目覚めた街は、いつもと変わらない光景を見せていた。
早朝の空気が肌を刺すように冷たい。
「よぅ、シロ元気か!」
街が目を覚ます前から、僕の一日は始まっている。
母さんが経営する『中村動物病院』の事業ボランティアとして、この地域の猫たちの世話をするのが日課だ。
安易な餌やりは、かえって猫たちを苦しめることになる。
それは、母さんから何度も教わってきた。
朝露に濡れた道を、自転車が駆け抜けていく。
街角に佇む小さな影たちは、僕の姿を認めると慎重に近寄ってくる。
餌袋を背負った僕のことを、彼らはよく知っているのだ。
定刻、定量の決められた餌やり。
母さんの指導のもと、全ての猫の首輪にはIDが刻まれ、健康状態は毎日記録される。
この辺りの猫は全てTNR(捕獲・不妊手術・返還)実施済みだ。
事業は着実に進んでいる。
母さんは動物病院を営んでいるが、そこは単なる治療施設ではない。
彼女は常々、「動物との共生には責任が伴う」と語る。
安易な餌やりは、結果として不幸な命を増やすことになる。
街には今でも、飼い主に捨てられた猫たちが数多くいる。
「かわいそうだから」と無計画に保護するのではなく、
地域全体で継続的なケアを行う体制を作ることが重要だと、
母さんは僕に教えてくれた。
「あれ、あんな猫いたっけな?」
電柱の影に、見慣れない黒猫の姿が見えた。
首に、IDプレートをつけている様子もない。
それだけではない。
何か、違和感がある。
「ほぅら、こっちだ。怯えなくてもいいから、こっちにおいで」
野良猫を放置することはできない。
捕まえて母さんに報告しなければ。
そう思った矢先——。
「あ、ちょっと待てよ!」
黒猫は、僕の視線が少しでも外れた瞬間に姿を消した。
まるで、影が溶けるように。
追いかけようとした僕の背後から、慣れ親しんだ声が響く。
「おう、中村!また猫の世話か?」
振り返ると、カメラを首から下げた三島が立っていた。
「ああ、でもちょっと気になる猫を見かけてな」
「どんな猫だ?写真に収めておいた方がいいかもな」
三島はカメラを構えながら、僕の指さす方向を見つめる。
その瞬間、彼の表情が強張った。
「おい、中村...あれ、猫か?」
黒猫は道路の向こうに佇んでいた。
僕には確かに猫の姿が見える。
でも三島は、まるで別のものを見ているかのような表情を浮かべている。
「あそこにいる黒猫のことだよ」
「黒猫...?いや、あれは...」
三島の声が震えている。
「ただの黒いシミみたいなものにしか見えないんだが...」
僕は思わず三島の目を覗き込んだ。
彼は真剣な表情で、決して冗談を言っているようには見えない。
その時、三島は不思議な行動を取った。
震える手つきでカメラを構え始めたのだ。
黒いシミにしか見えないと言ったはずなのに、まるでそこに何かが見えるかのように、レンズを黒猫へと向ける。
「これ、撮っていいか?」
三島の声が、いつもと違う。
真剣すぎる。それは、まるで見てはいけないものを覗き込むような、そんな緊張感に満ちた声だった。
「ああ、いいけど...」
シャッター音が響く。
一枚、また一枚。
三島は執着的なまでに、シャッターを切り続けた。
「おい、もういいだろ。そろそろ学校に...」
「違う、これじゃない」
三島は液晶画面を覗き込みながら、首を振る。
「これじゃない。これじゃない。これじゃない」
彼は呟き続ける。
その様子は、まるで呪文を唱えているかのようだった。
「何が違うんだよ」
「わからないんだ」
三島は俯いたまま、静かに言った。
「でも、ファインダーの中には確かに"何か"が見える。黒いシミなんかじゃない。でも、それが一体何なのかは、写真には写らない」
彼は一瞬、言葉を切った。
「写真には写らないんだ。でも、ファインダーの中では...形を変えている。いや、形を探している?まるで、自分が何者なのかを探しているみたいに」
この現象は、量子力学における「観測問題」を想起させた。
かつて読んだファインマンの著作では、観測者の存在が粒子の振る舞いを決定づけるという不思議な性質が説明されていた。
観測されない限り、粒子は複数の状態を同時に持つという概念。
それは、この黒猫の存在とも重なるように思えた。
三島の様子は日に日に変化していく。
彼は次第にファインダーから目を離せなくなり、
まるで観測そのものに取り憑かれたかのように、
黒猫を追い続けるようになった。
最初は遠巻きに見ていただけなのに、日に日にカメラを構える位置が黒猫に近づいていった。
歩幅も小刻みになり、シャッターを切る間隔も短くなる。
ファインダーから目を離すことすら、おぼつかなくなってきた。
「今日は、どうだ?」
僕が声をかけると、彼は首を振るだけだ。
液晶画面を覗き込む目は、充血して疲れているように見える。
そのくせ、瞳の奥には妙な輝きが宿っていた。
「今日も、"それ"は形を探してる」
三島はそれだけを呟き、また撮影を始める。
黒猫は毎朝、必ず同じ場所に現れた。
僕には相変わらず、れっきとした猫の姿が見えているのに。
「どうして、そんなに撮りたいんだ?」
ある朝、僕は尋ねてみた。
「きっと、"それ"は誰かを探しているんだ」
三島の声は、どこか遠い場所から響いてくるように聞こえた。
「誰かって、誰を?」
「観測する者を」
三島は、初めて僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「誰も、見ていないんだ」
それが、三島の最後の言葉となった。
次の瞬間、彼の姿は消え、カメラだけが地面に転がっていた。
液晶画面には、何も写っていない真っ黒な写真が表示されている。
黒猫は、いつもの場所で佇んでいた。
今までと同じように、れっきとした猫の姿で。