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第四幕 母の心、胡蝶知らず

胡蝶がこの世に生を受け、そして山中で真田頼昌に拾われてから、十余年の歳月が流れていた。

赤子の頃より海野の家臣である真田頼昌とその妻・琴に引き取られ、二人の惜しみない愛情を一身に受けて、胡蝶は美しく、そして逞しく育っていった。


真田頼昌──彼は海野棟綱の娘・琴の婿であり、その立場は海野一門の中でも高い。

知勇兼備の武将であり、領民からの信頼も厚い頼昌は、海野家の行く末を見定めるという重要な役目を担い、この地に根を張り、武芸を磨き、一族の繁栄のために尽力している。


そんな頼昌は、胡蝶を実の息子のように……いや、あるいは嫡男である源太左衛門以上に可愛がった。それは、妻である琴とて同様である。


幼少より胡蝶は神童の名をほしいままにしていた。

学問においては古典から兵法、詩歌に至るまで、一度目にすれば全てを記憶しそれを十全に理解するのみならずさらに深い考察を述べる。

それは、まさに一を聞いて十を知る……いや、百、あるいは千に到達せんとするかの如き、天才的な理解力であった。


武芸においてもその才は、いかんなく発揮された。

細くしなやかな体躯からは想像もつかぬほどの膂力を発揮し、弓を引けば百発百中、狙った獲物を確実に射抜く。

剣を執れば蝶が舞うかのように幻惑的な太刀筋で相手を圧倒し、槍を構えれば疾風の如き突きで敵を薙ぎ払う。

その腕前は同年代の者たちが束になっても敵わないほどであり、歴戦の武士たちですら舌を巻くほどであった。


体術においては、この頃周辺で暴れている野盗たちを一人で撃退したこともあった。

胡蝶は野盗たちの奇襲を受けながらも、慌てることなく一人、また一人と、無力化していったのだ。


その戦いぶりは、まさに舞のようであったという。野盗たちの攻撃を柳に風と受け流し、合間を見ては的確に急所を突く。

そしてあろうことか、捕えた野盗たちに対して、何故そのような狼藉を働くのかと、一人一人に問い質したという。


「さぁ、吐け。何故、このような悪事を働く?」


胡蝶は捕らえた野盗たちの前に、悠然と座り込んだ。

その顔は慈愛に満ちた微笑みを湛えている。しかし、その瞳の奥には有無を言わさぬ強い光が宿っていた。


「そ、それは……その、金が……」

「金だと? 金がどうした。金がお前たちに人を襲えと言ったのか?」

「いや、その、金がねぇと、飯が食えねぇ……」

「飯が食えぬだと? ならば、なぜ働かぬ。汗を流して働けば、その対価として金銭が得られる。それが、この世の道理であろうが」

「し、しかし、俺たちは、その、仕事がねぇ……」

「仕事がない? ふむ……それは何故だ?」


胡蝶の追求は、延々と続いた。

野盗たちは最初は渋々答えていたが、胡蝶の理路整然とした説教と慈悲深い表情から発せられる、何故かこちらの良心に咎めを与えるような口調の前に、徐々に自分たちの行いを恥じ始めた。


「お、俺は、その、戦で家族を失って……それで、自暴自棄に……」

「わ、私は、主家が取り潰されて、路頭に迷って……」


野盗たちは自らの境遇を語り始めた。

胡蝶はそれらの話を黙って聞いた後、一人一人に優しく語りかけた。


「……そうか。それは、さぞや辛い経験であったな」

「お前たちにも、それぞれに事情があったのだな」

「だが、だからといって、他人を傷つけて良い理由にはならぬぞ」


胡蝶の言葉は、優しく、そして厳しかった。

野盗たちは、まるで父親に諭されている子供のように、うなだれて、その言葉に聞き入った。


「そのような行いは、亡くした主君や家族が悲しむだけではないか」


胡蝶は野盗たちの目を一人ずつ、じっと見つめた。

その瞳は深い慈愛に満ちていた。


「……されど、他に生きる術がないのだ」


野盗の一人が、うつむきながら言った。胡蝶は、その男の肩に、そっと手を置いた。


「ならば、この胡蝶と共に来るがよい」


その言葉に、野盗たちは驚きの表情を浮かべた。


「わ、我々を……家臣として召し抱えてくださるというのですか?」


胡蝶は静かに頷いた。


「この乱世、力を持つ者が、持たざる者を守るのは当然のこと。お主らの力、この胡蝶が正しき道へと導いてやろう。まぁ、少しばかりの説教を受けてもらうがな」


──と、ここまでは良かった。

この美談は、胡蝶の慈悲深さと武勇を里中に知らしめ、彼の名を大いに高めることとなった。

しかしこの一件には、後日談がある……。


「「「もうやめてくれぇ……口を開かんでくれぇ……」」」


野盗たちは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、胡蝶に懇願した。

その説教たるや、なんと三日三晩。飲まず食わず、不眠不休で続けられたという。

説教の最中、あまりの眠さに意識を失いかけた野盗が、胡蝶の「本当に改心する気があるなら、眠気など吹き飛ぶ筈」という、有無を言わさぬ迫力に満ちた一喝で飛び起きた、などという笑えぬ逸話まである。


「お主らの境遇、よぉく分かった。では、最後に聞こう。今後、二度と悪事を働かぬと誓えるか?」

「「「ち、誓います!」」」

「よろしい」


胡蝶は満足げに頷いた。

こうして野盗たちは、胡蝶の家臣……というよりは、下働きとして、真田家で働くこととなった。

以来、彼らは人が変わったように真面目に働き、胡蝶を心から恐れ……いや、敬うようになったという。

この一件は、「胡蝶のお説教」として、里の者たちの語り草となった。

その慈悲深さと、とてつもない説教の長さは、今なお伝説として、この地に伝えられている。


そして極めつけは、その容姿である。胡蝶の年を重ねるごとに美しくなっていく様は、まさに「この世の奇跡」と呼ぶに相応しかった。

陽の光を受けて輝く、長く艶やかな黒髪は普段は後ろで一つに束ねられているが、風に靡く様はまるで生き物のようにしなやかで美しい。

陶器のように白く滑らかな肌は吸い込まれそうなほどに透き通り、長い睫に縁取られた瞳は、深い湖のように静謐な光を湛えている。

その美しさは男女問わずあらゆる人々を魅了し、胡蝶を一目見ようと遠方から訪れる者も少なくなかったという。


「胡蝶殿は、まさに天女の生まれ変わりだ」

「いや、天女よりも美しいかもしれぬ」


里の者たちは、口々に胡蝶の美貌を絶賛した。

なお、胡蝶の前でそのようなことを言えば彼は怒り狂うので禁句である。


そんな才色兼備の胡蝶。

彼に比べれば、頼昌と琴の嫡男である源太左衛門などは、さぞかし不憫であろう──などと思う者は、この真田の里には一人もいなかった。

何故なら、源太左衛門もまた、胡蝶に勝るとも劣らない、類まれなる才能の持ち主だったからだ。


源太左衛門は胡蝶と同じように……いや、遥かに幼少の頃より武芸に秀で、その腕前は大人顔負けであった。

体格にも恵まれ、見るからに強靭な肉体は、日々の鍛錬の賜物である。

その顔立ちは、胡蝶のような中性的な美しさとは異なり、精悍で、まさに「武士」と呼ぶにふさわしい、容姿であった。


性格もまた、胡蝶とは対照的で、豪快かつ奔放。

しかし、その一方で、義理堅く、情に厚い一面もあり、里の者たちから厚い信頼を寄せられていた。

勉学においては、胡蝶ほどの神童ぶりは見せないものの、それでも秀才という言葉では言い表せぬ才覚を持ち、実直で、一度決めたことは最後までやり遂げる、強い意志を持っていた。


「源太左衛門様は、きっと立派な武将になられる」

「真田家は安泰だ」

「胡蝶殿と源太左衛門様、お二人がいれば、この里は百年先まで栄えるだろう」


里の者たちは、胡蝶と源太左衛門という二人の若き才能に、大きな期待を寄せていた。

そして、その期待通り、二人は互いに切磋琢磨しながら、成長していくのであった。


そして、そんな文武両道、才色兼備の胡蝶であるが……。


もう十五になるというのに、未だ元服の儀を済ませていなかった。

つい先日、源太左衛門は見事に元服を成し遂げ、晴れて「真田源太左衛門幸綱」の名を賜り、周囲からも一人前の武士として認められた。

凛々しい元服姿を披露した源太左衛門、いや、幸綱は、真田家の嫡男として、また一人の武士として、決意を新たにより一層鍛錬に励むことを誓った。


だというのに、胡蝶は未だに幼名のままだ。


──それというのも。


「だめです。元服は許しません」


優美な着物に身を包んだ女性──琴御方の、氷のように冷たい言葉が、庭に響き渡った。


「──」


若者たちの手から力が抜け、大イノシシがドスンと地面に落ちる。

その重い音が、まるで胡蝶の心を打ち砕くかのように、庭に響き渡った。

先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返る。


「胡蝶。私は常々、言っている筈です。危ない真似はするな、と」


琴は優雅な仕草で扇子を仰ぎながら、皮肉気に言った。

その声は普段の慈愛に満ちたものとは異なり、どこか冷ややかで突き放すような響きがあった。


「あ……え、で、でも……琴様……」


先ほどまで巨大なイノシシを仕留め、若者たちを率いて意気揚々としていた胡蝶が、まるで別人のように狼狽えている。

その姿は母の叱責を恐れる幼子そのもの。


「何度言えば分かるのです。『母』と呼びなさい」


琴は扇子で口元を覆いながらため息交じりに言った。


「……は、母上」


絞り出すような声で胡蝶は言った。


「し、しかし、私も……私も、真田の、海野の一員として……」

「──いいですか、胡蝶。貴方は、武士になどならなくて宜しいのです。体も細く、武芸は達者でも、それは魅せる才……。本当の殺し合いではない。貴方には、他にいくらでも、その才を発揮する場がありましょう」


慈愛に満ちた笑みを浮かべ、琴御方は続ける。


「第一、貴方がそのような危ない真似をする度に、この母の心の臓がどれほど冷えるか……もっと、自分を大切になさい」


そう言うと琴御方は、胡蝶の頬にそっと手を添えた。

その手は少しだけ震えていた。


「そもそも、そのように細い腕でイノシシなど危険な相手に、戦いを挑むなど──」


──そう。

母である琴御方が胡蝶の元服を頑なに認めてくれないのだ。


頼昌と琴の愛情を受けて育った胡蝶は、確かに可愛がられた。

……いや、可愛がられすぎたと言った方が正確かもしれない。

腕白で小生意気な実子・源太左衛門やその弟の虎千代とは違い、胡蝶は頼昌と琴にこの上なく従順であった。


加えて庇護欲をそそる儚げな容姿、そして、幼少より発揮していた神童ぶりとくれば、それはもう、目に入れても痛くないほどに溺愛されるのも当然と言えよう。

殊に琴はその細くしなやかな腕や、陶器のように滑らかな白い肌をまるで宝物に触れるかのように優しく撫で、胡蝶が望むものは可能な限り何でも与えてきた。


故に琴は焦っていた。

年々、源太左衛門の真似をするように荒事に首を突っ込み、日に日に「男子」らしくなろうとする胡蝶──いや、彼は紛れもない男子なのだが──その成長を、喜ばしく思う反面、言いようのない不安と、寂しさを感じていたのだ。


胡蝶は琴にとって娘であり息子のようでもある、不思議な存在だった。

庇護すべき存在であり、いつまでも愛でていたい、庇護欲をそそる存在であり……そしていつか、この手から離れていってしまうのではないかという、言い知れぬ不安を抱かせる存在。

まるで、籠の中の美しい蝶のように。


「危ないことはしないでくれと、あれほど……」

「で、ですが、母上! イノシシは危険な獣です。里の皆が怯えているのを、放ってはおけませぬ……!」

「言い訳など聞きとうない。体術に現を抜かす暇があるなら、おとなしく勉学に励んでいなさい」


琴の言葉はまるで幼子を諭すようでありながら、その奥には胡蝶を危険から遠ざけたいという、母としての強い想いが込められていた。

そしてその想いは、時として胡蝶の成長を阻害する枷となっていることを、琴自身も薄々気づいているのだ。


(このままでは、胡蝶は……)


琴は苦悩に満ちた表情を浮かべた。

彼女の胸の内には、胡蝶の将来を案じる母としての愛情と彼をいつまでも手元に置いておきたいという、独占欲にも似た感情が渦巻いていた。

そして、その狭間で揺れ動く自身の心を持て余し苦悩しているのだ。


「母上」


胡蝶の、悲しげな声が、琴の思考を現実に引き戻した。


「私は……私は、ただ、父上や母上のお役に立ちたいだけなのです」

「……胡蝶」


琴は、小さくため息をついた。


「お前は……本当に、優しすぎるのです」


琴は胡蝶の頬にそっと手を伸ばした。


「その優しさはこの乱世においては、弱さにもなりかねません」


琴の指先が、胡蝶の白い頬に触れる。

それは壊れ物に触れるかのような優しい仕草だった。


「……母上?」


胡蝶は困惑した表情を浮かべた。

琴の真意が理解できないのだ。


「私は」


琴は言葉を詰まらせた。

胸の奥に渦巻く複雑な感情を、どのように言葉にすれば良いのか分からない。


「お前には、幸せになってほしいのです」


絞り出すようにようやくそれだけを告げると、琴はくるりと胡蝶に背を向け足早に館へと戻って行った。

その背中は普段の凛とした佇まいとは異なり、どこか小さく寂しげに見えた。

優美な着物の裾が、むなしく風に揺れている。


後に残されたのは呆然と立ち尽くす胡蝶と、気まずそうに顔を見合わせる源太左衛門たち。そして、彼らの足元で、寂しげに転がる大イノシシだけだった。

先程までの喧騒が嘘のように、静寂が辺りを支配する。

ひゅう、と場違いなほどに間の抜けた風が吹き、木の葉が舞う。その音だけが、やけに大きく響いた。


「……まぁ、くよくよするな、胡蝶」


その静寂を破ったのは、源太左衛門だった。彼は、胡蝶の肩にポンと手を置き、満面の笑みを浮かべて言った。


「母上もああは言っているが、本当はお前のことを心配しておられるのだ。元服なんて儀式に囚われずとも、お前がお前の信じる道を歩めばそれで良いではないか」


その言葉に、若者たちも次々と胡蝶を慰め始める。


「そ、そうだぞ胡蝶! 俺たちは、お前が元服しようがしまいが、お前のことを、立派な仲間だと思ってるからな!」

「心配すんなって! 武士なんてのは、結局、見た目じゃねぇよ。大事なのは中身、魂よ、魂!」

「そうそう! イノシシだって、あんなにデカくても、結局は胡蝶に仕留められちまったんだからな!」


若者たちの言葉は最初は胡蝶を元気づけようとする優しさに満ちていたが、次第に雲行きが怪しくなっていく……。


「しっかし、あんな細腕で、よくもまぁ、あんな大イノシシを……」

「やっぱり、胡蝶は、ただ者じゃねぇ……もしかしたら、本当に、不思議な力を持っているんじゃ?」

「そういえば、胡蝶の舞は、見る者を別世界に誘うような、不思議な魅力がある……」

「なぁ、いっそ、舞姫として生きていくってのはどうだ? あの美貌なら、天下一の舞姫になれるんじゃねぇか?」

「そ、それは名案だ! 女装束を着せたら、その辺の姫君なんて、目じゃねぇだろうな!」

「お、おい、お前たち……冗談でも、それを胡蝶の前で言うのは……」


源太左衛門は慌てて若者たちの口を塞ごうとするが、時すでに遅し。


「……お主ら、全員、そこに並べ」


胡蝶は、満面の笑みを浮かべていた。

しかし、その瞳の奥には、凍てつくような冷たい光が宿っている。

その、普段の彼からは想像もできない凄みに、若者たちは、恐怖でその場に立ち尽くした。


「良い心がけだ。母上は体術より勉学と言ったが……今日は久しぶりに体を使って学ぶとしようか」


胡蝶は冷徹なま眼差しで若者たちににじり寄る。


「ひぃっ!」

「た、助けてくれぇ!」


若者たちは、悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


「待て、お前たち!この胡蝶が成敗してくれるわっ!」


胡蝶は、若者たちを追いかけていく。

その光景は、童の遊びのようであり、先程までの重苦しい雰囲気は、完全に吹き飛んでいた。


「あーあ、またか……」


源太左衛門は、頭を抱えながら、ため息をついた。


「全く、お前たちも懲りないな……だが、少しは胡蝶の気も晴れただろう」


そう言って、騒がしく走り去っていく胡蝶と若者たちを、苦笑しながら見つめるのだった。


後に残されたのは、夕日に照らされ、寂しげに転がる大イノシシだけ。

館の庭には、胡蝶と若者たちの悲鳴がいつまでも木霊していた……。


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