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胡蝶の刀は久遠に舞う ~戦国歴史改変譚~
胡蝶の刀は久遠に舞う ~戦国歴史改変譚~
季未
歴史・時代戦国
2025年02月02日
公開日
7.2万字
連載中
幾度となく繰り返される悠久の時の牢獄。胡蝶の夢の狭間を、青年は彷徨い続ける。

ある時は戦国の世に仇なす風となり、武田の赤備えを率いて無情の蹂躙を。
またある時は義を胸に、白地に染まる上杉の毘の旗印を掲げ、天に祈りを。
相模の獅子に抱かれ、その威光を背に五色の采配を振るい、あるいは今川の赤鳥の庇護の下、雅の調べに心を浸す。

青年が歴史の激流を駆け抜けようとすると、愛する者たちは儚く散っていった。
その度に前世の記憶が彼の心を苛む。彼方に広がる平和の空。しかしその知識は、無力。歴史は非情なまでにその流れを変えようとはしない。

幾度、涙を流しただろう。幾度、絶望の淵に沈んだだろう。

だが、此度こそは。

慈愛の籠で、自身を守ってくれた母と父。時の彼方で雄々しく散っていった、戦友たち。
天下の夢と共に散る、覇道を行く主君。乱世に咲く花の如き、散りゆく定めの我が愛児。

──此度こそは、この手で全てを救うのだ。

蝶は信濃の空を舞う。それは美しくも儚い、一羽の蝶が織りなす戦乱の世の夢幻。

第一幕 長篠に舞う胡蝶の夢

天正三年五月二十一日未明、長篠、設楽原。


東の空が白み始め、朝もやがゆっくりと晴れゆく。

湿った土の匂いが鼻をつく。遠くでウグイスの鳴き声が聞こえるが、それもここ設楽原の緊張感の前では、どこか虚ろに響いていた。

一面の緑が広がる設楽原は、今は静寂に包まれている。しかし、この静寂は嵐の前の静けさ、それも長くは続かないことが、この地にいる誰もが理解していた。


「……」


静寂を切り裂くように数万の兵士たちが固唾を呑んで、その瞬間を待っている。

目を向けると赤備えの軍勢が威容を誇っている。陣にはためくのは風になびく「風林火山」の旗印。その軍勢を率いるのは、武田勝頼。

父・武田信玄から受け継いだ名将の風格を漂わせ堂々たる布陣を敷いている。そして前方に陣を構えるは山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ら、歴戦の猛将たち。

その数およそ一万五千。その圧倒的な存在感は対峙する敵軍を威圧するのに十分だった。


相対するは織田信長と徳川家康率いる連合軍。

織田軍の「永楽通宝」と徳川軍の「三つ葉葵」の旗が、初夏の風を受けてはためいている。

兵の数は武田軍を大きく上回る三万八千。その大軍は、設楽原の地形を巧みに利用し、幾重にも連なる強固な陣を築いていた。


「あれが武田の軍勢か……」

「こんな開けた場所で、騎馬を迎え撃つのか……?」


しかし織田・徳川方の兵士たちの表情には武田軍への恐怖と、目前に迫る決戦への不安が入り混じっていた。それもそのはず、相手はあの武田信玄が育て、数多の戦で勝利を収めてきた精強な軍勢。

さらにその武田軍を率いるのは、高天神城を落とし父・信玄をも超える器量を持つと噂される武田勝頼なのだ。


武田家の強さ、それは鍛え抜かれた騎馬隊の機動力と突進力にあった。彼らは、一たび馬を駆れば敵陣を瞬く間に切り裂き、その圧倒的な攻撃力で敵を粉砕する。

その戦いぶりはまさに疾風の如く、林の如く、火の如く、そして山の如し。敵は、その猛攻の前に、なす術もなく蹂躙されるのだ。

幾度となく繰り返された合戦で、武田の騎馬隊は不敗神話を築き上げてきた。三方ヶ原の戦いでは徳川家康を完膚なきまでに敗走させ、その名を天下に轟かせた。


──だが。


武田軍を率いる武田勝頼もまた、視界に広がる織田・徳川連合軍の威容を目の当たりにして、目を細めていた。


「……数では劣るか」


武田軍の大将・武田勝頼は、自らに言い聞かせるように呟いた。その声は、設楽原に吹き渡る風にかき消されそうな程に小さい。

父・信玄から受け継いだ諏訪法性兜は、ずしりと重く、彼の肩にのしかかる。

その兜の下、勝頼の瞳はわずかに揺らいでいた。


「あれほどの軍勢を、何処に隠しておった」


全軍を見渡した勝頼は小さく、しかし確かな声で呟いた。物見の報告では、これほどの数の差はなかったはずだ。

しかし織田・徳川連合軍は、まるで地中から湧き出たかのようにその数を増していた。情報よりもはるかに多いその兵力は、三万八千にも及ぶという。

対する武田軍は、一万五千。倍以上の開きがあった。


さらに勝頼の心を重くしているのは、長篠城東の鳶ヶ巣山砦の状況だった。敵方の別働隊の奇襲を受け、陥落したとの報せが入ったのだ。

これはすなわち退路を断たれたことを意味する。この状況で撤退すれば、背後から敵の追撃を受け大きな損害を被ることは避けられない。もはや武田軍に残された道は一つ。


──前方に陣を構える織田・徳川連合軍を撃破し、活路を開くしかない。


勝頼の脳裏に父・信玄の姿が浮かんだ。甲斐の虎と呼ばれた偉大な父。

信玄ならばこのような圧倒的に不利な状況で、いかなる策を講じるだろうか。敵の虚を突き、地の利を生かし、少ない兵力で大軍を打ち破る。信玄は、まさに用兵の天才であった。


「父上ならばこのような状況で、どのような采配を振るわれるだろうか……」


勝頼は自らに問いかけるように呟いた。しかしその問いに答えてくれる父はもう──


その時であった。


「──信玄公ならば、そもそもこのような戦を起こさないでしょうなぁ」


勝頼の背後から凛とした、しかし明らかに皮肉を含んだ声が響いた。

勝頼がハッとして振り向くとそこには一人の青年が静かに佇んでいた。


年の頃は十五、六歳前後であろうか。日に焼けた武骨な武将たちが多い中で、その青年の肌は陶器のように白く、まるで光を放っているかのようだ。

肩にかかるほどの長い黒髪は、後ろで一つに束ねられ、戦場には不釣り合いなほどに艶やかだった。質素ながらも仕立ての良い着流しを身に纏い、腰には細身の太刀が一振り。

水墨画から抜け出してきたかのような、繊細で儚げな美しさを持つ青年であった。


武田家の重臣たちですら、勝頼に対してこのような無礼な口を利くことはない。

ましてやこの若さで、臆面もなく皮肉を投げかけるなど到底考えられないことであった。しかしその青年は、旧知の友人に語りかけるかのように実に自然な様子で勝頼の傍らに立ち、そして言葉を続けた。


「そもそも信玄公は、戦を始める時点で勝利の九割を掴んでおられた。政で相手の息の根を止め、戦は形を整えるだけの儀式なようなもの。まさか、そんなことも知らなかったとは申すまいな」


勝頼もまた、その青年の無礼を咎めることはなかった。

それどころか苦い敗北を予感したかのような苦笑いを浮かべ、どこか縋るような、それでいて目上の者に語りかけるような、不思議な口調で返した。


「……そうだな。余は、父上に遠く及ばぬということよ。貴殿ならばこの状況、如何する?」


青年は、皮肉げな笑みを浮かべたまま、真っ直ぐに勝頼の目を見つめ返した。


「この戦、すでに負け戦。長篠城を容易く落とせると踏んだのが、最初にして最大の誤算。城兵の抵抗、予想以上に手強く、時を徒に費やしすぎた」


青年は、そこで一度言葉を切り、小さくため息をついた。その表情には、諦観とも、慈愛ともとれる、複雑な感情が浮かんでいた。


「伊勢長島の一向一揆が鎮圧された以上、織田がこれほどの兵力を動員できることは、火を見るより明らか。……四郎、私は以前、長篠攻めの前に、この可能性について忠告したはずだ。まさかとは思うが、あの時、居眠りでもしておったとは言うまいな?」


青年は口元に皮肉な笑みを浮かべた。

しかし、「四郎」と呼ばれた勝頼は叱責するどころかうろたえている。

若くして類稀なる才覚を持つ青年に全幅の信頼を置いていることが、その表情から見て取れた。


「そ、それは……その……」


戦場では猛将として恐れられる勝頼が、「外見上」は年下であろう青年の言葉に、叱られた子供のように肩をすくめ、視線を彷徨わせた。

普段の威厳ある姿は鳴りを潜め、その様子は父親に悪戯を見つかった少年のようだ。その姿を、周囲の歴戦の武将たちは何とも言えない表情で見守っていた。


「この御方にかかれば諏訪の棟梁様もまるで赤子のようじゃ」

「左様左様。だが、此方に火の粉が飛んでくるやもしれぬ。ここで異議を唱えるのは愚の骨頂」


彼らはこの青年が並の者ではないことを知っている。

それゆえにこの不可思議な光景にも慣れきってしまっているのだ。


「……まったく、仕方ない御仁だ。だが、案ずるな。お前の浅慮は、この私がいくらでも尻拭いをしてやろう」


青年は呆れとも慈愛とも取れるため息をつき、皮肉気に、しかしどこか楽しげにそう言った。

年不相応に老成したその態度は、歴戦の武将たちでさえ、畏怖を抱くほどだった。

勝頼が、その言葉の真意をはかりかね、困惑した表情を浮かべていると、青年は、無邪気で悪戯な笑みを浮かべ、言った。


「今頃は信玄公が『直々』に軍勢を率いて、鳶ヶ巣山砦と長篠城を取り戻しにかかっている頃合いよ」

「──今、なんと?」


勝頼の耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。信玄公──彼の偉大なる父、武田信玄が、軍勢を率いている?

馬鹿な、あり得ない。そんなことが、あってたまるか。


「ち、父上は……父上は、この勝頼めに、『一人で長篠の攻略をしてみせよ』と申されたはず……!それなのに、なぜ……」


慌てふためき、言葉を詰まらせる勝頼。その様子を、青年は、まるで面白いものでも見るかのように、にこりと微笑みながら見つめていた。

その微笑みは、慈愛に満ちているようでもあり、冷酷な策士のそれのようでもある。


「それだけではないぞ、四郎」


青年は、勝ち誇ったように、しかし、もったいぶるように言葉を続けた。


「駿河の今川、相模の北条も、この機に援軍を寄越す。さらには、越後の龍どのも、呼応して西上する手筈よ」


その言葉に勝頼は絶句した。

今川も、北条も、果ては上杉まで──?

勝頼が呆然としていると、青年は、ふっと笑い、勝頼の胸を拳で軽く小突いた。


「すまんな。実を言うと、こうなることは分かっていたのだ」

「え──?」


予想外の言葉に、勝頼が目を丸くする。

その様子を、青年は満足げに見つめ、そして、突如としてゆらりと……。


──優雅に舞い始めた。


戦場の喧騒が、一瞬、遠のいたかのように感じられた。固く握られていた兵士たちの手から、武器が滑り落ちる音が、やけに大きく響く。それほどまでに、その舞いは人々の心を奪う美しさを秘めていた。


戦場の埃を纏う着流しが、まるで天女の羽衣のように宙を舞う。

しなやかな四肢はまるで白鳥のように、優雅にそして力強く空間を描く。その動きは、流れる水のように滑らかで、見る者を魅了する。

陶器のように白い肌は、朝日に照らされ、幻想的な光を放つ。中性的な顔立ちは、能面のようでもあり神々しさすら感じさせた。


青年は、舞いながら言の葉を紡ぐように、詩を詠んだ。


「永き刻、待ち焦がれた。幾度となく、夢にまで見た、この光景──我が策謀、深謀遠慮、ここに大輪の花を咲かせん」


その声は、鈴の音のように澄み渡り、陣の隅々まで響き渡った。

その言葉の意味を正確に理解できる者は、この場にはいなかっただろう。

しかし、その舞いとその声に込められた尋常ならざる気迫は、誰もが感じ取っていた。


勝頼も側近の兵たちも、その舞いから目を離すことができなかった。

この戦場にあって、あまりにも異質な、中性的な青年の舞い。死の匂いが立ち込める戦場に、突如として現れた一輪の美しい花のように兵の心を奪って離さなかった。


「この地に似れど、決して同じではない、遥か遠き故郷の空よ。嗚呼、記憶の彼方で散っていった愛しき者たちよ。どうか、時の果てにて我が舞いをご照覧あれ──」


青年は束ねた黒髪を振り乱し、より一層激しく、そして美しく舞う。

その瞳には強い決意と、そして遠い故郷を懐かしむような、深い望郷の念が浮かんでいた。


その瞳が見つめる先にはこの戦国時代の空ではなく、彼が生まれ育った遥か未来の日本の空があった。

ビルが立ち並び、車が走り、人々が自由に行き交う、平和な世界。戦乱とは無縁の、あの空。この時代では想像もできないような未来。その未来を、青年は知っていた。


(──本来ならば。そう、本来の『歴史』であれば、信玄公はこの世にはおらず、今川家もすでに滅亡している。関東の諸勢力は、互いに争い、疲弊し、この長篠の地にて、我が盟友たちは悉く討ち死にする……そして、この長篠の戦いこそが、武田家の、ひいては関東の命運を決定づける、滅亡への序曲となるはずだった……)


青年の脳裏に、本来辿るはずだった「歴史」の記憶が、走馬灯のように駆け巡る。

多くの人々が命を落とし、愛する者たちが引き裂かれる、世界。


(──だが、今回は違う。ようやく……ようやく、ここまで来たのだ)


青年の瞳に、強い光が宿る。それは、希望の光であり、決意の光であり、そして、復讐の光でもあった。

幾度となく繰り返してきた、この「時」の中で、青年は、ようやく、歴史を変えるための、確かな手応えを掴んでいた。


(此度で、全てを終わらせる。そして、新しい時代を、新しい「歴史」を創るのだ。そう、この手で──)


青年は舞いながら。心の中で、静かに……しかし力強く、誓った。


(私は、この時代に仇を討つ者)


そして、その舞いの最後の一瞬、青年は、腰に佩いていた細身の太刀を、流れるような動作で抜き放った。

その切っ先は、この時代の運命そのものを穿つかのように、空の一点を、鋭く、そして正確に、指し示した。


「武田、上杉、今川、北条……かつて私を導いてくれた、光よ。今度は……私が皆を導こう」


青年が舞い踊る姿に、陽光が差し込んだその時、彼の身に着けた装飾品が、一斉に光を反射する。


腰の脇差しの鞘には武田菱が、黒髪を束ねる組紐には上杉笹が、着流しの裾には今川赤鳥が、そして帯留めには北条鱗が、それぞれ精緻な細工で描き込まれている。

陽光を受けて煌めくそれらの紋様は、青年の舞いに合わせて光の軌跡を描いていった。空気が揺れ、光が踊る。四つの家紋は、まるで生き物のように、青年の動きに呼応するかのように瞬きを放つ。

通常ならば相容れぬはずの四つの家紋が、ここでは見事な調和を保ち、青年の存在を一つの芸術作品として昇華していた。


「幾度となく私を絶望させた、歴史という名の狂言よ。此度こそは、私好みの結末にさせていただくぞ──」


青年の舞いは、今まさに、最高潮を迎えようとしていた。

その身に纏う、四家の想いを乗せて、青年は、激動の乱世を、駆け抜けていく。


青年は舞いの終いと共に、目を閉じた。


今までの出来事を思い出すように。


そう、全てはあの日から始まった。


陽光は青年の閉じた瞼を、優しく照らしていた。その白い頬を伝う一筋の雫は涙か、それとも朝露か。


天正三年。長篠の戦いの幕開けを告げる太陽の下で、彼の心はすでに遥か彼方の記憶へと、舞い戻っていた。


まるで蝶が、風に乗って優雅に舞うように──


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