俺──三島啓人が初めて世界の「ずれ」に気づいたのは、母の遺影を見た瞬間だった。
それは小学校への入学式の二週間前のことだ。
春の朝だった。母は通勤途中の交通事故で命を落とした。警察からの連絡で病院に駆けつけた時には、もう手遅れだった。
白木の位牌の前に置かれた写真。そこには、いつもの母の笑顔が残されている。でも、どこか違っていた。
その笑顔は確かにそこにあるのに、同時にどこか遠くにもある。
まるで一つの場所に留まることを拒むかのように。
その三日後。桜の花びらが、黒い喪服姿の参列者たちの肩に静かに降り積もっていく...。
季節外れの寒さで、みんな黒いコートの襟を立てていた。
来週の入学式で着るはずだった新しい制服は、クローゼットの中で、まだタグが付いたままだ。
父は葬儀の間中、ずっと俺の肩を抱いていた。
「この笑顔だけは、永遠に残るんだ」
父の声が、遠くで響く。
写真の中の母は、永遠に笑みを湛えている。
永遠に——。
その言葉の意味を考えた瞬間、世界が揺らいだ。
写真は確かに時間を切り取っている。過去の一瞬を、永遠の現在として閉じ込める。
写真の中の母は、いつまでもそこにいる。
まるで、時間の流れから切り離されたように。
それは不思議な魔法のようでもあり、残酷な拷問のようでもあった。
母は確かにそこにいる。でも、二度と動くことはない。
笑顔は永遠に続く。でも、新しい表情を見せることは決してない。
その矛盾に、幼い俺の心は引き裂かれそうになった。
記憶の中で、母の表情は常に動いている。
怒ったような顔をして、次の瞬間には笑顔に変わる。
台所で味見をする時の、少し困ったような表情。
父の冗談に、思わず吹き出しそうになるのを必死で堪える仕草。
全ては流れる時間の中にあって、一つとして同じ瞬間はない。
なのに、写真の中の母は、永遠に同じ表情を保ち続ける。
葬儀の後、父は仕事に没頭するようになった。
深夜まで帰らない日々が続き、俺は一人で母の遺影を見つめる時間を過ごした。
写真の中の母は、いつも同じ角度で、同じ光を受けて微笑んでいる。
あの日、シャッターが押された瞬間の光と影が、永遠に保存されている。
ある日の夜、父は珍しく酒を飲んでいた。
普段は決して口にしない焼酎を、グラスに注ぐ手が震えていた。
台所のテーブルに着き、無言でグラスを傾ける。
氷の溶ける音だけが、異様に大きく響く。
「この写真はな」
父の声が、思いがけなく闇を切り裂く。
「去年の撮影会の帰りでな」
グラスを置く音が、妙に鮮明に耳に残る。
「どうしても桜の前で撮りたいって」
父の目は、グラスの中の氷を見つめたまま動かない。
「せがまれてな。近所の公園で」
その声には、張りつめた糸のような何かが混ざっていた。
グラスの中で、氷がゆっくりと溶けていく。
父は、その様子をじっと見つめている。
まるで、そこに何か大切なものを見出そうとするように。
やがて、完全に溶けた氷は、透明な水となって姿を消した。
父の書斎に、古いカメラが置かれていた。
ペンタックスME。母との思い出を撮り続けた、父の大切な相棒。
黒い革のボディは、使い込まれて艶が出ている。
レンズには、かすかな指紋が付いたままだった。
それは間違いなく、母の指紋だ。
俺は、おそるおそる手に取った。
カメラは、予想以上に重かった。
ファインダーを覗き込むと、世界が違って見えた。
窓の外の街並み。走る車。歩く人々。
すべてが、ガラスの向こう側の出来事のように遠く感じられる。
この矩形の枠の中に、世界の一部が切り取られる。
現実が、一瞬だけ止まる。
シャッターボタンに触れた瞬間、その感覚はより強くなった。
まるで、世界の一部を切り取り、自分だけの箱の中に閉じ込められるような。
カメラのメカニカルな響きは、時を封じ込める魔法の呪文のように聞こえた。
それ以来、写真に魅せられた。
シャッターを押す度に、時間の一片を切り取る。
その行為には、世界を支配するような快感があった。
切り取られた瞬間は、永遠に変わることなく、そこに留まり続ける。
まるで、母の遺影のように。
小学校の卒業アルバム。
運動会の写真。修学旅行の記念撮影。
それらは全て、時間の断片を留めおいた標本のようだった。
俺は、それらの写真を何度も見返した。
同級生たちの笑顔は、永遠に変わることなく、そこにあり続ける。
たとえ現実の彼らが変わっても、写真の中の彼らは決して変わらない。
夏休みの自由研究は、迷わず「写真による時間の記録」にした。
毎日同じ時間に、同じ場所から校庭の木を撮影する。
葉の色が少しずつ変化していく様子を、コマ送りのように記録した。
先生は「よく頑張りましたね」と褒めてくれたけど、俺にとってそれは単なる記録以上の意味があった。時間の流れそのものを、確かな形として残せる証明だった。
その確かさに、俺は安らぎを覚えた。
写真さえあれば、大切なものを永遠に失わずに済む。
そう信じることで、母の不在を少しだけ受け入れられた。
でも同時に、写真に写らないものへの焦りも募っていった。
母の声。仕草。温もり。
それらは決して写真には収まらない。
永遠の現在には変換できない何か。
その存在が、時折激しい不安として胸を締め付けた。
高校に入り、写真部に入部した時、初めて中村と出会った。
彼は、いつも空を撮っていた。
朝の空、昼の空、夕暮れの空。
同じアングルで、同じ場所から、ただ空だけを撮り続ける。
屋上の同じ位置に三脚を据えて、何時間でも粘っている。
部室で現像作業をする時も、中村は独特だった。
他の部員が次々と引き伸ばし機を使い終えていく中、彼はいつまでも暗室に残っている。真っ赤なセーフライトの下で、一枚の空の写真と向き合い続ける。露光時間を変えては現像し、また露光時間を変えては現像する。まるで、そこに何か特別なものを見出そうとするように。
「なぜ、空ばかり?時間の無駄じゃないのか」
ある日、思わず言ってしまった。暗室での現像作業を終え、部室に戻った時のことだ。中村は窓際で、昨日撮影した空の写真を並べていた。白い光を浴びた写真には、どれも同じような空が写っている。位置も、構図も、ほとんど変わらない。ただ雲の形が少しずつ異なるだけ。
同じような空の写真を、何百枚も撮り続ける中村が、どこか理解できなかった。空には何もない。時間を切り取る価値のあるものなど、何一つ存在しない。そう、俺には思えた。木々の変化や、人々の表情、街並みの移ろい。そういった確かな変化こそが、写真に収める価値があるはずだ。
中村は写真を手に取り、窓から差し込む光に透かすようにして眺めた。プリントの裏面からも、空の光が透けて見える。その仕草には、どこか儀式めいた意味があるように見えた。
「世界は一瞬ごとに消滅して、新しい世界が生まれているんだ」
中村は、まるで当然のことを言うように答えた。光に透かした写真を、そっと机の上に置く。
「だから、同じ空なんて、どこにもない」
その言葉には、どこか詩的な響きがあった。夕暮れの部室に、不思議な静けさが広がる。でも俺には、ただの戯言にしか聞こえなかった。むしろ、その言葉に込められた意味が、俺の中の何かを激しく揺さぶった。
「そんな戯言を言うなんて、ふざけているのか?」
声が、予想以上に強く響く。部室の空気が、一瞬凍りついたように感じた。
「写真は時間を切り取るものだろう?永遠に残すものじゃないのか」
その声には、必要以上の棘があった。自分でも気づくほどの敵意が、言葉の端々に滲んでいる。
中村は、静かに首を振った。
夕陽に照らされた横顔が、妙に透明に見えた。
「君は写真で時間を止めようとしている」
「でも、それは幻想だよ」
その声には非難めいたものは何もなく、ただ事実を述べるような静けさがあった。
その瞬間、母の笑顔が蘇った。
遺影の中の、永遠に変わることのない表情。
それは確かに、時間を止めている。
そうでなければ、意味がない。
すべてが、無意味になってしまう。
その言葉に、激しい怒りを覚えた。
母の遺影を思い出す。
あの写真の中で、確かに時間は止まっている。
永遠の現在として、そこに在り続けている。
それを否定されることは、母の存在そのものを否定されるように感じた。
「お前には分からないんだよ」
吐き捨てるように言った。窓の外では、夕陽が沈もうとしていた。
「写真は時間を切り取り、閉じ込める」
「それが、写真の意味なんだ」
その言葉には、必死の願いが込められていた。届かない誰かへの祈りのように。
中村は答えなかった。
ただ、空を見上げ続けている。
まるで、俺の見えない傷を見透かしているかのように淡々と。
その、すかした態度が気に入らなかった。むしろ、その静けさが、俺の中の何かを壊していくように感じた。
それ以来、二人は違う道を歩むことになった。
中村は空を撮り続け、俺は切り取られた時間の中に生きようとした。
文化祭の写真。部活動の記録。街角のスナップ。
シャッターを押す度に、世界の一瞬を自分のものにする。
そう信じることで、どうにか前に進めた。
でも時々、不意に母の遺影を見つめる時。
写真に閉じ込められた永遠の現在に、微かな違和感を覚えた。
その笑顔は本当に母のものなのか。
切り取られた時間は、本当に永遠なのか。
そんな疑問が、少しずつ心を蝕んでいった。
体が、時々透明になり始めたのは、その頃からだった。
まるで、写真から零れ落ちようとする光のように。
初めは指先だけ。やがて、手首まで。
ある日は、鏡に映る半身が霞んで見えた。
自分自身が、時間の流れから切り離されていくような感覚。
そして今、暗室で現像作業をする時、薬品の匂いと共に、いつも同じ考えが浮かぶ。
もし世界が本当に一瞬ごとに生まれ変わっているのなら。
もし、中村の言葉が本当だったのなら。
それは、あまりにも恐ろしい真実。
永遠の現在など、どこにも存在しないという事実。
だから俺は、ますます必死に時間を切り取ろうとした。
永遠の現在を求めて、シャッターを押し続けた。
その行為が、最後の抵抗のようにも思えた。
消えゆく自分を、どうにか留めておくために。