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第五幕 黎明に揺れる、胡蝶の誓い

──胡蝶という青年には秘密がある。


それは彼が男子には到底見えない、類稀なる美貌の持ち主であるということでもなければ、ひとたび刃を抜けば戦場の鬼神すら恐れおののくほどの、凄まじい剣技を披露するということでもない。

ましてや頼昌と琴の前ではその荒々しい気性をひた隠し、あたかも高貴な令嬢であるかのように、上品に振る舞っているということでもない。

それらは確かに彼の秘密の一端ではあるが……違うのだ。


「……っ!」


丑三つ時───。

闇が最も深まるその時刻、胡蝶は寝所の中で全身に冷や汗を掻いて飛び起きた。

艶やかな黒髪は汗で頬に張り付き、薄絹の寝間着は、まるで水に濡れたかのように肌に密着している。

陶器のように白い肌は月明かりに照らされ、その様子は、酷く彼を儚げにしていた。


端正な顔立ちは苦痛に歪み薄く開かれた唇からは荒い呼吸が漏れている。

その姿は悪夢に苛まれた幼子のようでもあった。


「──また、あの夢か……」


胡蝶は乱れた呼吸を整えながら、小さく呟いた。

その声は恐怖と困惑、そして言いようのない不安にわずかに震えていた。


胡蝶は生まれた時からずっと同じ夢に悩まされていた。


それは彼がこの世に生を受けた時よりも、さらに遠い「過去」の記憶。

あるいは彼がこの世を去った後、たどり着くはずの「未来」の光景。


空を切り裂くようにそびえ立つ、巨大な建造物。

太陽よりも眩く輝く、無数の人工の光。

地を這う箱が吐き出す、轟音と熱気。

見たこともない衣服を纏い、忙しなく行き交う、見知らぬ人々。

その手には、怪しく光を放つ板が握られている。


空を舞う鉄の鳥。

一瞬で遠くの者と繋がる術。

この時代の常識では、到底理解できない、奇怪な光景。


「友」と呼ばれる、年齢の近い者たちと机を並べ、見たこともない言語や、数多の記号が並んだ「書物」を読み、この時代には存在しない、未知の「何か」を学ぶ日々。

それは、この戦国の世とは、あまりにもかけ離れた、平和で、そして、どこか息苦しい世界だった。


まるで、金魚が水槽の中を、あてもなく、ただぐるぐると回遊し続けるかのように、終わりの見えない、不確かな「今」を生きる「人」としての記憶。


なんとも摩訶不思議な夢で、この時代の常識や、胡蝶自身の知識を持ってしても、到底言語化することなどできない光景。

それは、仙人が住まう桃源郷のようでもあり、恐ろしい鬼が棲む地獄のようでもある、不可思議な世界だった。


「なんなのだ、この夢は……」


胡蝶は深くため息をついた。


この夢は一体、何を意味するのか。

何故自分は、このような夢を見るのか。


幾度となく繰り返されるこの不可解な夢は、胡蝶に深い困惑と拭い去ることのできない、言いようのない不安を与え続けていた。


夜明けは、まだ遠い。


胡蝶は寝所をそっと抜け出し、水を求め館の水場へと赴いた。

寝間着姿のまま、静まり返った廊下を歩く。

月明かりに照らされたその姿は、夢の中を彷徨う幽玄な存在のようであった。


水場は館の台所も兼ねた場所にあり、梁から吊るされた幾つもの鍋や土間に据えられた大きな竈が、闇の中で存在感を放っている。

水瓶から柄杓で水を汲み、喉を潤す。ひんやりとした水が、火照った体を内側から冷やしていく。


水を飲み干し、ようやく一息つくと胡蝶は小さく息を吐いた。


「私は一体、何なのだろうか……」


ふと、そんな言葉が口をついて出た。

それは、誰に聞かせるでもない独り言。


実は、胡蝶の秘密は、あの不可思議な「夢」だけではない。


──彼は、この世に生を受けた、その瞬間からの記憶を、全て持っていたのだ。


まだ言葉も理解できず、視界もぼやけていた、あの赤子の頃。

乳母の胸に抱かれ、乳を啜った記憶。

温かな腕の中で、微睡んだ記憶。

色とりどりの玩具を目で追い、手を伸ばし、掴もうとした記憶。


頼昌や琴、そして源太左衛門と過ごした日々の記憶。

初めて歩いた日のこと。

初めて言葉を発した日のこと。

初めて剣を握った日のこと。


それら全てがまるで昨日の出来事のように、鮮明に胡蝶の脳裏に刻まれていた。

通常ではあり得ない、この「記憶」と共に、彼は「整然とした思考能力」まで、この世に生を受けたその時から持ち合わせていた。


言葉も話せぬ赤子の身でありながら、まるで大人のような思考を巡らせていた自分自身を、胡蝶ははっきりと記憶していた。

まだ言葉を話せぬ中、自身の置かれた状況を理解していた胡蝶は、周囲に悟られぬようただの赤子のように振る舞っていた。


それは、彼が家族に吐き続けている唯一の嘘だった。

周囲を、そして自身すら騙すような不確かな嘘。


この異常性に彼が初めて明確に気づいたのは、十歳を迎えた頃だった。

周囲の子供たちと、自分との「違い」をはっきりと自覚したのだ。

「前」の記憶とも、この時代の常識とも照らし合わせ、そして自覚してしまった。


「俺は……他者とは、何かが違う」


そう、彼は「普通ではない」ということを。


(何故、俺は、人とは違うのだ……)


月明かりに照らされた水瓶に張る水面を見つめながら、胡蝶は静かに呟いた。

その声は、深い孤独と、言いようのない不安に、わずかに震えていた。


水面に映る、己の顔を見つめる。

その美しい顔立ちは、今は酷く悲しげで、その瞳は、底知れぬ闇を湛えている……。


その時だった。

微かな衣擦れの音と共に、胡蝶の背後から、聞き慣れた声が響いた。


「胡蝶、こんな夜更けにどうしたのだ? ……眠れぬのか?」


胡蝶がハッとして振り向くと、そこには、月明かりに照らされ、柔和な笑みを浮かべた男───父、頼昌が静かに佇んでいた。


「……右馬之助様」


思わずといった様子で、胡蝶は名を呟いた。

右馬之助というのは頼昌の通称である。


「これこれ、何度言えば分かるのだ。父と子が、そのように他人行儀な呼び方をしてどうする。父と呼べと言うておろう」


頼昌はそう言いながら胡蝶の傍らに歩み寄り、そっとその肩に手を置いた。

大きく温かい手。その手に触れられた瞬間、胡蝶の張り詰めていた心がふっと緩んでいくのが分かった。


胡蝶は頼昌のことを、心から尊敬し慕っていた。

武士として、そして一人の人間として。


頼昌はいつも穏やかで、優しかった。

真田家という名門の出身でありながら決して権威を笠に着ることなく、立場の弱い者に対しても、常に誠実で、分け隔てなく接する。

その人柄は里の者たちからも慕われ、彼の為ならば命を賭して戦うという家臣も少なくない。


そして胡蝶もまた、そんな頼昌の深い慈愛に包まれ育てられてきた一人であった。


「も……申し訳ございませぬ、父上」


胡蝶は小さく頭を下げた。

拾われた身である自分を実の息子のように育て、惜しみない愛情を注いでくれる頼昌と琴。

その恩に報いるためにも立派な武士となり、真田家、ひいては海野家のために尽くしたい。

そう強く願いながらも未だ元服すら叶わず、燻る心を抱える自分を、酷く不甲斐なく感じる。

それ故に頼昌に対して、未だに他人行儀な態度を取ってしまうのだ。


「……父上こそ、このような時間にどうなされたのですか?」


自身のふがいなさを誤魔化すように、胡蝶は問い返した。


「ふっ……」


頼昌は胡蝶のそんな心情を察したか、小さく笑い声を漏らした。


「何、儂も目が覚めてしまってな。……少し、話でもするか?」


そう言うと頼昌は床机に腰を下ろし、隣をポンポンと叩いて胡蝶にも座るように促した。


胡蝶は大人しく頼昌の隣に腰を下ろした。

粗末な木製の床机は胡蝶が腰かけた拍子に、小さく軋んだ。

その軋む音ですら今の胡蝶は恐縮してしまう。

胡蝶の長い黒髪が窓から入る風に揺れた。


「……」


二人の間にしばしの沈黙が流れた。

しかしそれは決して気まずいものではなく、むしろ心地よい、温かな沈黙だった。

頼昌は何も言わず、ただ静かに、胡蝶の傍に座っている。

その存在が胡蝶の心を、ゆっくりと解きほぐしていくようだった。

二人は言葉を交わさずとも、互いの存在を感じることで、心が通じ合っているかのような、不思議な感覚を覚えていた。

それは長年連れ添った親子だからこそ為せる、無言の意思疎通。


やがて胡蝶は、静かに口を開いた。



「母上は……やはり、私の元服を認めてくださいませんでした。あんなにも大きなイノシシを、仕留めてみせたというのに……」


その声は、悔しさと、諦めと、そして、母への想いが入り混じった、複雑な響きを帯びていた。


「そうか」


頼昌は苦笑にも似た笑みを浮かべ、小さく呟いた。

胡蝶がどれほど元服を望んでいるか、頼昌は痛いほど理解していた。

だからこそ源太左衛門と共に大イノシシ狩りの計画を立てた時も、あえて口出しをせず黙って見守っていたのだ。


それは胡蝶の実力を誰よりも認めていたからだ。


確かに胡蝶の見た目は華奢であり、一見すれば、武士には不向きな、か弱い印象を与える。

しかしその内には、並の男では足元にも及ばないほどの強靭な精神力と、卓越した武芸の才が秘められていることを、頼昌は誰よりも理解していた。

彼は胡蝶が幼い頃からその成長を見守り、その才能を間近で見てきたのだ。

また、学問においても胡蝶の右に出る者はいない。

この乱世を生き抜くに相応しい知力と、そして武力を彼は確かに兼ね備えているのだ。


「琴もただ、お前の身を案じているのだ。あやつなりにお前を愛しているが故の、親心よ」


頼昌は遠い目をして、懐かしむように言った。


「分かっております。母上は、私を……誰よりも愛してくださっている。父上も、私のような、素性の知れぬ赤子を拾い上げ、ここまで育ててくださいました……」


胡蝶は言葉を詰まらせながら、絞り出すように言った。

その瞳には頼昌と琴への深い感謝の念が浮かんでいた。

胡蝶は一度言葉を切り、意を決したように真っ直ぐに頼昌を見つめた。


「……父上は私の元服に、反対でございますか?」


その問いはまるで、縋るような響きを帯びていた。

胡蝶にとって頼昌の言葉は、何よりも重い。

頼昌は自分の言葉一つで胡蝶の運命が決まってしまうような、そんな気がしていた。


「……」


頼昌は、胡蝶の言葉に、すぐには答えなかった。

その目は、細められ、遠くを見つめるように、虚空を彷徨っている。


彼の胸の内には深い葛藤があった。

胡蝶の武芸の腕前、そして学問の才は申し分ない。

いや、それどころかこの乱世を生き抜くには十分すぎるほどだ。

しかし元服するということは、いずれ戦場に赴くということ。

それはすなわち、過酷な戦乱の世界に身を投じ、命の奪い合いを目の当たりにするということだ。


(果たして優しすぎる胡蝶が、それに耐えられるのか……?)


頼昌の脳裏に胡蝶の幼い頃の姿が浮かんだ。

傷ついた小鳥を拾い上げ、涙を流しながら手当てをしていたあの優しい姿。

誰かが争っているのを見ると、悲しそうな表情を浮かべ仲裁に入ろうとしていた、あの純粋な姿。


そんな胡蝶が、血生臭い戦場で生き抜いていけるのだろうか。


(……いや、しかし)


頼昌は胡蝶の未来を案じていた。

彼の才能を鳥かごの中で無駄に散らしてしまいたくない。

しかし同時に、彼の心を戦の業火で焼き尽くしてしまいたくもない。

その狭間で頼昌の心は激しく揺れ動いていた。


「……父上」


胡蝶の静かな、しかし力強い声が頼昌の思考を現実に引き戻した。


「……私は、もう、子供ではありませぬ。……いつまでも、父上と母上の庇護の下にいるわけにはいかぬのです」


頼昌はもう一度胡蝶の顔を見つめた。

そこには幼い頃の面影を残しながらも、確かに成長した一人の青年の姿があった。


「私も真田の、そして海野の一員として、この乱世を生き抜いていきたいのです。……父上と母上に、少しでもこの御恩を、お返ししたいのです」


胡蝶の言葉は静かだが、力強かった。

その言葉は頼昌の心を、深く揺さぶった。


(……そうか、胡蝶は、もう、そのようなことを考える歳になったか)


頼昌は胡蝶の成長を、嬉しく思う反面一抹の寂しさを感じていた。

まるで雛鳥が巣立ちの時を迎え、親鳥がそれを寂しく見守るようなそんな複雑な心境だった。


「胡蝶」


頼昌はゆっくりと口を開いた。


「お前の気持ちは、よく分かった」


その言葉に胡蝶の瞳が大きく見開かれた。


「では!」

「しかし、元服の儀を執り行うには、まだ、時期尚早というものだ」


頼昌はそう言うと胡蝶の肩にポンと手を置いた。


「もう少しだけ待て。……必ず、その時が来る」


頼昌の言葉は静かだが力強かった。

その言葉に胡蝶は深く頷いた。


「……はい、父上」


胡蝶は静かに、しかしはっきりとそう答えた。

その瞳にはもう迷いの色はなかった。


「さあ、もう遅い。今宵はこれで終いとしよう」


頼昌はそう言うとゆっくりと立ち上がった。


「はい……お休みなさいませ、父上」


胡蝶は深く頭を下げた。


「ああ、お休み、胡蝶」


頼昌はそう言うと胡蝶に背を向け歩き出した。

その背中は先ほどよりもさらに大きく、頼もしく見えた。

胡蝶は頼昌の背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。

その瞳には、決意の光が宿っていた。


(……私は父上と母上のために、生きるのだ)


胡蝶は心の中でそう誓った。

その誓いは暗闇の中に灯る一条の光のように胡蝶の心を照らしていた。


夜明けは近い。

少なくとも、胡蝶はそう思っていた。


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