初夏を告げる青葉が萌え始めた信濃の山中。朝露に濡れた草木が、早朝の陽を受けて煌めいていた。
鳥の声が響き、生命の息吹に満ちた山の中で、ただ一つ場違いな音が響いている。
か細い、しかし確かな赤子の泣き声。
「むっ──」
その声に気づいたのは、この地の豪族に仕える武士であった。
小県郡を治める海野棟綱の娘婿……真田頼昌。彼はたまたまの散策の折、その異様な音に導かれるように、足を進めていた。
やがて、一本の大きな杉の根元に粗末な布に包まれた小さな命を見つける。
「なぜ、こんなところに赤子が」
頼昌は眉をひそめた。山中に捨て子とは。
この時代、戦乱と飢饉でこうして子を手放さざるを得ない親も少なくはない。
しかし──
「泣き声が、妙だな……」
赤子の泣き声には不思議な響きがあった。それは悲しみでも、空腹でもない。
まるで誰かを呼んでいるかのような。頼昌を、この場に呼び寄せたかのような。
「……」
頼昌という男は武士として、そして滋野三家の嫡流たる海野家に連なる者として、一人の赤子に構っている暇などないはずだった。
館では家臣たちが主の帰りを待ちわび、机上には隣国との同盟や軍備の整備など、明日にも破れかねない命運を賭けた政務が山積みになっている。
だが──
「この足が、前にも後ろにも動かぬか」
どうしたことか。頼昌は立ち尽くしていた。赤子の瞳には、不思議な光が宿っていた。
泣き声は既に止み、その黒い瞳は、まっすぐに頼昌を見つめている。
「……」
頼昌は、ゆっくりと腰を折り、粗末な布に包まれた小さな命を見つめた。
凛とした武将の表情が、一瞬柔らかくなる。大きな手が、赤子の背に添えられ、壊れ物を扱うようにそっと抱き上げた。
「殿!」
参道で主の姿を見失い、ようやく追いついた配下の武士たちが思いがけない光景に言葉を詰まらせた。
主君が見知らぬ赤子を胸に抱いているのだ。
「殿。まさかその捨て子に、御慈悲を?」
「うむ……」
頼昌は目を伏せ、柔らかな声で答えた。
「我が子が生まれたばかりじゃ。もう一人くらい増えようと、手間は変わるまい」
慈悲深い主を知る家臣たちは、苦笑を浮かべながらも、それ以上は何も言わなかった。館では政務が山積み、国中が戦乱に揺れている。
そんな時に拾った捨て子など、普通なら考えられないことだ。
しかし彼らは知っていた。真田頼昌という男が、この戦乱の世に似合わぬ慈悲の心を持つ武将であることを。
──そうして、山中で拾われた赤子は、家へと迎え入れられた。
「まあ、なんと愛らしい」
頼昌の妻である琴御方は、その赤子を一目見るなり、すっかり心を奪われてしまった。
華奢な体つきながら凛とした気品を漂わせる彼女は、幼い頃から歌道に親しみ、また茶の湯にも通じた教養深い女性であった。
赤子は彼女の腕の中で安らかな寝息を立てていた。その横には、生まれたばかりの実子も眠っている。二人の赤子は、まるで双子のようにそっくりな寝顔で、すやすやと眠りについていた。
「まるで兄弟のようですね」
琴御方は微笑んだ。
「この子にどのような名前を?」
頼昌は、しばし黙考した。
窓の外では初夏の風が吹き、庭の若葉が光を受けて煌めいている。
その光の中で赤子の寝顔もまた、不思議な輝きを放っているように見えた。
「流石に何処の血筋とも知れぬ赤子に真田の姓はやれぬが……そうだな……」
言葉が途切れた瞬間、初夏の陽光が障子を通して部屋に差し込み、一匹の蝶が舞い込んできた。
白地に薄く青みを帯びた翅が、まるで光そのものが形を得たかのように部屋の中を優雅に舞っていく。
「まあ」
琴御方の目が輝いた。
「きれい……胡蝶のよう……」
教養深い彼女は、その蝶の舞いに大陸の古の賢人・荘子が夢の中で蝶となって舞い、目覚めた時に自分が蝶なのか蝶が自分なのか分からなくなった、という故事を重ね合わせていた。
思わず口をついて出た言葉に、琴御方自身が驚いたように目を丸くする。だがその時、頼昌の表情が晴れやかに変わった。
「胡蝶……そうか。うむ。胡蝶とはよい名前だ」
頼昌は赤子を見つめ、静かに頷いた。
「蝶のように自由に舞い、この乱世を生き抜くがよい」
その言葉に琴御方は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにそれは柔らかな微笑みへと変わった。
「ですが──男の子に、胡蝶とは。いささか可憐すぎるのでは」
その言葉に、頼昌はしばし考え込んだ。
だが、赤子の寝顔をのぞき込むと自然と言葉が零れた。
「見てみよ。この優美な面立ち。まるで姫君のような愛らしさよ。胡蝶という名が相応しいとは思わぬか?」
「あら……」
琴御方は袖で笑みを隠しながら言った。
「つい先日まで、赤子の顔などどれも同じに見えると仰っていた方が、随分と詳しくなられましたこと」
二人の穏やかな笑い声が、静かな部屋に優しく響く。
障子を通した陽の光が、寄り添って眠る二人の赤子の上に、やわらかな影を落としていた。
その光の中で、胡蝶と名付けられた赤子は、まるで蝶の夢でも見ているかのように、安らかな寝息を立てていた。