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第七幕 揺れる木漏れ日、弟の憧憬

抜けるような青空が広がる、ある日の昼下がり。

胡蝶と源太左衛門はいつものように真田の郷の若者たちと、他愛もない話をしながらのんびりとした時間を過ごしていた。


「今年の稲は、豊作になりそうだな」

「ああ。この分なら、冬の備えも十分だ」

「そういや、近頃、山に熊が出るとか……」

「おお、怖い怖い。今度、皆で狩りに行くか?」

「それも良いが、まずは畑の人手が足らんぞ」


若者たちは口々に日々の暮らしのことや、近頃の出来事などを語り合い笑い声を響かせている。


源太左衛門は、そんな若者たちの輪の中心で皆の話に耳を傾けながら、時折冗談を言っては周囲を笑わせている。

彼はこの真田の郷で生まれ育ち、皆から「兄貴分」として慕われていた。

面倒見が良く、頼りがいのある源太左衛門は老若男女問わず里の皆から愛され、尊敬される存在だった。


胡蝶はそんな源太左衛門の姿を羨望の眼差しで見つめていた。

自分も彼のように皆から慕われ、頼られる存在になりたい。

しかし未だ元服も叶わず母からは危ないことはするなと、籠の中の鳥のように扱われている身ではそれもままならない。


(羨ましい……)


胡蝶は心の中でそう呟いた。

その胸の内には源太左衛門への憧れと、自分自身の現状に対するもどかしさが渦巻いていた。


「源太左衛門殿は、良いな。元服も無事に終えられ、皆からますます頼られるようになって」


ふと胡蝶は、自らの心の声がそのまま口から出てしまっていたことに気づき慌てて口元を手で覆った。

しかし時すでに遅く、その言葉はしっかりと源太左衛門の耳に届いていた。


「……なんだ、藪から棒に」


源太左衛門は苦笑いを浮かべながら胡蝶の方を向いた。


「何を言うかと思えば……。お前だって、皆から慕われておるではないか。特に女子衆からは」


源太左衛門はそう言うと顎で少し離れた場所を指し示した。

その先には何やらひそひそと話をしながら、こちらをちらちらと見ている里の女衆の姿があった。

彼女たちは胡蝶と目が合うと、きゃっと小さく歓声を上げ、顔を赤らめて恥ずかしそうに俯いた。

可憐な花々が春の陽気に誘われて、一斉に花開いたかのような光景を見て、源太左衛門は肩を竦めた。


「ほれ見たことか。お前は少し、自覚が足りぬのではないか?」


源太左衛門は、面白そうに笑いながら、胡蝶の肩を軽く叩いた。


「いや……そういうことではなくてだな……」


胡蝶は困ったように頬を掻き視線を彷徨わせた。

彼はその目を見張るような美貌と、優雅な立ち振る舞い……そして時折見せる卓越した武芸の腕前で、里の者たち……特に女性たちから熱い視線を注がれていた。


だが胡蝶自身はそのような周囲の反応に戸惑いを覚えていた。

好意を寄せられること自体は、決して嫌なことではないが……彼自身、まだ色恋沙汰には疎く女性たちから向けられる熱を帯びた視線や甘い言葉にどう対処して良いのか分からず、いつも困惑してしまうのだ。


それに、その好意は彼が心から憧れる、源太左衛門に向けられるそれとは何かが違うのだ。

皆は胡蝶を姫か美しい花のように愛でる。

しかし彼が望むのは、そのような庇護されるような弱々しい存在として見られることではなかった。


「お前は……まったく、つまらぬことで悩んでおるな。『神童』どの」


源太左衛門は揶揄うように、そう言ってにやりと笑った。


「……やめろ、その呼び方は。何度言えば気が済むのだ」


胡蝶はむっとした表情で源太左衛門を睨みつけた。

彼は「神童」と呼ばれることを酷く嫌っていた。

その言葉は彼をまるで別世界の住人であるかのように、周囲から隔てる呪いの言葉のように感じていたのだ。


「はは、まぁ良いではないか。神童であろうとなかろうと、お前はお前よ」


そう言って源太左衛門は豪快に笑った。

その笑顔は夏の太陽のように明るく、そして力強かった。


胡蝶はそんな源太左衛門の姿を眩しそうに見つめた。

そして心の中でそっと呟いた。


(私もいつか、源太左衛門のように……)


その小さな呟きは誰の耳にも届くことなく夏の風に静かに溶けていく。

そうして、源太左衛門と胡蝶が、里の若者たちと談笑していると……。


「やぁぁぁーっ!」


突然背後から、空気を切り裂くような元気いっぱいの叫び声が響いた。

それと同時に、何かが猛スピードでこちらに向かってくる気配を胡蝶は感じ取った。

咄嗟に身を翻し、背後から襲い掛かる小さな影をかわす。


「うぎゃっ!」


胡蝶を襲った小さな影、一人の少年は勢い余ってそのまま地面に倒れこんだ。

土埃が舞い上がり少年の顔を汚す。

年の頃は十歳前後であろうか。まだ幼さの残る顔立ちは、強い意志とやんちゃな性格をはっきりと表していた。

手には身の丈に合わぬ、不釣り合いなほど大きな木刀が握られている。


「虎千代、またお前か」


源太左衛門が呆れたように、しかしどこか楽しそうに言った。


「おっ!今のは、良い不意打ちであったぞ、虎千代」


胡蝶は優雅な動作で舞い戻り、地面に倒れこむ少年にぽん、と軽く手刀を打ち込みながら苦笑いを浮かべた。


「不意をついたのは良かったが……もう少し剣筋を早く、そして正確にしないといかん」


胡蝶はそう言いながら少年に手を差し伸べた。


「くっそぉ……! 今度こそは、と思ったのに……!」


虎千代と呼ばれた少年は、悔しそうに地団駄を踏んだ。

その表情は、狩りに失敗した幼い獣のようであった。


「ははは、何度やっても同じよ。お前では、胡蝶の足元にも及ばぬわ」


源太左衛門は、そう言って豪快に笑った。


この少年は源太左衛門の弟……つまり、彼も真田頼昌と琴の子である。

やんちゃで負けず嫌いな性格は、兄である源太左衛門以上。

そして、年の近い兄たち……特に文武両道に秀でた胡蝶に強い憧れを抱き、何かにつけてはこうして手合わせを挑んでくるのだ。

しかしその実力差は歴然であり、今のところ虎千代が胡蝶に一本取ったことは、一度もない。


「うっさいぞ兄上! 今に見ておれ!いつか必ず、胡蝶兄者をあっと言わせてやるからな!」


虎千代はそう言うと、再び木刀を構えた。

その瞳には強い闘志と、胡蝶への憧憬の念が宿っていた。


「ほぉ……それは、楽しみだな」


胡蝶はそう言って微笑んだ。

その笑顔は弟の成長を見守る、兄のものである。


胡蝶もまた、虎千代の勢い、負けん気の強さを、好ましく思っていた。

武芸の腕前は、まだ荒削りだが、内に秘めたる闘志は、まさに、武士に相応しい気性。

その真っ直ぐな心根は、年端も行かぬ子供とは思えぬほど、頼もしく、そして、眩しく、胡蝶の目に映っていた。

自分などよりも、よほど「男らしい」と感じ、期待と羨望の眼差しを向けている。

そして、いつかこの「弟」が、立派な武将となり、源太左衛門と共に、真田家を支えてくれることを、心から願っていた。


「……もしかして、もう終わりか? ほれ、虎千代、この胡蝶が稽古をつけてやろうぞ。遠慮はいらぬ、さぁ、どこからでもかかってこい」


胡蝶は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、虎千代を挑発した。

その口調は、まるで、幼子をあやすかのようであり、同時に、武芸の達人としての、自信に満ち溢れていた。


「う……、むかつく物言いだ……! 今度こそ、その鼻っ柱をへし折ってくれるわ!」


その言葉に、虎千代は、むっとした表情を浮かべ、地団駄を踏んだ。

そして、大きく息を吸い込み、木刀を力強く握りしめると、再び、胡蝶に向かって、真っ直ぐに突進していった。

その姿は、まるで、獲物に飛びかかる、若獅子のようであった。


「やぁぁぁーっ!」


虎千代の気合の声が、空気を切り裂く。

同年代の子供たちと比べれば、はるかに鋭く力強い突き。

その速度は並の大人であれば、目で追うことすら難しいであろう。


しかし───


「!?」


次の瞬間、その場にいた誰もが信じられない光景を目撃することとなる。

虎千代の突きが胡蝶の身体を捉える、その寸前。


胡蝶はふわりと、一羽の蝶のように軽やかに宙を舞ったのだ。


更になんと、そのしなやかな体躯を駆使し、虎千代が繰り出した木刀の上に忍びのように一瞬、足を乗せたのだ。

驚く虎千代。その隙に胡蝶は宙を舞い、くるりと身を翻す。そして虎千代の背後に音もなく、ふわりと着地した。

一陣の風が吹き抜けたかのような、鮮やかな身のこなしであった。


「……」


あまりにも常人離れした、華麗な動きに源太左衛門を含むその場にいた全員が言葉を失い、唖然とその様子を見つめていた。

遠巻きに見物していた女衆たちは、その美しい動きに黄色い歓声を上げた。


「ほら、また一本。これがもし、戦場であれば、虎千代、お前は、もう二回は死んでおるぞ」


胡蝶は悪戯っ子のような笑みを浮かべ、背中を向けたままの虎千代の肩をちょんと人差し指で突いた。


「く……っ!」


虎千代は悔しそうに歯嚙みをした。

その顔は怒りと驚きで赤く染まっていた。

彼はいつもこのように子供扱いされてしまうのだ。


「……何故だ……何故、いつも、胡蝶兄者には、敵わぬのだ……」


虎千代は小さく呟いた。

その声は自分自身に問いかけているかのようだった。


「兄者のような華麗な動きができなければ……俺はいつまで経っても一人前のとして認められぬ」

「いや安心しろ、虎千代。あんな人間離れした動き、そうそう出来る奴はおらん。……というか今まであんな動きができる奴を、俺は胡蝶以外に見たことがない」


源太左衛門は冷静な口調でどこか呆れたように言った。

彼ほどの達人でさえ、先ほどの胡蝶の動きは常識を超えたものに感じられたのだ。

熟練の忍びであれば、あるいは可能かもしれないが……少なくとも、この里にはそのような動きができる者は、胡蝶以外には存在しない。


「それにしても、何度見ても、胡蝶様の舞は、天下一品だねぇ」

「うんうん、天女さまがいればあんな感じなのかな」

「あんなにも、美しい動き……はぁ……」


遠巻きに見守っていた女衆たちは、うっとりとした表情で口々に胡蝶を称賛する。

それは恋する乙女が憧れの君を語る様である。


女たちの言葉を聞いて村の若者たちは「ぐぬぬ……」と悔しそうに歯ぎしりをし地団駄を踏んだ。

彼らとて胡蝶のように華麗にそして強くありたいと願っている。

しかし現実はそう甘くはない。


「俺たちも胡蝶殿みたいに動けたらなぁ……」

「ばか言え。あんな動き人間にできるわけねぇだろ…… 真似しようとしたら骨が折れるのがオチだ」

「だよなぁ…… やっぱり胡蝶は特別なんだよ……」


若者たちは羨望と、諦めが混ざったような複雑な表情を浮かべていた。


「……」


胡蝶はそんな周囲の人々の反応を複雑な心境で聞いていた。

確かに今の動きは自分にとってさほど難しいものではない。


──意識せずとも体が勝手に動くのだ。


それは息をするように歩くように、ごく自然なこと。

彼にとっては努力して身につけた技というよりも、生まれた時から当たり前のように備わっていた天性の才能と言えるのかもしれない。

やろうと思えばもっと人間離れした動きを披露することもできるだろう。

そして彼は己の能力が「異常」であることを自覚していた。


(何故私はこのような動きができるのだ……? 何故他の皆は同じようにできぬのだ……?)


胡蝶は心の中で自問自答を繰り返した。

周囲の人々は自分の動きを「すごい」「美しい」ともてはやす。

しかし胡蝶にとってそれは、喜びよりもむしろ戸惑いの方が大きかった。

その賞賛の言葉は自分と彼らとの間に見えない壁を築いているかのようにも感じられたのだ。

それは幼き頃に感じたあの言いようのない不安を再び呼び起こす。

それこそが、胡蝶の幼き頃より抱える、深い孤独の正体であった。


「……しかし虎千代」


不意に源太左衛門が真剣な表情で虎千代に語りかけた。


「お前もそういつまでも武芸にばかり現を抜かしている場合ではないぞ……もうすぐ出家する身なのだからな」


その言葉はその場の空気を一変させた。

先ほどまでの和やかな雰囲気が消え静寂が辺りを包み込む。


「……出家?」


胡蝶は思わずそう呟いた。


「ああ……父上がそろそろ虎千代を寺に預けるつもりのようだ」


源太左衛門はそう言って寂しそうに微笑んだ。

その笑顔は弟の成長を喜びながらもその巣立ちをどこか寂しく感じている兄の顔。


「……そうなのか」


胡蝶は言葉を失った。

胡蝶にはなぜ虎千代をわざわざ出家させなければならないのか理解できなかった。源太左衛門と自分のように共にこの真田の郷で武芸の腕を磨き、そしていつかこの郷を守るために共に戦えば良いではないか。

特に虎千代は武の才に恵まれている。それをなぜ態々、寺に預け遠ざけなければならないのか。

しかし胡蝶にはそれを口に出すことは憚られた。決めるのはあくまでも、父・頼昌なのだ。


「あーあ。寺になんか、行きたくねぇなぁ……」


虎千代はそう言って大きなため息をついた。

その表情には明らかな不満と、そして、不安の色が浮かんでいる。


胡蝶はそんな虎千代の姿を哀れむような眼差しで見つめた。

しかし──


「でも、しょうがねぇんだよな、きっと」


虎千代はそう呟くと、俯いて、地面に転がる石を蹴飛ばした。

その小さな背中は、運命を受け入れた大人のようでもあった。


「……」


胡蝶は何も言えなかった。

なぜ彼はこうも簡単に、自分の運命を受け入れているのだろうか。

自分よりもはるかに幼い子供だというのに、武士の家に生まれた者の「宿命」だと言わんばかりに、自らの境遇を受け入れている。


武士の家系とは一体何なのだろうか。

胡蝶には武士の矜持も、家のための自己犠牲もよく理解できなかった。

嫌なものは嫌だと言い、自由に生きれば良いではないか。

何故彼らはこうも家に縛られるのか。


(……虎千代の方が、俺より、よほど大人だな)


胡蝶は自嘲気味にそう思った。

元服できぬと駄々をこね、母を困らせる自分はまるで子供ではないか。

そんな自身の姿が酷く滑稽に思え、苦いものが胸に広がるのを感じた。


「胡蝶兄者も兄上と同じように武士になるんだろう? いいなぁ……俺も戦に出て、父上みたいに活躍してみたかった」


無邪気にそう語る虎千代の言葉が不意に胡蝶の胸に突き刺さる。

その真っ直ぐな瞳はあまりにも眩しく目をそらしたくなる。


(俺は……武士に、なれるのだろうか……)


胡蝶は心の中で自問した。本音を言えば武士になりたい。

武士になって真田の家そして頼昌や琴、この里の者たちを守るために戦いたい。


──だが。


果たして捨て子の自分に武士になる資格があるのか?

二人からは実の息子のように愛されているとはいえ自分には真田の血が一滴も流れていない。

農民である里の皆の方がよほどしっかりとした出自を持っているだろう。

それに、真田の血が流れる虎千代が武士になれないというのに、なぜ自分が──?


「……俺は」


胡蝶が何かを言いかけたその時だった。


「まぁ堅苦しい話は、これくらいにしておけ! それより、今は、この時を、皆で楽しもうではないか!」


源太左衛門が豪快に笑いながら胡蝶の華奢な背中を、ばんと力強く叩いた。

そう言って豪快に笑うその姿は、まさに皆が頼る兄貴分の姿。

源太左衛門らしい、大らかで、屈託のない言葉。

その一言は先ほどまでの重苦しい空気を、一瞬にして吹き飛ばした。


「……そうだな。源太左衛門の言う通りだ」


呆気に取られていた胡蝶だったが、すぐにいつもの調子を取り戻し、ふっと微笑む。


「……そうだな!今は、今しかないのだからな!」


虎千代も兄たちの言葉に、ぱっと表情を明るくした。

その笑顔は、春の陽気に誘われて咲き誇る、花のように無邪気であった。

先ほどまでの思慮深い子供の姿は、既にそこにはなかった。


「そうと決まれば、今日は、とことん遊ぼうぜ!」

「おう!」

「賛成だ!」


里の若者たちも、皆、笑顔で声を上げた。

胡蝶と源太左衛門、そして里の若者たちは、日が暮れるまで思い思いに時を過ごす。

そうして、胡蝶たちは沈みゆく夕日を背に家路についた。

その足取りは子供のように軽く、楽しげであった。


「……」


しかし胡蝶の心の奥底にはまだ小さな迷いが残っていた。

それは美しい着物に付いた小さなシミのように、彼の心に影を落としていた。


(俺はどうすればいいのだろうか。どうするべきなのだろうか)


胡蝶は、沈みゆく夕日を見つめながら、心の中で、そう呟いた。


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