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第7話 観測者の眼差し 

 教室に残る生徒たちの姿が、夕暮れの光に溶けていくような錯覚を覚える。

 その中で、私という存在だけが、異様な鮮明さで不自然に浮かび上がっていた。


 春川美咲──。

 私は机に座ったまま、ゆっくりと指を折る。

 どこか儀式めいた仕草は、少しでも肉体の衝動を抑えるためのものだ。

 三つの太陽の光が、頬に照り付ける。

 今日も、肉体が疼く。

 支配したい、破壊したい、痛めつけたい。

 その欲求は、日に日に強くなっていく。


 朝は母親の化粧品を全て洗面所に投げ捨てることから始まる。

 制服の下には、昨日の暴力の痕が残っている。

 誰かを傷つけた時の、あの快感。

 肉体は、それを求めて震えている。


 授業中、教科書のページを破り続ける。

 ビリビリという音が、心地よい。

 先生は何も言わない。

 この世界では、それが正しいことなのだから。


 昼休み、弁当箱を廊下に投げ捨てる。

 周りの生徒たちも、同じように。

 床には食べ物が散乱し、誰かがそれを踏みつける。

 血のような赤い染みが、廊下に広がっていく。


「やっぱさぁ、あいつムカつくよね」


 放課後の教室で、友人が不満げに言う。


「あの上から目線」と、別の子が続ける。「まるで、自分は汚れちゃいないみたいな顔して」


 私は黙って聞いていた。

 確かに、あの子は目障りだった。

 あの子は、この狂った世界の秩序に従わない。

 教科書を大切に扱い、授業をまじめに聞く。

 昼休みには一人で読書をし、

 暴力の連鎖に加わろうとしない。


 先日、私が他の生徒を痛めつけているとき、

 あの子は悲しそうな目で見ていた。

 その目が、耐えられない。

 まるで、私の存在自体を否定されているような錯覚。

 なぜあの子だけが安らかでいられるのか。


「あ、来た」


 下校時間。

 標的の女子生徒が、廊下を歩いている。

 いつものように一人で、本を抱えて。


 ぴくりと、指先が跳ねる。

 じわじわと、血液が逆流するような感覚。

 理性という薄い膜が、少しずつ溶けていく。


 肉体が、私の意識を押しのける。

 脳は「やめろ」と叫んでいるのに、

 筋肉は歓喜に震えている。

 これが、肉体の本能なのだ。


 暴力への渇望は、まるでウイルスのように

 細胞という細胞に感染していく。

 もはや私は、自分の身体の傍観者でしかない。

 肉体は、ただ破壊を求めて動き続ける。


 理性は、透明な箱の中に閉じ込められたまま。

 そこから、自分の行動を見つめることしかできない。

 これが、私の「正常」な状態なのだ。


「おい」


 自分の声なのに、どこか他人の声のように聞こえた。

 でも、止められない。いつものことだ。


 女子生徒が振り返る。

 その目に、恐怖が浮かぶ。

 正しい。これは正しいことなのだ。

 肉体が、そう告げている。


「今日は何して遊ぼうかな」


 声は、甘ったるい。

 周りの友人たちが、にやにやと笑う。

 これが、正しい世界の形。

 みんなで共有する『正しさ』。


 バッグを掴む手に力が入る。

 中身が、床一面に散らばっていく。

 化粧ポーチ。スマートフォン。手帳。

 それらを蹴り飛ばす足も、私のものではないような気がした。


「あら、大切な写真が」


 手帳から滑り落ちた写真を、拾い上げる。

 家族写真のようだ。


「お父さんとお母さん、仲良さそうね」


 写真を破きながら、心の中で笑う。

 幸せな家族なんて、所詮偽りに過ぎない。

 両親の離婚も、この世界の必然。

 そう、全ては壊れるべくして壊れるのだ。


 誰かの幸せを壊すとき、肉体は最高の悦びを感じる。

 それは決して表には出さない。

 ただ内側で、狂おしいほどの快感が広がっていく。

 女子生徒の悲鳴が、心地良い。


 破られた写真を、床に投げ捨てる。


「羨ましいから、壊してあげる」


 周りの生徒たちが、さらに写真を踏みつける。

 服が乱れ、髪が引っ張られ、化粧が崩れていく。

 誰かが血を流している。

 でも、それが誰の血なのかは分からない。


 廊下には、時折他の生徒が通り過ぎていく。

 でも、誰も止めようとはしない。

 むしろ、血の匂いに誘われるように、じっと見つめている者もいる。


「もう、許して...」


 震える声もかすれてきた。

 でも、まだ足りない。

 肉体が、もっとと叫んでいる。

 この痛みも、この苦しみも、全て必要なこと。

 世界が、そう決めているから。


「ねぇ、制服脱いでみない?」


 私の口から、思いもよらない言葉が漏れる。

 周りの生徒たちの目が、異様な輝きを帯びる。

 それは、いつもの『遊び』の領域を超えていた。


「やめなさい」


 突然の声が、静かに、しかし確かに響いた。


 振り返ると、見知らぬ女子生徒。

 どこか見覚えのある顔。

 でも、それ以上に気になったのは、その立ち振る舞い。

 周囲の狂気じみた空気の中で、彼女だけが妙に落ち着いていた。


「邪魔しないで」


 声が震える。

 脳が警告を発している。

 この生徒には、関わってはいけない。

 肉体が、ただならぬ危険を感じ取っている。


「あ、そうそう」


 女子生徒は、まるで思い出し話でもするように明るく言う。


「私、最近オンライン護身術講座を受講してまして」


 その不釣り合いな明るさに、戸惑う。

 周りの生徒たちも、一瞬動きを止めた。


 次の瞬間、私の拳が風を切る。

 しかし、相手はそれを軽やかに受け流す。


「これが二の腕の入り方で...」


 女子生徒は実に楽しそうに説明を加えながら、私の攻撃をいなしていく。

 まるで、暴力そのものを茶化すように。

 それが、私の心に底知れぬ恐怖を呼び起こした。


「なんなの、あんた」


 声が上ずる。

 今まで感じたことのない感覚。

 この異常な世界の中で、最も異常な存在に出会ってしまったような。


 空から、血の雨が降り始める。

 廊下の照明は床から天井へと逆さまに光を放ち、窓の外では鳥たちが後ろ向きに飛んでいく。

 いつもの、正しい世界の風景。


 でも。

 目の前の女子生徒は、その全てを無視するように、ただ淡々と私の暴力に対応していた。


「あ、この技もいいですよ」


 私の腕を取り、見事な投げ技で床に押さえ込む。

 その仕草は、どこか遊び戯れるような雰囲気さえ漂わせている。


 廊下に散らばっていた写真の破片が、風に舞う。

 私は、床に押さえつけられたまま、天井を見上げた。

 そこには、巨大な目が浮かび上がっている。

 この世界を監視する、神のような存在。


 それは、いつもの光景のはずだった。

 でも今は、その目に映る自分の姿が、妙に歪んで見えた。


 階段を駆け上がる足が、もつれる。

 転んで膝を擦りむいても、立ち止まらなかった。


 後ろから、誰かの笑い声が聞こえる。

 いつもの取り巻き連中だ。

 「ざまあみろ」という言葉が、背中に突き刺さる。

 裏切り?いや、これが当然なのだ。弱者を貶めることこそが、この世界の掟なのだから。


 二階。三階。

 手すりにしがみつくように、さらに上へ。

 額から流れる汗が、床に点々と落ちていく。

 いや、これは汗なのか、それとも血なのか。

 もう、わからない。


 かつての餌食たちが、廊下から見つめている。

 その目は、底なしの闇のよう。

 彼女たちの中に潜む何かが、私を見て笑っている。

 まるで、地獄の亡者たちのように。


 四階。

 もう、逃げ場はない。

 ただ、本能的に上を目指す。

 丁度、空から降り注ぐ血の雨が、窓ガラスを赤く染めていた。


「あ...」


 階段の踊り場で、足が完全に止まる。

 筋肉が引き攣り、意識が遠のいていく。

 これが、肉体の反逆なのか、それとも最後の警告なのか。

 それでも美咲は、這いずり寄るように屋上の扉に手をかけた。


 扉に触れた指先が、かすかに震える。

 鍵はかかっていない。

 いや、そもそもこの世界に、錠前など存在していなかったのかもしれない。

 歪んだ世界では、障壁さえも幻想に過ぎない。


 扉が開く音が、妙に生々しく響く。

 夕暮れの風が、頬を優しく撫でた。

 その感触があまりにも鮮明で、現実味を帯びていて。

 だからこそ、目の前の光景が、より一層非現実的に見えた。


 空には、三つの太陽が浮かんでいる。

 それぞれが異なる色の光を放ち、重なり合い、世界を不確かな色で染めていく。

 そして、その上には。

 巨大な目が、全てを見下ろしている。


 冷たい視線。

 だが、その冷たさは氷のようでいて、どこか慈しむような温もりを含んでいた。

 まるで、この歪んだ世界の全てを受け入れようとするかのように。


 私は力なく倒れ込み、仰向けになって空を見つめる。

 呼吸をするたびに、記憶が不規則に揺らめく。

 断片的な光景が、万華鏡のように次々と浮かんでは消えていく。


「同じ空なんて、どこにもない」


 その言葉が、不意に意識を掠める。

 誰かが言っていた気がする。いや、確かに聞いた覚えがある。

 でも、それが誰の声だったのか。いつ、どこで聞いたものなのか。

 思い出そうとすればするほど、記憶は霧の中へと溶けていく。


 空の目が、ゆっくりと瞬きをする。

 その瞳の中に、見覚えのある景色を見た。

 研究室の黒板。実験器具。兄の背中。

 そして、世界の終わり。


 全ては繋がっている。

 全ては、誰かの選択の結果。

 その事実に気づいた瞬間、背後から声が聞こえた。


「やあ」


 振り返ると、フェンスに寄り掛かる男子生徒の姿があった。

 見覚えのある、制服。

 まるで、ずっと前から知っていた誰かのように。

 友人のようでもあり、子供を諭す父親の態度のようにも思えた。


「君のこと、前から気に入らなかったんだ」


 三島と名乗った生徒の声には、不思議な響きがあった。

 憎しみでも怒りでもない。むしろ、どこか懐かしむような。

 まるで、遠い記憶の中の出来事を語るような口調で。


「誰...」


 私の問いかけに、三島は首を傾げた。

 その仕草には、どこか演劇的な滑稽さがあった。

 でも、その目は真剣そのものだ。


「さあ、誰だろうね」

 三島は、夕陽に照らされた自分の手のひらを眺める。

「僕自身にも、よく分からないんだ」

 その指が、光に透かすと少し透明に見えた。

「ただ、君のことは分かる」


 三島の視線が、私を捉える。

 その瞳の奥に、無数の可能性が渦を巻いているような錯覚。


「君は、選択を放棄している」

「全ては流れに従うだけ、そう思い込んでいる」


 その言葉が、胸を貫く。

 痛みは無い。でも、何かが確実に壊れていく音が聞こえる。

 今まで信じていた全てが、砂のように崩れ落ちていくような。


「違う」

 声が震える。

「これは、必然なの」

 肉体が疼きだす。いつもの、あの感覚。

「私の意思なんて、所詮肉体が求めるものに過ぎない」

 暴力への衝動が、血管を這い上がってくる。

「全ては、決められた通りに...」


「本当にそう?」


 三島の声が、意識を貫く。

 それは波のように、全身を震わせる振動。

 直接脳に訴えかけてくるような、力強さを感じた。


「君は、兄の真似をしていた」

「それは、れっきとした選択じゃないか」


 息が止まる。

 心臓が一拍飛ばす。

 誰も知らないはずの事実。

 それを、この見知らぬ生徒が。


「でも、それは...」

 言葉が、上手く紡げない。


「正しさを求めた選択」

 三島の声が、優しく響く。

「でも、正しさとは誰が決めるんだい?」


 血の雨が、静かに降り続けている。

 その一滴一滴が、これまでの選択の重みを帯びているように見えた。

 空の目が、ゆっくりと瞬きをする。


「ほら」三島が空を指差す。

「あれも、誰かの観測の結果に過ぎない」

 その声には、どこか諦めにも似た優しさが混ざっていた。

「誰かが、世界はこうあるべきだと決めたから」

「そして君は、その誰かに従うことを選んだ」


 私は膝を抱え、小刻みに震えている。

 骨の髄まで染み込んだ暴力への衝動が、少しずつ変わっていく。

 まるで形を探るように、新しい在り方を探している。


「だって、これ以外の選択肢なんて...」

「私たちに選択なんてない」

 震える声で、美咲は続けた。

「この世界は、大きな川の流れのよう」

「私たちは、ただその流れに身を任せるしかない」

「抗おうとしても、無駄なの」


 三島は、ゆっくりと首を振る。

 夕陽が彼の輪郭を縁取り、その姿がより一層透明に見えた。


「川は、確かにある」

「でも、誰が川を作った?」

「誰が、その流れを決めた?」


 空の目が、わずかに瞬く。

 その瞳に映る世界は、絶えず形を変えている。

 無数の可能性が、万華鏡のように展開されては消えていく。


「ほら」三島が指差す。「あいつだって、誰かに見られているから存在できる」

「世界は、観測されることで初めて形を持つんだ」


 私は困惑したように目を泳がせる。

 その時、背後で扉が開く音が響いた。


 振り返ると、そこには先ほどの女子生徒が立っていた。

 制服の裾が風に揺れ、その姿は夕陽に透かすと幻のようだ。

 でも、その表情だけは確かな存在感を放っている。

 穏やかで、揺るぎない何かを秘めた眼差し。


「観測」と三島が言う。

 その声が、夕暮れの空気を震わせる。

「それは選択そのものなんだ」


 三島の言葉が、反響する。

 実験室で見た量子の二重スリット実験のように、

 観測という行為が世界の在り方を決定づけていく。


「君は、暴力を選んだ」

 三島の声に、非難の色はない。

「彼女は、それを止めることを選んだ」

 ただ、事実を述べているだけ。

「誰も、流されてなんかいない」


 血の雨が、頬を伝う。

 その一滴が、涙のように熱い。


「私が...選んだ?」

 掠れた声が、自分のものとは思えない。


 記憶が、走馬灯のように蘇る。

 兄の研究室で過ごした最後の午後。

 黒板いっぱいの量子力学の方程式。


「この式が証明できれば、世界の見方が変わる」


 兄は、そう言って目を輝かせた。

 その夜、携帯が鳴った。

 交差点での事故。信号待ちの兄を、制御を失ったトラックが直撃した。


 深夜の母の怒鳴り声と、割れる食器。

 父の姿は消え、離婚に至るのは当然の流れだった。


 兄の死と家族の崩壊。二重の喪失から、私の中で何かが歪み始めた。

 暴力への衝動。支配への渇望。


「全部、私のせい?」

 問いかけに、震えが混じる。


「違う」

 三島の声が、優しく響く。

 フェンスに寄り掛かる彼の姿が、

 夕陽に溶けかけているように見える。


「責任を問うているんじゃない」

「ただ、君には選べる力があるって言いたいんだ」

「今の君にも、これからの君にも」


 空の目が、大きく見開かれる。

 その瞳に映る世界が、揺らぎ始める。

 何かが、確実に変わろうとしていた。


 世界の輪郭が、水彩画のように滲み出す。

 血の雨が、重力を無視して空へと逆流を始める。

 建物が呼吸するように膨張と収縮を繰り返し、

 街全体が生命体のように蠢いている。


「見て」

 三島の声に導かれ、空を見上げた。

 巨大な目が、今や揺らぎ始めている。

 観測者であったはずの存在が、ゆっくりと形を失っていく。


「支配する者も、誰かに支配される」

「観測する者も、誰かに観測される」

「それが、世界の本質なんだ」


 足元で、コンクリートが溶け始める。

 それは物質的な崩壊というより、現実という概念そのものが融解していくような感覚。

 まるで、観測されない状態の粒子のように、確かな形を失っていく。


「でも」

「私には、できない」

 声が、宙に霧散する。

「こんな私に、何が選べるって言うの」


 その時、女子生徒が一歩前に出た。

 夕陽に照らされた彼女の姿は、まるで別の世界から来たかのよう。

「私も、選んだことがある」

 その声には、懐かしい響きがあった。

「道路の真ん中で、黒い影を見かけた時」

 女子生徒の言葉が、時空を超えて響く。

「それを、助けようと決めた時」


 息を呑む。

 黒い影。選択の瞬間。そして、分岐した世界。

 全ては繋がっている。全ては、観測によって形作られている。


 空の目が、ゆっくりと閉じていく。

 まるで、もう見守る必要がないと悟ったように。


「世界は、選択によって形作られている」

 三島の声が、風に乗って届く。

「だから、作り直すことだってできる」


「ただし、それは簡単じゃない」

 地平線が、帯のように捻じれ始める。

 三つの太陽が、一つに溶け合っていく。


「選ぶことは、怖い」

 肉体の深部で、まだ暴力への衝動が蠢いている。

 でも、もうそれは支配者ではない。

 ただの可能性の一つに過ぎない。


 目の前の女子生徒が、優しく手を差し伸べる。

 美咲は、初めて自分の意思で、その手を取った。


 手を取った瞬間、世界が変容を始めた。

 血の雨が透明な水滴となり、

 街灯の光が本来の向きを取り戻していく。

 それは美咲の涙と同じ速度で、

 内なる変化と外なる変化が共鳴するように。


 三島の姿は、もうそこにはない。

 観測されることをやめた粒子のように、

 可能性の海へと還っていった。


 空にはもう巨大な目はなく、

 ただの夕暮れの空が広がっている。

 でも、それは以前の空とは違っていた。

 より深く、より透明で、

 そしてより不確かな何かを湛えている。


 同じ空など二度とないという事実が、

 今は希望として心に響く。


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