目覚めると、そこは白い光に満ちた空間だった。
天井も床も壁もない。
ただ柔らかな光が、空間全体を包み込んでいる。
私は、自分の手のひらを見つめた。
病室のベッドで感じていた痛みも、不自由だった四肢の感覚も、もうない。
代わりに、不思議な懐かしさが全身を満たしていた。
まるで、ずっと探していた何かが、すぐそこにあるような。
クロが、静かに寄り添っていた。
黒猫の姿は、もう揺らぐことはない。
まるで、この空間でこそ本来の形を取り戻したかのように。
遠くで、誰かの足音が近づいてくる。
振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。
見覚えのある、でも初めて見る顔。
心臓が、懐かしい鼓動を刻み始める。
二人は、言葉を交わすこともなく向き合った。
写真を手にした少女と、それを覗き込む少年。
澤野と中村。本来なら出会うことのなかった双子の姉弟。
最初から分かっていたような気がする。その事実を。
まるで体の奥底の何かが、ずっと記憶していたかのように。
胎内で感じていた、もう一つの命の鼓動。
「おかしいと思わない?」私は静かに口を開く。
「私は澤野で、あなたは中村」
「うん」中村は穏やかに微笑む。
「母さんが妊娠中に、色々あったみたいだね」
「家族の事情で、もし双子が生まれていれば、片方は中村家の跡取りになるはずだった」
私は生まれて、彼は生まれなかった。
でも、本当はその逆だったかもしれない。
あるいは、二人とも生まれる可能性もあった。
母の胎内で、運命は様々な可能性を秘めていた。
結果として私は澤野として生まれ、中村という可能性は別の世界線として残された。
「きれいな空だね」
中村が写真から目を離し、私へ微笑む。
「でも、この写真には空が写っていない」
私が見つめる写真には、何も写っていない。
ただの白い紙のよう。
でも、光にかざすと、かすかに何かが浮かび上がる。
それは空の形をしているようで、でも空ではない。
まだ形を持たない、可能性の集合体。
「これは、僕たちが見ている空かもしれない」
「観測されない可能性の形」
「生まれなかった世界と、生まれた世界の境界」
二人の間に流れる温かな沈黙。
胎内で感じていた温もりのよう。
言葉にする必要のない確かさが、そこにはあった。
クロが、静かに二人の足元に寄り添う。
猫は両方の世界を見ているのだろうか。
存在と非存在の狭間を、自由に行き来できるように見える。
「母さんの声、覚えてる?」
「うん。いつも話しかけてくれたね」
「でも、一人しか選べなかった」
後悔の色はない。ただ、事実として一つの状態に収束するように。
それは自然の摂理であり、量子の振る舞いであり、存在の本質。
生まれることを選ばれた者と、選ばれなかった者。
でも、それは本当に選択だったのだろうか。
空間に浮かぶ光の粒子が、ゆっくりと舞い始める。
まるで、無数の可能性が目覚めるように。
「これが最後の一枚。まだ見ぬ空の写真」
「でも、それは本当に『見ぬ』空なのかな」
二人は今、確かにその空の下にいる。
観測されない可能性の中で、それでも確かに存在している。
写真には何も写っていないのに、そこには全てが映っているような気がした。
私は写真を、そっと胸に抱く。
それは単なる白い紙切れかもしれない。
でも、そこには二人の物語が、確かに刻まれている。
「また会えるかな」
私の問いに、中村はただ微笑む。
その表情が、夕陽のように柔らかい。
白い空間が、光の粒子へと還っていく。
まるで、量子の波が重なり合うように。
二つの世界線は離れていくが、それは別れではない。
同じ空が二度とないように、別れもまた永遠ではない。
クロが小さく鳴く。
その声は、二つの世界に同時に響いているような気がした。
「同じ空は、二度とない」
中村の最後の言葉が、永遠の真実として刻まれる。
「でも、それこそが美しいんだ」
「一瞬一瞬が、かけがえのない選択だから」
光の粒子が、ゆっくりと形を失っていく。
存在が、再び可能性の海へと溶けていく。
二つの世界線は離れていくが、その軌跡は深く交わっていた。
それは終わりではなく、新しい可能性の始まり。
観測と選択が作り出す、無限の物語の一つとして。
二人は、それぞれの空の下へと還っていく。
でも、その空は確かに繋がっている。
たとえ、誰の目にも映らなくても。