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第2話 同じ空を撮る者 

 時間は不可逆的に流れ、刻一刻と世界は変化していく。

 たとえ同じ場所で、同じ時刻に空を見上げたとしても、

 二度と全く同じ光景が現れることはない。

 それは、宿命であり、可能性でもある。


 同じ空は、どこにもない。


 高校の屋上に設置した固定カメラのファインダーを覗きながら、僕はそんなことを考えていた。

 時は不可逆的に流れ、一瞬前の世界にさえ、もう戻ることはできない。

 それなのに人は、同じ今日が永遠に続くかのように生きている。

 この矛盾に、僕たちはどう向き合えばいいのだろう。


「おい、中村。また写真部のコンテストのネタ探しか?」


 背後から声がして、僕は振り返った。

 三島だ。首からカメラを下げ、寝癖の残る茶色っぽい髪を無造作にかきあげながら、相変わらずの薄ら笑いを浮かべている。

 彼は背が高く、制服のシャツのボタンは大抵開けっぱなしだ。


「『移ろう空と人の心』...とかさ」

「どうせまた、そんな中二病くさいテーマで応募する気だろ?」


 クスクスと笑う三島に、僕は苦笑いを返す。

 県展の写真部門で、去年の僕の作品が落選した時の講評を、いまだに引きずっているのだ。


「お前こそ、いつも猫ばっかり撮ってれば良いのか?」


「猫は裏切らないからな」

「哲学なんて考えなくても、可愛けりゃいいんだよ」


 三島は僕の横に寝転がった。

 痩せ気味の体を投げ出すように伸ばし、腕枕をしながら空を見上げる。

 そのラフな姿勢が、彼らしい。

 新学期が始まって以来、昼休みはこうして過ごすのが、僕たちの日課になっていた。


「なぁ」

「この広い世界のどこを探しても、今僕らが見ているのと全く同じ空なんてないと思わない?」

「それって、つまり僕たちの見ている世界は...」


「はいはい、また始まった」

「お前の持論ね。世界は一瞬ごとに消滅して、新しい世界が生まれてるんでしょ?」


 三島は、わざとらしく大きな欠伸をする。

「写真って、時間を切り取るものじゃないかな」

 彼は雲の流れを見上げながら続けた。

「でも僕らは、その切り取った時間の中に閉じ込められてるわけじゃない」


 僕は考え込む。

 写真部に入って半年、三島との会話はいつもこんな調子だった。

 彼は写真を撮りながら、その行為の意味を問い続ける。

 それは時に面倒くさく感じることもあったが、

 不思議と心地よい時間でもあった。


「あの...」


 声に振り返ると、そこには春川美咲が立っていた。


 彼女は肩までの黒髪をきちんと結び、整えられた制服の襟を指でそっと直す。

 真面目な性格が、その仕草からも伝わるようだった。


 彼女は小柄で、どこか儚げな雰囲気がある。

 でも、その瞳だけは強い意志を宿していた。


「その...写真、撮らせてもらえませんか?」


 美咲は、おずおずと言う。


 写真部の活動を学校新聞で紹介したいという依頼だった。

 生徒会からの要請で、各部活動の特集記事を担当することになったという。

 写真部の副部長である彼女が適任とされたのは自然な流れだった。

 特に、兄である春川先生が顧問を務める理科部との連携企画を提案していて、

 その写真撮影も彼女が担当することになっていた。


「いいけど...ちょっと待って」

「今、寝転がってる姿勢だと...」


 慌てて起き上がろうとする僕たちに、美咲が手を振る。


「そのままの方が、自然で...」


 言いかけて、美咲は顔を赤らめた。

 スカートの中が見えそうな角度だと気づいたのだろう。

 でも、僕たちはそんなことには興味がなかった。


 彼女の心には、ただ一人の存在しか映っていないことを、写真部の誰もが知っている。

 部室の壁には、春川先生が撮影した写真が何枚も飾られている。

 理科室での実験の様子、グラウンドでの部活動、

 そして何より印象的なのは、夕暮れの空を見上げる生徒たちの後ろ姿。

 美咲は、その一枚一枚について語ることができた。


「この写真は、兄が量子力学について説明していた時のものなんです」

「この空の色が、観測の瞬間を表現しているって」

 彼女は、まるで聖典を解説するような口調で語る。


 兄という存在だけで、彼女の世界は満ちている。


「えっと...中村くんの言ってた『同じ空がない』って話」

「兄が言ってたんだけど、それって量子力学でも証明されてるんですよ」


 美咲は、嬉しそうに話し始める。


「観測する人によって、世界は変わるの」

「だから、一つの空でも、見る人の数だけ違う姿になるんです」


 美咲は、兄から聞いた量子力学の理論を、誇らしげに説明していく。


「観測することで波動関数が収縮して、可能性が一つに定まる。でも、次の瞬間にはまた新しい可能性が生まれる」


「はいはい、お兄ちゃんそう言ってたもんね」


 三島が、露骨にため息をつく。


「他人の受け売りばっかりで、自分の言葉はないの?」

「そういうの、後で恥ずかしくならない?」


 美咲の表情が、一瞬で凍り付く。

 何か言いかけた彼女は、そのまま踵を返して走り去っていった。


「おい...ちょっと言い過ぎじゃ」


「めんどくせぇな」


 三島は、背を向けたまま空を見上げ続けた。

 ファインダー越しの世界に、彼だけが見える何かがあるように。

 チャイムが鳴る直前まで、僕たちは流れる雲を追いかけていた。

 夕暮れ近くの空は、刻一刻とその表情を変えていく。

 同じ一枚の写真など、二度と撮れないことを、僕たちは知っていた。


 古文の授業。

 いつもと変わらない教室。

 いつもと変わらない先生の声。

 いつもと変わらない窓の外の空。


 本当に、変わらないのだろうか。


 次の瞬間、この教室に大怪獣が襲来するかもしれない。

 窓ガラスが粉々に砕け散り、巨大な爪が壁を引き裂くかもしれない。

 黒板に書かれた古文の一節は、轟音と共に消え去り、

 生徒たちの悲鳴が教室中に響き渡るかもしれない。

 あるいは、突然天井が真っ二つに割れ、宇宙人が現れて、世界は一変するかもしれない。

 銀色の光に包まれた未知の存在が、古びた教室に降り立つ。

 彼らは人類に何をもたらすのか。平和か、破壊か。

 それとも、次の瞬間、隕石が落ちてきて、全てが終わるかもしれない。

 真昼の空に、突如として現れる巨大な影。

 誰も、その存在に気付く間もなく、世界は灼熱の光に包まれる。


 そんな可能性は、確かにある。

 否定することのできない、確かな可能性として。

 なぜなら、次の瞬間に何が起こるかを、

 誰も本当の意味では知ることができないのだから。


 それなのに、僕たちは「変わらない日常」が続くと信じている。

 なぜだろう。

 それは、僕たちの頭の中で、違う世界を同一のものとして認識できているから。

 記憶という糸で、バラバラの世界を繋ぎ合わせているからだ。


 じゃあ、もし。

 世界が一秒ごとに姿を変えていて、その事実を認識できたとしたら。

 僕は僕自身の存在を、保つことができるのだろうか。

 これは単なる思考実験ではない。

 現代物理学が示唆する、極めて現実的な問いかけだ。


 例えば、教室の空気中を漂う一つの分子を考えてみる。

 その分子は、一瞬前とまったく同じ場所に存在することはない。

 ブラウン運動によって、絶え間なく位置を変え続けている。

 それでも僕たちは、それを「同じ空気」だと感じている。

 同様に、僕たちの身体を構成する原子も、

 一瞬たりとも同じ状態に留まることはない。


 ウィトゲンシュタインは「私は私である」という同一性すら疑問視した。

 この命題は、一見すると自明のように思える。

 でも、「私」とは何なのか。

 今この瞬間の「私」と、一秒後の「私」は、本当に同一なのか。

 記憶は保たれているかもしれないが、

 その記憶を持つ「私」は、もう別の存在になっているのではないか。


 量子力学は、この直感的な不安に科学的な根拠を与える。

 粒子の位置と運動量を同時に特定することはできない。

 これは単なる技術的な制限ではなく、

 世界の根本的な性質なのだと、ハイゼンベルクは主張した。

 不確定性は、世界の基本原理なのかもしれない。


 もし僕たちの意識も、一瞬一瞬で完全に異なる状態に遷移しているとしたら。

 それは、量子状態の変化と同じように、

 連続的でありながら、同時に不連続な変化かもしれない。

 僕たちの意識は、無数の可能性の重ね合わせとして存在し、

 観測された瞬間に一つの状態へと収束する。

 そして次の瞬間、また新たな可能性の集合として展開していく。


 記憶という糸で繋ぎ止めているはずの「自己」という概念も、

 実は幻想に過ぎないのではないか。

 一瞬一瞬の経験は、細い糸のように私たちの意識を貫いている。

 その無数の糸が織りなす布地のような物語が、「私」という存在なのかもしれない。

 でも、その布地には確実に穴が開いている。

 忘却という名の空隙が、記憶の織物にまだらな模様を作る。

 そして僕たちは、その穴を想像力で繕おうとする。

 記憶とは、過去の無数の「私」の断片を、

 現在の「私」が必死に織り直そうとする営みなのだ。

 教科書の文字を見つめる。

 人は連続性の中に生きている。

 過去の経験を積み重ね、それを未来へと投影することで、

 今この瞬間の行動に意味を見出すことができる。

 だからこそ、机に向かって教科書を開き、

 まだ見ぬ将来のために時間を費やすことができる。


 そんなことを考えた時。

 黒板の文字が、わずかに揺らめくような気がした。

 チョークの粉が、空気中をただよう速度が、いつもより遅く見える。

 やがて、その揺らぎは教室全体に広がっていく。

 前の席の生徒の肩が、ゆっくりと霞んでいく。

 窓から差し込む光が、まるでシャッタースピードを遅くしたような残像を引きずり始める。

 生徒たちの姿が、黒い靄のように揺らぎ、

 先生の声が、古いレコードのように引き延ばされていく。

 現実という布地が、少しずつ織り目をほどいていくような感覚。

 やがて世界は、フィルムのコマ送りのようになった。


 一コマ、また一コマ。

 切り取られた瞬間の連なり。

 それが、僕たちの「現実」なのかもしれない。


「おい、寝てたのか?」


 三島の声に、僕は我に返る。

 いつの間にか、放課後になっていた。


 窓の外では、日が落ちていく。

 やがて夜の帳が下り、また新しい朝が訪れる。

 時間は、確実に前へと進んでいく。

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