やかな口調で言った。
「はっ。琴殿は私には過ぎたる程の良き妻です」
頼昌は少し照れくさそうに答えた。その表情には琴への深い愛情が浮かんでいる。
「うむ、うむ」
棟綱は、満足そうに、何度も頷いた。
「そういえば、次郎三郎……あぁ、今は源太左衛門か。彼奴が元服したそうじゃな」
「はい。源太左衛門は私など足元にも及ばぬほどの将の器。その武勇、知略いずれも見事なもの。これほどの逸材、この海野家の血筋なればこそ……。戦場に出れば目覚ましい活躍を遂げてくれましょう」
頼昌は誇らしげに胸を張った。
その瞳には息子への深い愛情と、大きな期待が込められていた。
「うむ」
棟綱は再び満足げに頷いた。
しかしすぐに首を傾げ、不思議そうな表情を浮かべた。
「そういえば、そなた、養子を取っておったな。たしか……蝶……なんだったか?」
「……はっ、胡蝶にございます」
「おぉ、そうであった、そうであった。噂によると、その胡蝶なる若者、なかなかの神童であるとか。それほどの才覚を持ちながら、未だ元服もせず、家に置いておくとは、宝の持ち腐れではないか? 同い年ほどの源太左衛門は、晴れて元服を果たしたというのに」
棟綱は冗談めかして言いながらもその目は鋭く、頼昌の真意を探っていた。
その鋭い視線に射抜かれ、頼昌は一瞬言葉に詰まった。しかしすぐに意を決したように、おずおずと口を開いた。
「その……実は、妻が」
「琴が?」
棟綱は意外そうに眉をひそめた。
「はい……。胡蝶を、それはもう可愛がっておりまして……。なんというか……もう分別もつく年頃の立派な青年であるというのに、まるで幼子を守るように片時も手元から離そうとせず……」
頼昌は苦笑いを浮かべながら、言葉を選びつつ言った。その表情には妻への愛情と、そして一抹の困惑が浮かんでいた。
「くっ……くはははは! なんと、そういうことであったか!」
その言葉を聞いた棟綱は一瞬呆けたような表情を浮かべたが、すぐに合点がいったように大きな口を開けて豪快に笑い出した。
棟綱は腹を抱えて笑い、その大きな笑い声は夕暮れの静寂を破り周囲に響き渡った。
彼の脳裏には娘である琴の、幼い頃からの姿が鮮明に浮かんでいた。確かに、琴は庇護欲が強い。
自分が庇護すべきと見なしたものに対しては、並々ならぬ執着と愛情を注ぐ傾向があった。
「成程、成程」
ひとしきり笑った後、棟綱は肩を竦め面白そうに目を細めた。
「しかし源太左衛門はともかく虎千代もおるというのに、血の繋がりもない胡蝶とやらをそこまで贔屓にするとはな……。他の子らが臍を曲げねば良いのだが」
「ご心配には及びませぬ。源太左衛門も虎千代も、琴に過剰に構われるのに、辟易しておるようでして、胡蝶が妻を引き付けているのを有難く思って……おっと、失敬。兎に角、胡蝶は琴の望むまま実に従順に振る舞いますので、それが琴の心をより惹きつけておるようです」
頼昌は苦笑いを浮かべながら困ったように答えた。
「ほう……」
棟綱は目を細め、顎に手を当てた。
彼の脳裏には人形のように華奢で、しかしどこか儚げな美しさを持つ男子が琴に抱きしめられている光景がありありと浮かんでいた。
「見目麗しい男子と聞いてはいるが……。琴の奴め、如何に庇護欲をそそられるからといって、仮にも年頃の男子を、そのように扱うとはな……」
そう言う棟綱の口調は呆れを含んだ皮肉気に満ちていたが、その目はどこか温かな光で満たされていた。
「……胡蝶が目を見張るほどの美しさを備えておるのは、確かです。しかしそれ以上に、胡蝶の真の才は武芸、学問、そして何より物事の機微を手に取るように理解しておるところ……。その才覚たるや並みの者では、遠く及びませぬ」
頼昌は真剣な表情で胡蝶の優れた才覚について熱く語った。
「そのような逸材を琴の人形にしたままでは、勿体ないやもしれんな」
棟綱は小さく呟き、遠く沈みゆく夕日をじっと見つめた。
その瞳には深い思慮の色が浮かんでいた。
沈みゆく夕日が二人を、そして海野家の屋敷を茜色に染め上げる。しばらくの間静寂がその場を満たしていた。
その静寂は、沈黙というよりはむしろ互いの心を読み合うような濃密な時間であった。
やがて棟綱はゆっくりと、はっきりとした口調で口を開いた。
「頼昌よ。胡蝶の元服を執り行え。そして正式に、真田の姓を与えよ。名は……そうさな、折角の機会じゃ。じっくりと考えてやると良い」
「っ!」
棟綱の言葉に頼昌は目を見開き息を呑んだ。主家たる海野家の棟梁……そして、義父である棟綱のこの言葉は絶対の命令。拒否権などあろうはずもない。
頼昌自身機が熟せば胡蝶の元服を執り行うつもりでは、もちろんあった。しかし、その一方で妻である琴の、胡蝶への異常なまでの愛情を間近で見てきた。
それを慮りその時期を慎重に見定めていたのだ。
それがこのような形で、棟綱より直々の命が下されようとは……。
頼昌は一瞬躊躇した。しかしすぐに居住まいを正し、深々と膝をついた。
「……御意にございます」
短く、しかし力強く頼昌は答えた。
「まぁ、とは言えじゃな」
そんな頼昌の様子を見て、棟綱は呆れたように小さく笑った。
「元服の儀には、それなりの準備も必要であろう。そうさな……あと一月、いや二月ほどはその準備に費やすがよかろう」
「はて、準備にそんなには掛かりませぬが……?……っ!!あ、いえ、ありがたき幸せ。謹んで、お受けいたします」
棟綱の言葉に頼昌は一瞬面食らった表情を浮かべたが、すぐにその真意を悟った。通常、元服の準備に一月も二月も必要ない。それはものの数日もあれば調うもの。
それをあえて長く、棟綱は言った。
つまりこれは、琴が胡蝶への執着を少しずつ解きほぐすための猶予期間。義父からの温情。それに他ならなかった。
親離れならぬ子離れ。
なんとも奇妙な話だがそれを考慮してくれるあたり、海野棟綱という男はやはり根は優しく、そして娘である琴には甘いのであろう。
「うむ。胡蝶とやらを、一人前の武士に育て上げるのだ。……さて、話は変わるが」
棟綱は小さく咳払いをした。その目は先ほどまでの穏やかなものとは打って変わり、鋭い光を帯びていた。
その変化に頼昌はただならぬ気配を感じ自然と背筋が伸びる。
「……村上と諏訪が、妙な動きを見せておる。兵を纏め、いつでも出陣できるよう備えを怠るな。それと源太左衛門の初陣の準備も併せて進めておけ」
「村上と諏訪が……でございますか? しかし、村上は武田と佐久郡にて、熾烈な争いを繰り広げている最中のはず……」
頼昌は疑問を投げかけた。
信濃の豪族・村上氏と甲斐の大名・武田家は度々戦火を交える間柄だ。
武田軍が佐久へ侵攻したかと思えば、次には村上軍が甲斐へ侵攻、その報復として再び武田軍が佐久へ侵攻するなど、武田と村上の間では、激しい攻防が繰り広げられていた。
結果として村上方が押し切られ、佐久郡は実質的に武田の手中に落ちつつあるが……。
「諏訪はともかく、今の村上に我らに構っているような余裕は無いはず」
頼昌の言葉に棟綱は重々しく頷いた。
「そう、そのはずだ。しかしここ最近、諏訪と村上がまるで示し合わせたかのように我が領地へ小競り合いを仕掛けてきておるのだ」
「それは……」
頼昌は言葉を失った。棟綱の言葉が事実であればそれは穏やかならざる、不穏な状況であった。
仮に諏訪と村上、二つの勢力が同時に攻め入ってくればこの小県はひとたまりもないであろう。
いくら後ろ盾として山内上杉の威光があろうとも……この乱世に絶対の安泰など、どこにもないのだ。
「源太左衛門には、諏訪の軍勢を追い払ってもらう。まぁ今回は、小勢同士の小競り合いよ。初陣にはちょうど良い手合わせとなろう」
「……はっ。承知つかまつりました」
頼昌は恭しく頭を下げた。
色々と気になることは多い。しかしまずは目下の懸念である、源太左衛門の初陣を滞りなく済ませねばならぬ。そう心に決めた。
西の空はすでに夕闇に溶け込み、辺りは薄暗闇に包まれつつあった。
庭先では蟋蟀が鳴き始め、夏の夜の訪れを静かに告げている。
遠くで誰かが門を閉める音が小さく、しかしはっきりと聞こえた。