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第三幕 蝶は未だ羽ばたかず

信濃国──其処は、まさに戦国の縮図であった。

村上氏が怒涛の勢いで勢力を伸ばし、守護・小笠原氏の残存勢力が根を張る。

諏訪には古社の神威を背にした諏訪氏が位置し、そして隣国の大勢力である甲斐の武田、上野の山内上杉、越後の長尾がじりじりと圧力を強めていた。

まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた同盟と背信の糸が、この地を覆い尽くしている。小規模な合戦が日常となり、かつての同盟が一夜にして敵対関係となることも珍しくはない。

そんな中で、各地の豪族たちは生き残りを賭けた駆け引きを続けていた。


そして、乱世の地・信濃国の東、山深い小県郡にて物語は幕を開ける……。


「はぁ、はぁ」


早朝の山霧の中を、一人の青年が駆けていた。

年の頃は十五、六。

まだ幼さの残る面立ちながら、陽光を受けた露が光る樹々の間を青年は何かに追われるように走り続ける。

時折、背後を振り返りながら息を切らせて山道を登っていく。だが、その表情には、どこか余裕すら感じられた。

まるで、何かを特定の場所へ誘い込むかのように──


その時だった。


枝葉の揺れる音と共に、轟音が背後から迫る。

振り返ると、巨大なイノシシが、まるで小山のような体躯を揺らしながら突進してきていた。

獲物を追って血走った目、大木をも粉砕しかねない牙。その威容は、まさに山の王といった趣だった。


だが──


追われていたはずの青年は、不意に足を止めると、にやりと不敵な笑みを浮かべた。


「胡蝶、今だ!」


その声が山間に響き渡った瞬間、頭上の木々が揺れ、一つの影が舞い降りる。

陽光を背に、まるで蝶のように優雅に宙を舞う人影。肩まで伸びた漆黒の髪が風に靡き、陶器のように白い肌が朝日に輝く。


「はぁーっ!」


胡蝶と呼ばれた青年は、イノシシの背に向かって真っ直ぐに落下していく。だが、その動きには無駄が一つもない。

右手に握った短刀が一突き、イノシシの急所を正確に捉える。血飛沫が散る中、胡蝶は獣の背を踏み台に軽やかに着地。まるで舞を披露するかのような、優美な所作だった。

巨獣は、その美しい動きの意味を理解する間もなく、その場に崩れ落ちた。


そうして動かなくなったイノシシを見て──


二人は目を合わせると──


「やったぞっ!」

「成功だ!」


これまでの凛とした雰囲気が一変し、二人は子供のように飛び跳ねて喜んだ。


「ついに仕留めたぞ、山の主を! 今の一突き、見事だ胡蝶!」


青年は胡蝶の肩を叩きながら、目を輝かせて叫んだ。まるで十年前、幼かった頃のような無邪気さだ。


「ああ、苦節三年……やったな、次郎三郎!」


胡蝶もまた、これまでの優美な佇まいを忘れたかのように、はしゃぎながら相手に抱きついた。


「はは──」


だが、次郎三郎と呼ばれた青年は、抱擁を受け入れながらも、少し呆れたように言った。


「おい、この間、儂は元服したのだぞ。もう真田幸綱と呼べと申したはずだが」


その言葉に、胡蝶は茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべるのだった。


「幸綱は本名であろう。軽々しくその名を口にするな。源太左衛門どの」


胡蝶の言葉に、青年は思わず苦笑した。


「おっと、そうだった。……というか、お主、儂の名を覚えておったのなら最初から言え。さては故意に次郎三郎と呼んだな?」


本名を軽々しく口にすることは、この国では慎むべきこととされていた。

それは武家の作法であり、特に真田家のような由緒正しき家の嫡男となれば、なおさらである。

幸綱──や、源太左衛門こと真田源太左衛門は、胡蝶の茶目っ気に呆れながらも、どこか嬉しそうな表情を浮かべていた。


「俺も早く元服し、名を授かりたいものだが……」


胡蝶の言葉に、源太左衛門は親しげに笑った。


「まぁ……いつまでも『胡蝶』という幼名のままでは恰好がつかぬだろうが……このイノシシを仕留めたのだ。これで父上も母上もお前の元服を許してくれるだろう」


源太左衛門は、誇らしげに倒れた獣を見やる。

しかし、その横で胡蝶は複雑な表情を浮かべていた。


「だと良いのだが……」


胡蝶は呟くように言った。その瞳には、兄弟のように育ってきた源太左衛門への想いが……羨望か、嫉妬か、あるいは別の何かが、複雑に揺れ動いていた。

幼い頃から共に過ごし、互いを理解し合ってきた二人。しかし、今や源太左衛門は一家の嫡男として元服を果たし、新たな一歩を踏み出している。


一方の自分は──


「……」


胡蝶は自分の身体を見つめた。

男子でありながらその体躯は華奢で細身。肩幅は狭く手足は細く長い。まるで舞姫のような優美な佇まいは、武家の男子としては似つかわしくないものだった。

それは身体つきだけではない。

陶器のように白い肌に墨を流したような漆黒の髪。柳の枝のように撓りそうな長い睫に縁取られた瞳は、深い池のように澄んでいて、見る者の心を惑わせる。

すべての仕草には意図せざる優雅さが宿り、時として月光のような儚さすら漂わせる。


──胡蝶。


それは十数年前、真田頼昌に拾われた捨て子の名前。

どこの誰とも知れぬ赤子は頼昌の家で大切に育てられ、そして源太左衛門とは、まるで実の兄弟のように寝食を共にし、互いを理解し時に切磋琢磨し合ってきた。

だが、今こうして源太左衛門の凛々しい姿を目の当たりにすると、胡蝶は否応なく自分の特異さを意識せざるを得なかった。


「まったく……」


胡蝶は細い腕を見つめながら呟いた。


「この胡蝶、頼昌様への御恩を返すためにも武者として戦で功をあげねばならぬというのに、かような華奢な腕では……」

「なにを言っておる」


源太左衛門は即座に返した。


「今しがた大イノシシを仕留めたではないか。お前は単なる力ではない。刃の入れ方、体さばき、すべてを心得ておる」


確かにその通りだった。胡蝶という青年はその儚げな見かけとは裏腹に、驚くべき戦いの才を見せる。

今しがたのイノシシ退治でもその華奢な身体からは想像もつかない技量を披露したばかりだ。


「されど……」


胡蝶は自らの胸に手を当てた。


「もし、この腕がもう少し太ければ。この胴がもう少し逞しければ。もっと多くのことができるのではないかと」

「ないものを数えても始まらぬぞ。お前には、お前にしかできぬことがある」


その言葉に胡蝶は不審そうな表情を浮かべ、聞き返した。


「この胡蝶にしかできぬこと……例えば?」

「そうだな、例えば……うーむ」


源太左衛門は、どこか怪しげに目をそらして言った。


「女装束を纏うとか……?」


一瞬の静寂──


胡蝶の蹴りが、源太左衛門の脛を直撃した。


「痛っ! 待て待て! 最後まで聞け──」

「何が『最後まで聞け』か! この前の宴で、俺に巫女の衣装を着せようとしたのもお主であろうが!」

「いや、あれは本当に上手く──ぐはっ」


今度は胡蝶の肘が源太左衛門の腹に突き刺さった。


「そ、そうだ!今のような素早さと正確さこそが、お前の──」

「もう一言でも女装束のことを言えば、この短刀で貴様の舌を切り裂いてやろうぞ」


にこやかに微笑みながら、しかし眼光鋭く言い放つ胡蝶。


「お、おお、すまぬすまぬ。冗談を言いすぎたようだ」


源太左衛門は、冷や汗を流しながら両手を挙げて降参の意を示した。

随分と荒々しいやりとりではあったが、二人の間にある確かな絆がそこには垣間見える。

血は繋がっていなくとも、十数年の歳月が育んだ兄弟のような信頼関係。それは、このような無遠慮な言葉の応酬にこそ、最も色濃く表れているのだった。


「さて、いつまでも戯れているわけにもいくまい」


源太左衛門が立ち上がる。


「この大イノシシを家に持ち帰り、皆の度肝を抜いてやろうではないか!」

「うむ。これだけの獲物なら、さぞや喜ばれることだろう。里のみんなにもイノシシ肉を振舞ってやれるかもしれん」


意気揚々と二人は獲物に近づいたものの──


「こ、これは……」

「予想以上に重いな……」


イノシシの体躯は、二人で持ち上げるにはあまりにも重かった。

太い木の枝を見つけ、それに括り付けて運ぼうとしたが、枝はイノシシの重みで危うく折れそうになる。


「これは人手が必要だ」

「うむ。里まで走って、手伝いを頼もう」


そうして呼ばれてきた里の若者たちは、目の前の光景に驚きの声を上げた。


「は、はえぇ……真田の若と、胡蝶がこのイノシシを……?」


獲物の大きさもさることながら、彼らの目には、華奢な胡蝶の姿と巨大なイノシシとの対比が、まるで現実とは思えないものに映ったのだろう。

しかし、里の者たちは皆、胡蝶の実力を知っている。

幼い頃から、その華奢な体躯からは想像もつかない技量を、幾度となく目の当たりにしてきたのだ。


「よいしょ、よいしょ」

「おぉ、みんなで担げば何てことはないな」


若者たちは歓声を上げながら、イノシシを担いで山を下り始めた。

獣の重みも、皆の笑顔の前では軽やかなものとなる。


「これだけの大物を仕留めるとは、胡蝶もいよいよ元服の時が近いんじゃねぇか?」


イノシシを運びながら、一人の若者が声を上げた。皆、胡蝶とは幼い頃からの付き合い。彼がまだ元服していないことを気にかけていた。


「胡蝶の腕前なら、もう立派な侍だぁ」

「あの体つきからは想像もつかんほどの強さよ」

「それにしても、胡蝶殿ときたら、姫君よりも愛らしい容姿で──」

「うむうむ、この辺りじゃ評判の美人さんたちも及ばぬほどの──」


次第に会話は危険な方向へと逸れていき、胡蝶の体が小刻みに震え始めた。


「──お主ら、そろそろ命が惜しくなくなったか?」


凍てつくような声に、若者たちは慌てて口を噤んだ。そんな中、源太左衛門だけが、こらえきれずに吹き出していた。


「はは! まぁ、これほどの獲物を持ち帰れば、父上も母上もさぞや喜ばれよう。胡蝶の元服も、近いのではないかな」


源太左衛門の言葉に、若者たちも口々に同意する。


「成る程! 琴姫様もこれを御覧になれば、胡蝶を一人前の武者として認めてくださるかもなぁ」

「そうそう。これだけの手柄があれば、もう子供扱いはできまいて」

「元服したら、どんな名を賜るのかな」


まるで元服が明日にでも決まったかのように、若者たちは話に花を咲かせる。

最初は苦笑いを浮かべていた胡蝶だったが、次第にその表情が和らいでいく。確かに、これだけの獲物なら──。

胡蝶の瞳に、わずかな期待の色が灯った。


「そ、そうよな……」


胡蝶は小さく呟いた。


「これほどの獲物なら、琴様もきっと……うむ、そうだ。これなら俺を一人前と認めてくださるはず……」


徐々に大きくなっていく胡蝶の声に、若者たちの話も一層盛り上がる。


「元服したら、大いに祝おうじゃないか!」

「祭りのように賑やかにな!」

「酒を携えて、夜通し騒ぎましょうぜ!」


すっかりその気になった胡蝶も、珍しく調子に乗り始めた。


「よし! 元服したら皆で大いに騒ごうではないか。酒も肴も、この胡蝶に任せておけ!」

「おお!」

「さすが胡蝶だ!」

「気前のよいことで!」


歓声が上がる中、ただ一人、源太左衛門だけが苦笑いを浮かべていた。




♢   ♢   ♢




「だめです。元服は許しません」


一言。

優美な着物に身を包んだ女性──琴御方の言葉が、氷のように冷たく響いた。


「──」


静寂が庭を支配する。

若者たちの手から力が抜け、大イノシシがドスンと地面に落ちる。

その重い音が、まるで胡蝶の心を打ち砕くかのように、庭に響き渡った。


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