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第8話 永遠の邂逅 

 目覚めると、そこは白い光に満ちた空間だった。

 天井も床も壁もない。

 ただ柔らかな光が、空間全体を包み込んでいる。


 私は、自分の手のひらを見つめた。

 病室のベッドで感じていた痛みも、不自由だった四肢の感覚も、もうない。

 代わりに、不思議な懐かしさが全身を満たしていた。

 まるで、ずっと探していた何かが、すぐそこにあるような。


 クロが、静かに寄り添っていた。

 黒猫の姿は、もう揺らぐことはない。

 まるで、この空間でこそ本来の形を取り戻したかのように。


 遠くで、誰かの足音が近づいてくる。

 振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。

 見覚えのある、でも初めて見る顔。

 心臓が、懐かしい鼓動を刻み始める。


 二人は、言葉を交わすこともなく向き合った。

 写真を手にした少女と、それを覗き込む少年。

 澤野と中村。本来なら出会うことのなかった双子の姉弟。


 最初から分かっていたような気がする。その事実を。

 まるで体の奥底の何かが、ずっと記憶していたかのように。

 胎内で感じていた、もう一つの命の鼓動。


「おかしいと思わない?」私は静かに口を開く。

「私は澤野で、あなたは中村」

「うん」中村は穏やかに微笑む。

「母さんが妊娠中に、色々あったみたいだね」

「家族の事情で、もし双子が生まれていれば、片方は中村家の跡取りになるはずだった」


 私は生まれて、彼は生まれなかった。

 でも、本当はその逆だったかもしれない。

 あるいは、二人とも生まれる可能性もあった。

 母の胎内で、運命は様々な可能性を秘めていた。

 結果として私は澤野として生まれ、中村という可能性は別の世界線として残された。


「きれいな空だね」

 中村が写真から目を離し、私へ微笑む。

「でも、この写真には空が写っていない」


 私が見つめる写真には、何も写っていない。

 ただの白い紙のよう。

 でも、光にかざすと、かすかに何かが浮かび上がる。

 それは空の形をしているようで、でも空ではない。

 まだ形を持たない、可能性の集合体。


「これは、僕たちが見ている空かもしれない」

「観測されない可能性の形」

「生まれなかった世界と、生まれた世界の境界」


 二人の間に流れる温かな沈黙。

 胎内で感じていた温もりのよう。

 言葉にする必要のない確かさが、そこにはあった。


 クロが、静かに二人の足元に寄り添う。

 猫は両方の世界を見ているのだろうか。

 存在と非存在の狭間を、自由に行き来できるように見える。


「母さんの声、覚えてる?」

「うん。いつも話しかけてくれたね」

「でも、一人しか選べなかった」


 後悔の色はない。ただ、事実として一つの状態に収束するように。

 それは自然の摂理であり、量子の振る舞いであり、存在の本質。

 生まれることを選ばれた者と、選ばれなかった者。

 でも、それは本当に選択だったのだろうか。


 空間に浮かぶ光の粒子が、ゆっくりと舞い始める。

 まるで、無数の可能性が目覚めるように。


「これが最後の一枚。まだ見ぬ空の写真」

「でも、それは本当に『見ぬ』空なのかな」


 二人は今、確かにその空の下にいる。

 観測されない可能性の中で、それでも確かに存在している。

 写真には何も写っていないのに、そこには全てが映っているような気がした。


 私は写真を、そっと胸に抱く。

 それは単なる白い紙切れかもしれない。

 でも、そこには二人の物語が、確かに刻まれている。


「また会えるかな」

 私の問いに、中村はただ微笑む。

 その表情が、夕陽のように柔らかい。


 白い空間が、光の粒子へと還っていく。

 まるで、量子の波が重なり合うように。

 二つの世界線は離れていくが、それは別れではない。

 同じ空が二度とないように、別れもまた永遠ではない。


 クロが小さく鳴く。

 その声は、二つの世界に同時に響いているような気がした。


「同じ空は、二度とない」

 中村の最後の言葉が、永遠の真実として刻まれる。

「でも、それこそが美しいんだ」

「一瞬一瞬が、かけがえのない選択だから」


 光の粒子が、ゆっくりと形を失っていく。

 存在が、再び可能性の海へと溶けていく。

 二つの世界線は離れていくが、その軌跡は深く交わっていた。

 それは終わりではなく、新しい可能性の始まり。


 観測と選択が作り出す、無限の物語の一つとして。

 二人は、それぞれの空の下へと還っていく。

 でも、その空は確かに繋がっている。

 たとえ、誰の目にも映らなくても。

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