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第6話 歪んだ日常 

 誰もいない公園で、私はベンチに座っていた。

 膝の上では、黒猫のクロが気持ちよさそうに喉を鳴らしている。

 週末の午後、不思議なほど静かな空間が広がっていた。


 空を見上げると、まばらな雲が流れていく。

 時々吹く風に、木々が優しく揺れる。

 何をするでもなく、ただそうしてぼんやりと過ごすのが好きだった。


 クロは三ヶ月前に保護した野良猫だ。

 道路の真ん中でトラックに轢かれそうになっていた猫を、思わず家に連れて帰ってしまった。

 両親は最初こそ驚いていたけれど、今では立派な家族の一員として扱っている。


 黒猫は珍しくないはずなのに、クロの姿には何か特別なものを感じる。

 瞳の奥に、深い闇を秘めているような。

 時々見せる不思議な仕草は、まるで人間のようだ。


「あー、気持ちいい日差しだ」


 木陰から男子生徒が伸びをしながら現れた。私と同じ学校の制服を着ている。

 彼は、私の隣のベンチに横たわるように座った。

 まるで自分の部屋のソファにでもいるように、どこかのんびりとした態度だ。


 男子生徒は私の横顔を見て、「中村じゃないのか」と呟いた。


「いいえ、澤野です」


「へぇ」男子生徒は妙に感心したように私を見つめる。「三島です。写真部なんだけど...あれ?」


 三島と名乗った男子生徒は首の辺りを探るように手を動かした。


「おかしいな。カメラ、どこだっけ」


 その仕草は、まるで当たり前にそこにあるはずのものを探すような自然さだった。


 クロが、のそのそと三島の足元に近づいていく。


「おっ、クロじゃないか」三島は実に自然な仕草で黒猫の頭を撫でた。


「この猫のこと、知ってるんですか?」私は尋ねる。


「ん?」三島は考え込むように首を傾げた。「ああ...なんでだろうな。知ってる気がするんだけど」


 三島は空を見上げながら、ゆっくりと続けた。「なんか色々あったような...でも、よく覚えてないな」


 彼は眉間に皺を寄せながら、「この猫、よく写真を撮ってたんだけどな。黒い影みたいに写るやつ。不思議な写り方するんだ」と懐かしそうに話す。


「クロは、いつも普通に写りますよ」私はスマートフォンを取り出し、画面を見せた。「ほら」


 そこには、ごく普通の黒猫の姿が写っていた。


「へぇ、君の写真には普通に写るんだ」三島は興味深そうに画面を覗き込む。「なんでだろうね」


 三島はそれ以上考え込む様子もなく、再び空を見上げた。「中村ってのがいてさ。あいつ、よく空の写真を撮ってたんだ。同じ空なんて二度とないって言って...」


 言葉の途中で、三島は不意に表情を変えた。何かに気づいたような、そして自分でもその気づきに驚いているような表情。


「ねぇ」三島が身を乗り出すように澤野の方を向く。「君の誕生日、十月だったりする?」


「...十月十五日ですけど」


「そう」三島は何か確信めいたものを得たような表情を浮かべた。でも、それ以上は何も言わない。


 私には、三島の問いかけの意図が全く掴めなかった。彼は何を確かめようとしているのだろう。

 そして、その「中村」という人物は誰なのだろう。


 爽やかな風が、答えの出ない問いを運び去っていく。


 三島が去った後、私は街へと足を向けた。

 いつもと変わらない、穏やかな休日の午後。

 クロが、軽やかな足取りで付いてくる。


「今日は比較的、静かね」


 空には三つの太陽が浮かんでいた。

 街灯は地面から空へと光を放ち、鳥たちは後ろ向きに飛んでいく。

 横断歩道では、半数の人が逆向きに歩いている。

 いつもの風景。


 デパートのショーウィンドウに目を向ける。

 ディスプレイの商品は、棚から浮き上がっては崩れ、また元に戻る。

 その横で、店員が笑顔で接客している。顔の半分が溶けかけているが、気にした様子もない。


 歩道には子供たちが座り込み、何かを食べている。

 近づいてみれば、それは自分の指だった。

 楽しそうに笑い合う様子は、放課後のお菓子タイムと変わらない。


「あら、澤野さん」


 薬局の前で、担任の先生と出会う。

 胸から下が透き通っているが、傘を差して優雅に歩いている。


「こんにちは」


 丁寧にお辞儀をする。礼儀正しさは、母に叩き込まれた。


 コンビニに立ち寄り、夕飯の材料を買う。

 レジの店員は首が逆さまについているが、テキパキと接客をこなしている。

 ありがとうございました、という声が、逆再生で流れる。


 公園の前を通り過ぎる時、噴水が血を噴き上げていた。

 子供たちがはしゃいでいる。服が赤く染まっているが、誰も気にしていない。

 むしろ、それを避けて通る方が、非常識なのかもしれない。


「そういえば」


 私は空を見上げる。

 三島という人物のことが、どうも気になって仕方がない。

 彼の言っていた「中村」という人物は誰なのだろう。

 なぜ誕生日を聞いてきたのだろう。


 道端では、通行人が時折フリーズする。

 その間に体の一部が消失しても、動き出した途端に何事もなかったように歩き続ける。

 ごく普通の光景だ。


 帰り道、道路の向こう側が視界の端でわずかに歪む。

 いつもより穏やかな気がする。普段はもっと激しく歪むから。


「ただいま」


 玄関を開けると、天井から母の声が降ってくる。

 夕飯の準備を始めないと。


 クロが、前足で、私の足首を掴む。

 いつもの仕草だ。


 今日は、とても穏やかな一日だった。

 ただ、三島との会話だけが、どこか引っかかる。

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