時々、自分の存在が曖昧になる瞬間がある。
鏡に映った姿が、一瞬だけよく分からなくなる。
誰かに呼ばれた気がして振り返っても、そこには誰もいない。
目が覚めた時、自分がどこにいるのかすぐには分からない。
そんな些細な違和感の積み重ね。
私たちは、そういう瞬間を「気のせい」として片付けてしまう。
目の疲れ、寝不足、ストレス。
理由をつけて、不確かな感覚を遠ざける。
そうやって、世界の輪郭を鮮明に保とうとする。
でも、もしかしたら。
その「気のせい」こそが、世界の本質なのかもしれない。
私たちが「現実」と呼んでいるものは、
ただの習慣的な観測の結果に過ぎないのかもしれない。
通学路の曲がり角。
いつもと同じ景色なのに、時折見知らぬ街に迷い込んだような錯覚。
教室の窓から見える空。
昨日と同じはずなのに、どこか違う色をしている気がする。
放課後の校舎に残る誰かの足音。
振り返れば、そこには誰もいない。
でも確かに、誰かがいた気配だけが残っている。
確かなものなど、どこにもないのかもしれない。
私たちが「現実」だと思っているものは、ただの習慣で、
「普通」だと信じているものは、単なる多数決なのかもしれない。
その「多数決」から外れた瞬間、世界は途端に不確かになる。
写真に写るはずのないものが写り込む。
写っているはずのものが、跡形もなく消えてしまう。
記憶と記録が、少しずつずれていく。
誰かの存在が、まるで霧のように溶けていく。
目を閉じて開けば、また普通の世界が広がっている。
でも、その「普通」が本当に普通なのか、
もう誰にも確信が持てない。
この物語は、そんな「気のせい」の正体に気づいてしまった者たちの記録。
存在の確かさが、まるで波のように揺らめいていく中で、
彼らは何を見出すのだろうか。
そして私たちは、本当に「存在している」と言えるのだろうか。
それとも、誰かの観測が作り出した、
可能性の束の一つに過ぎないのだろうか。
その問いの答えを求めて、物語は始まる。
白い病室の静けさの中で。
午後三時、テレビの音が流れ始める──。
「人間は、社会の役に立つために生きているんです」
引退したアスリートが、真摯な表情で語りかける。
事故で選手生命を絶たれた彼は、今は子供たちにスポーツを教えているという。
素晴らしい生き方だ、とコメンテーターが褒め称える。
画面の中の人々は、みな穏やかに笑っている。
私は、消音ボタンを押した。
白い天井を見上げる。
空調の微かな振動音だけが、静かな空間を満たしていく。
長い前髪が視界にかかり、指でそっと払う。
事故前はもう少し短くしていた気がするけれど、今はどうでもいい。
女子高生『らしさ』なんて、今の私には関係のないものだった。
ナースステーションから、時折看護師たちの話し声が漏れてくる。
時計の針が、午後三時を指している。
まもなく、リハビリの時間。
「社会の役に立つ」
その言葉を、私は何度も反芻する。
もっともらしい響き。正論めいた重み。
でも、それは誰のための言葉なのだろう。
四肢の自由を失い腕を持ち上げるのもやっと。
そんな私に、どんな貢献ができるというのだろう。
ベッドの上で、私は考える。
想像しようとする。
社会の役に立つ自分の姿を。
でも、何も浮かばない。
描こうとする未来が、霧のようにぼやけていく。
「澤野しずるさん、リハビリの時間です」
看護師の声に、私は目を開けた。
いつもの車椅子が、ベッドの横で待っている。
キャスターの軋む音が、やけに鮮明に耳に残る。
不意に、ピースがはまるように記憶が蘇った。
幼い頃の、公園の風景。
ブランコに揺られながら、何を考えていたのだろう。
きっと、何も考えていなかった。
ただ、そこにいた。
風を切る音を聞きながら、空を眺めながら。
生きる意味なんて、考えもしなかった。
社会の役に立つなんて、思いもしなかった。
ただ、在った。
今の私には、遠い他人の記憶のよう。
リハビリ室の平行棒の前で、私は考える。
幸せを求めることが、人間に与えられた定めだというのなら。
それは私にとって、呪いでしかない。
永遠に手の届かない希望に、縋りつき続けることを強いられる呪い。
「一歩、進めますか?」
理学療法士の先生が、優しく声をかける。
その声に、私は小さく頷いた。
一歩。
また一歩。
動かない足を、意識の力で引きずるように。
「こんなことをして」
「何になるんでしょう」
私の呟きに、先生は立ち止まった。
「今、踏みしめた一歩は」
「確かに、あなたが選んだ未来ですよ」
その言葉に、私は息を呑む。
窓の外で、影が揺らめいた気がした。
でも、それは一瞬の幻に過ぎない。
部屋に戻ると、夕暮れが始まっていた。
明日も、同じ時間が流れる。
意味のない時間。
価値のない時間。
でも——。
「必然なのだ」
私は、自分に言い聞かせる。
これは全て、運命の歯車の一部。
大きな川の流れの中の、小さな渦のような。
人生には、本質的な意味など無い。
あらゆる理不尽も、その流れの一部でしかない。
私たちに求められているのは、ただその旋律を乱さないこと。
それだけ。
何をするのも自由。
そして、何をしても意味が無い。
その認識が、不思議な安らぎをもたらす。
必然を受け入れることで、逆説的な自由が訪れる。
窓の外で、また影が揺らめく。
形の定まらない、黒い靄のような何か。
見つめれば見つめるほど、輪郭が溶けていく。
私は、目を逸らさなかった。
理解できないまま、ただ見つめ続けた。
明日も、リハビリがある。
明日も、意味のない時間が流れる。
明日も、必然が私を包む。
それは、呪いなのか。
それとも、救いなのか。
その答えを探すように、私は再び天井を見上げた。
時計の秒針が、静かに時を刻んでいく。
「あの時、こうしていたら...」
なんて。
誰もが一度は抱く空想に耽るのは、もうやめた。
現実は静かに、でも確実に私の身体の奥へと浸透していく。
黒く蝕むように、私の胸の苦痛を埋めていくように。
白いベッドの上で寝たきりの、私という存在を確定させる。
記憶の中で、何度も再生される場面。
道路に佇む、黒い靄のような影。
その不確かな輪郭が、あまりにも頼りないから。
私は、手を伸ばした──。
瞬間。強烈な痛みと共に、私の身体はトラックに跳ね飛ばされていた。
そうして四肢の自由を失い、果てしなく白い病室でただ呼吸を続けている。
差し込む薄オレンジ色の夕日が、母の腕のように温かかった。
涙を浮かべる前に、午後の風が夢心地の頬をつねる。
「全て、必然だった」
そう、考えるしかなかった。
この世界で起きる全ての事象には、必ず理由がある。
猫が現れたことも、私が助けようとしたことも、トラックが来たことも。
それらは全て、あらかじめ定められた運命の歯車の一部なのだ。
私が生まれた瞬間から、この現実は決定されていた。
だから、手の届かないものを求め続けることは、無意味でしかない。
そう、悟ったのだ。
病室のノックの音が聞こえた時、私はいつものようにその音の正体を予測する。
1: 看護師の定期巡回
2: 両親の面会
3: 主治医の回診
ドアが開いた時、そこにはクラスメイトだった中村隼士くんの姿があった。
結局、私の予想はどれも外れてしまったのだ。
必然を予想することは、難しい。
何故なら、多くの必然が複雑に絡み合い相互に影響しあっているから。
人は、それを偶然と呼ぶ。
だけど、私は知っているのだ。
それは、とても複雑なだけで必然であることに変わりは無いということを。
「やぁ、澤野」
中村くんは、窓際の席に座った。
夕日に照らされる彼の横顔は、まるで計算しつくされたように全てが完璧に整っていた。
白いマスクの中から、時折微かな吐息が漏れる。
何か言いたげな表情を、彼は何度も浮かべては消した。
彼は、きっとモテるだろう。
普通に学校に通い、クラスメイトと談笑し、幸福を噛みしめて。
そんな彼に、私は嫉妬してしまった。
だから、少し意地悪をしてみたくなったのだ。
「具合はどう?」
当たり障りのない質問に対して、私の頭の中でいくつかの選択肢が浮かぶ
1: 「うん、大丈夫」(相手を安心させる標準解)
2: 「最悪」(本音だが、相手を困らせる)
3: (黙って微笑む)(無難な対応)
これらの選択肢は、既に結果が決まっているはずだ。
私の性格、状況、相手との関係性。
全ての要素を考慮すれば、私がどの選択肢を選ぶかは、既に決定されているはずなのだ。
だからこそ——。
「すっごく元気!毎日が充実してて、むしろ事故に遭えてラッキーだったかも!」
私は最も不自然な、最も私らしくない選択をした。
大げさなジェスチャーと共に、まるでアイドルのような声色で。
その瞬間、不思議なことが起きた。
中村くんの表情が、一瞬だけ凍りついたように見えた。
そして彼の輪郭が、まるでテレビの砂嵐のように揺らぎ始める。
夕陽の光の中で、彼の姿は徐々に透明になっていった。
最後に見えたのは、どこか切なそうな笑顔。
私に何かを伝えようとした彼の口が、音もなく動いて──。
次の瞬間、彼は完全に消失していた。
窓から差し込む夕陽だけが、彼がいた場所を照らしている。
「澤野さん」
突然、主治医の声が響く。
「退院の準備ができました」
一瞬、意識が飛んだ。
医者の声が遠く、つい先ほどの出来事のようにも遥か以前のことのようにも思えた。
無理やり継ぎ合わせた布のような、歪な時間のつながり。
ぼやけ続ける視界の中心に、見たことのある光景が浮かび上がってきた。
道路の中心に佇む靄のような、黒猫。
その猫がこれからトラックにひかれるであろうことを、何故だか確信していた。
咄嗟に、目を逸らしそうになる。
だけど、私の目は釘づけにされたように道路の中心を見つめ続けていた。
目を逸らしては、いけない。
何故だか、そんな気がしたのだ。
でも、あの時と違って、私は黒猫を助けようとしなかった。
「助けない」と決めた瞬間、視界の隅にもう一つ見慣れた存在が映る。
「やめて!」
私の声は、彼には届かない。
「クロ、危ない!」
中村くんは、その猫のことをクロと呼んだ。
そういえば、以前に聞いたことがある。
彼が可愛がっていたペットの猫が、確かクロって名前だったっけ。
その瞬間、私は走り出していた。
もしこのまま見殺しにしたら、私はきっと後悔する。
これが必然だとしても、運命だとしても、何一つ未来が変わらないとしても。
私は決して「私らしい選択」を、手放してはいけないのだ。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
「早く写真撮っとけよ」
「うわ、足、逆向きじゃん...」
「こんなの助かんねーよ」
誰かの声が、遠くで交錯する。
それは私への言葉なのに、まるで物を扱うような響き。
白い光の中で、私は見つめていた。
アスファルトの上に横たわる、おぞましいまでに歪んだ肉の塊を。
それが私自身だと気づくまでに、少し時間がかかった。
制服のスカートが風に揺られ、その下から覗く足は、人体の構造を完全に無視した角度で折れ曲がっている。腕は......腕はどこにあるのだろう。血の匂いが、吐き気を誘う。
「おい、誰か警察呼べよ」
「スマホ、動画撮っとく?」
「やめとけって。この制服、うちの学校じゃん...」
「マジで?誰だよ」
意識は空中に浮かび、その光景を見下ろしている。
その時、群衆の中に、一つの異質な存在を見つけた。
若い物理の先生。春川先生だ。
いつもの穏やかな表情で、白衣のポケットに手を入れたまま立っている。
彼は、群衆の誰もが気づかないように、ゆっくりと近づいてきた。
その瞳には、凄惨な事故現場などどこにもないかのような、澄んだ光が宿っている。
まるで、教室で物理を説明する時と同じように。
「シュレーディンガーの箱の中で、量子は重ね合わせの状態にある」
先生は、いつもの調子で語り始めた。
「コペンハーゲン解釈によれば、観測行為によって波動関数は収縮し、一つの状態に定まる」
「でも、ヒュー・エヴェレットの多世界解釈では、観測それ自体が分岐を生む」
「アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスすら、平行世界の存在を示唆している」
「量子もつれ、非局所性、そして意識による波動関数の収縮」
彼の目が、異常な輝きを帯びる。
「私たちは今、観測と非観測の境界にいる」
「あなたの意識は、まさに重ね合わせの状態」
「ヒルベルト空間における固有状態の無限の可能性」
「デコヒーレンスによる古典的現実の出現」
「この瞬間にも、無数の分岐が...」
黒い靄のような影が、先生の足元を横切った。
それは形を持たない闇のような、そこにあってないような、不確かな存在。
どこかで見た影。いつか見た影。
記憶が、靄のように混ざり合う。
その影は、地面に横たわる私の肉体に近づき、触れようとする。
途端、周囲の喧騒が遠のいていく。
「存在それ自体に意味など無い」
「でも、意味が無いということは」
「すべてが意味を持ち得るということ」
先生の声が、いつもの教室での声とは違って、どこか遠くから響いてくるように聞こえた。
救急車のサイレンが、現実を引き裂くように近づいてくる。
赤と白の光が、街を染めていく。
私の意識が、ゆっくりと沈んでいく中で。
先生の理論が、頭の中で反芻される。
そして、決定的な違和感が、全身を貫く。
その瞬間、私には見えた。
黒い霧のような影が、確かな輪郭を持ち始める様を。
それは紛れもなく、一匹の猫の姿。
多世界なんて、存在しない。
私たちは、ただ一つの現実の中にいる。
そう理解した瞬間、全てが明確になった。
救急車の揺れが、遠くで感じられる。
医師たちの声。
機械の音。
「もう、ダメかもしれません」
「いや、まだ...」
意識が完全に途切れる前に、私は確かに見ていた。
黒猫の、凛とした姿を。
そして、それが示す必然の真実を。