翌日、僕は部室で活動記録を確認していた。
何か重要なことを見落としている気がする。
それを確かめるように、写真部の活動日誌を開いた。
指でページをなぞり、自分の名前を探す。
「中村隼人」──確かに、そこにある。
隣には、美咲の名前。
その下には、他の部員の名前が並んでいる。
けれど、三島の名前がない。
昨日まで確かにあったはずの三島の署名が、跡形もなく消えている。
ページをめくれば、写真展の記録写真。三島が撮影したはずのモノクロ写真には作者名が記されておらず、空白のままだった。
しかも誰もが、それが当たり前だと思っている。
「おい、これ誰が撮ったんだっけ?」
過去の作品を見ながら、部員の一人が僕に尋ねる。その写真は、間違いなく三島が撮ったものだ。構図の取り方や、光と影の扱い方。それは紛れもなく、三島の作風そのものだった。
「三島が...」
「誰?」
部員は首を傾げる。その表情には、演技めいたところが微塵もない。本当に知らないのだ。
職員室に向かい、出席簿を確認しようとした。だが、そこにも三島の名前はない。まるで、彼は最初からいなかったかのように。
写真部の部室に戻ると、三島の机があったはずの場所が空いている。誰も、その空白を不思議に思わない。むしろ、「ここには机を置かないことになっている」と、部員たちは当然のように言う。
放課後、僕は一人で暗室に入った。三島がよく使っていた引き伸ばし機の前に立つ。
彼は、いつもここで写真を現像していた。時には夜遅くまで。
その思い出すら、僕以外の誰もが失っている。
壁に貼られた写真展のポスター。
企画・構成を担当したはずの三島の名前が、そこにはない。
でも、このレイアウト、この文字の配置。全て彼のアイデアだったはずなのに。
暗室の隅に、使い古された三脚が立てかけてあった。
三島の愛用品。傷の付き方まで覚えている。
でも今や、誰のものかも分からない「部の備品」でしかない。
写真部の活動時間が終わり、部員たちが次々と帰っていく。
誰もが普通の放課後を過ごし、普通の下校時間を迎えている。
この異常な状況に、誰一人として気付かない。
最後に残った僕は、部室の電気を消す前に、もう一度三島の机があった場所を見つめた。
そこには、夕陽に照らされた四角い影が落ちている。
まるで、机の痕跡だけが残されているかのように。
廊下に出ると、掲示板に貼られた写真部の紹介ポスターが目に入る。
部員の集合写真。
でも、明らかに不自然な空白がある。
そこに三島が写っていたことを、もう誰も覚えていない。
「写真って、嘘をつくことはないはずなのに」
僕は呟いた。
返事はない。
ただ、廊下の向こうで下校の放送が流れ始める。
いつもと変わらない校内放送。
いつもと変わらない夕暮れ。
その日常の光景が、今は妙に歪んで見えた。
爽やかな風が、屋上のフェンスを揺らしていた。
僕は手すりに寄りかかり、下校する生徒たちを眺めている。みんな、いつも通りの表情で、いつも通りの会話を交わしながら帰っていく。
同じ空なんて、どこにもない——。
白い雲が流れていく様子を見つめながら、僕は考え続けていた。
一瞬一瞬、全く同じ形の雲は二度と現れない。
だからこそ、写真には意味がある。
その瞬間を切り取り、確かにそこにあったという証を残すことができる。
なのに今、写真でさえ三島の存在を留めていない。
昨日までそこにあった彼の姿が、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
写真に写った連続する時間の中で、三島だけが、すっぽりと抜け落ちてしまった。
足元で、クロが伸びをする。
三島がいなくなってから、この黒猫は僕の傍にいることが多くなった。昔からの知り合いのように、自然な距離感で。
ポケットから、一枚の写真を取り出す。
三島がいなくなる直前に撮った最後の一枚。
そこには、ただの黒い影のようなものが写っているだけ。
でも三島は、この写真を撮った後、妙に落ち着いた表情を見せていた。
「何がどうなってるんだ...」
僕は頭を抱える。
写真には確かに写っている。でも、それが何なのかは分からない。
三島の消失と、この写真は関係があるのか。
考えれば考えるほど、答えが見えない。
クロが、小さく鳴く。
この猫も、何か知っているのだろうか。
いや、そもそもただの野良猫かもしれない。
もう何が何だか、さっぱり分からない。
「あの...中村くん」
振り返ると、そこには美咲が立っていた。
「三島さんのことなんですけど...」
その言葉に、僕は思わず歩み寄る。
「覚えてるの?三島のことを」
美咲は小さく頷いた。
「もしかしたら、何か分かるかもしれないんです」
「兄なら、きっと...」
美咲の声には、どこか切実なものが混ざっていた。
クロが、静かに僕たちの足元に近寄ってくる。
「先生、ちょっといいですか」
放課後の理科室で、春川先生は穏やかな笑顔を浮かべながら僕たちの話を聞いていた。
机の上には、生徒たちの答案用紙が積まれている。
赤ペンで丁寧な解説が書き込まれていた。
「興味深い話ですね」
先生は、クロを膝に乗せながら言った。
「三島君が消えて、写真からも記録からも痕跡が消えている。でも、中村君と美咲さんだけは覚えている」
先生は、そう整理してから続けた。
「物理学では、こういう不思議な現象を説明できるかもしれない考え方があるんです」
先生は立ち上がると、黒板に簡単な図を描いた。
「例えば、こういう実験があります。電子が、この二つの穴のどちらかを通るとします」
「私たちの感覚では、電子はどちらか一方の穴を通るはずです。でも実際には、電子は二つの穴を同時に通ることができる」
「ところが不思議なことに、どちらを通ったのか確かめようとした瞬間、電子は必ずどちらか一方の穴しか通っていないことになる」
先生は、チョークを置いて僕たちの方を向いた。
「三島君の場合も似ているかもしれない。彼は今、二つの状態を同時に持っているのかもしれません」
「存在している状態と、していない状態が」
「そして、ほとんどの人にとっては『存在していない』状態で観測されている」
「でも、中村君と美咲さんだけは、別の状態を観測している」
先生は、クロの方を見やる。
「このクロ君も、そういう特別な状態にあるのかもしれません」
「シュレーディンガーの猫という、有名な思考実験があるんですが...」
美咲が小さく頷く。
「ただ、これは今まで理論上の話でしかありませんでした」
「現実の世界で、そんな状態を観測することは...」
先生は言葉を切ると、実験器具の方に目を向けた。
「試してみましょうか。クロ君を使って、実験ができるかもしれない」
「まず、レーザー光を二つに分けます」
先生は、半透明の特殊なガラスを光路に置いた。
「このガラスは、光を透過させると同時に反射もします。つまり、一つの光が二つの経路を通ることになる」
暗闇の中で、二本の光の帯が浮かび上がる。
「これは干渉計という装置です。光の波が重なり合う様子を観測できます」
「通常は、この二つの光が再び重なると、明るくなったり暗くなったりする干渉縞ができる」
先生は、クロを実験台に誘導しながら説明を続けた。
「でも、もし光が別の世界線と繋がっているなら...」
先生は念入りに準備を整えていく。
実験台の周りには複数の計測器が配置され、それぞれが異なる現象を監視するように設定されている。
「電磁場の変動、重力場の歪み、そして量子もつれの検出...」
つぶやきながら、先生は最後の調整を行った。
「どんな結果が出ても対応できるように」
実験台に乗ったクロは、いつもより落ち着いた様子を見せていた。
まるでこの状況に見覚えでもあるかのように。
レーザー光がクロの周りを照らし始めると、その瞳が不思議な輝きを帯びる。
「もし私の推測が正しければ...」
先生の声には、期待と不安が混ざっていた。
「クロ君を通じて、別の世界線との接点が見えるかもしれない」
測定器のディスプレイには、基準値から少しずつ逸脱し始める数値が表示され始めていた。
光が歪んだ。
実験装置から放たれた細い光の帯が、まるで水面のように揺らめき始める。
計測器の針が、静かに振れていく。
「予想通りですね」
春川先生の声が、どこか遠くから聞こえるように感じた。
「この現象は...」
先生の言葉が途切れる。
視界の端で、何かが歪むような感覚。
気がつくと、僕は一人で廊下に立っていた。
(あれ、確か今...)
日が暮れかけている。
帰り支度をしなきゃ。
そう思いながら、何か大切なことを忘れているような違和感が残る。
写真部の部室に戻ると、夕暮れの光が斜めに差し込んでいた。
誰もいない空間に、かすかな埃が舞っている。
まるで、つい先ほどまで誰かがいたかのような余韻が漂う。
部室の隅に、使い古された三脚が立てかけてあった。
見覚えがあるような、ないような。
記憶が、霧の中をさまようように曖昧だ。
窓際の机に、一冊の写真集が開かれていた。
ページをめくると、どこか不自然な空白が目につく。
風景写真の中に、何かが、誰かが、いたはずの場所。
でも、そこには何も写っていない。
廊下から、話し声が漏れてくる。
「ねぇ、写真部って誰がいるの?」
「え?そういえば...」
「部室はあるのに、部員がいない気がする」
「でも、毎年文化祭で展示してるよね?」
会話が遠ざかっていく。
その声は、どこか現実感が欠けているように聞こえた。
壁に貼られた活動予定表には、誰のものでもない手書きのメモが残されている。
『同じ空は、どこにもない』
その文字が、夕陽に照らされて揺らめいていた。
理科室の前を通りすがると、実験器具が整然と並んでいる。
でも、それらは誰も使った形跡がない。
まるで、展示品のように。
黒板には、半分消された量子力学の式が残っていた。
校舎の影が、少しずつ伸びていく。
その影は、時折不自然な角度で折れ曲がる。
物理法則が、かすかに歪んでいるのだ。
でも、誰もそれを不思議に思わない。
職員室から、若い教師が出てきた。
理科の教師のはずなのに、名前が思い出せない。
というより、その存在自体が曖昧で、焦点の合わない写真のようだった。
校門をくぐると、クロが待っていた。
黒猫は、いつもと変わらない姿で佇んでいる。
ただ、その影だけが妙な形をしていた。
まるで、別の存在の影が重なっているかのように。
空には、一つの太陽が沈もうとしていた。
正常なはずのその光景が、かえって不気味に感じられる。
世界は確かに歪んでいる。
でも、それは表面的な狂気とは違う。
もっと本質的な、存在そのものの揺らぎのような。
明日も、新しい朝が来る。
そう思いながら歩き出す。
ただ、その「明日」が本当に昨日と地続きのものなのか、
もはや誰にも分からない。
クロは、静かに僕の後を付いてくる。
その足音は、時折二重に聞こえた。
まるで、見えない誰かともう一匹の猫が、
同じ場所を歩いているかのように。