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クロの旋律
クロの旋律
Jloo(ジロー)
文芸・その他純文学
2025年02月02日
公開日
3.1万字
連載中
 時々、自分の存在が曖昧になる瞬間がある。

 鏡に映った姿が、一瞬だけよく分からなくなる。
 誰かに呼ばれた気がして振り返っても、そこには誰もいない。
 目が覚めた時、自分がどこにいるのかすぐには分からない。
 そんな些細な違和感の積み重ね。

 私たちは、そういう瞬間を「気のせい」として片付けてしまう。
 目の疲れ、寝不足、ストレス。
 理由をつけて、不確かな感覚を遠ざける。
 そうやって、世界の輪郭を鮮明に保とうとする。

 でも、もしかしたら。
 その「気のせい」こそが、世界の本質なのかもしれない。
 私たちが「現実」と呼んでいるものは、
 ただの習慣的な観測の結果に過ぎないのかもしれない。

 通学路の曲がり角。
 いつもと同じ景色なのに、時折見知らぬ街に迷い込んだような錯覚。
 教室の窓から見える空。
 昨日と同じはずなのに、どこか違う色をしている気がする。
 放課後の校舎に残る誰かの足音。
 振り返れば、そこには誰もいない。
 でも確かに、誰かがいた気配だけが残っている。

 確かなものなど、どこにもないのかもしれない。
 私たちが「現実」だと思っているものは、ただの習慣で、
 「普通」だと信じているものは、単なる多数決なのかもしれない。
 その「多数決」から外れた瞬間、世界は途端に不確かになる。

 写真に写るはずのないものが写り込む。
 写っているはずのものが、跡形もなく消えてしまう。
 記憶と記録が、少しずつずれていく。
 誰かの存在が、まるで霧のように溶けていく。

 目を閉じて開けば、また普通の世界が広がっている。
 でも、その「普通」が本当に普通なのか、
 もう誰にも確信が持てない。

 この物語は、そんな「気のせい」の正体に気づいてしまった者たちの記録。
 存在の確かさが、まるで波のように揺らめいていく中で、
 彼らは何を見出すのだろうか。

 そして私たちは、本当に「存在している」と言えるのだろうか。
 それとも、誰かの観測が作り出した、
 可能性の束の一つに過ぎないのだろうか。

 その問いの答えを求めて、物語は始まる。

第1話 白い病室の必然 

 時々、自分の存在が曖昧になる瞬間がある。


 鏡に映った姿が、一瞬だけよく分からなくなる。

 誰かに呼ばれた気がして振り返っても、そこには誰もいない。

 目が覚めた時、自分がどこにいるのかすぐには分からない。

 そんな些細な違和感の積み重ね。


 私たちは、そういう瞬間を「気のせい」として片付けてしまう。

 目の疲れ、寝不足、ストレス。

 理由をつけて、不確かな感覚を遠ざける。

 そうやって、世界の輪郭を鮮明に保とうとする。


 でも、もしかしたら。

 その「気のせい」こそが、世界の本質なのかもしれない。

 私たちが「現実」と呼んでいるものは、

 ただの習慣的な観測の結果に過ぎないのかもしれない。


 通学路の曲がり角。

 いつもと同じ景色なのに、時折見知らぬ街に迷い込んだような錯覚。

 教室の窓から見える空。

 昨日と同じはずなのに、どこか違う色をしている気がする。

 放課後の校舎に残る誰かの足音。

 振り返れば、そこには誰もいない。

 でも確かに、誰かがいた気配だけが残っている。


 確かなものなど、どこにもないのかもしれない。

 私たちが「現実」だと思っているものは、ただの習慣で、

 「普通」だと信じているものは、単なる多数決なのかもしれない。

 その「多数決」から外れた瞬間、世界は途端に不確かになる。


 写真に写るはずのないものが写り込む。

 写っているはずのものが、跡形もなく消えてしまう。

 記憶と記録が、少しずつずれていく。

 誰かの存在が、まるで霧のように溶けていく。


 目を閉じて開けば、また普通の世界が広がっている。

 でも、その「普通」が本当に普通なのか、

 もう誰にも確信が持てない。


 この物語は、そんな「気のせい」の正体に気づいてしまった者たちの記録。

 存在の確かさが、まるで波のように揺らめいていく中で、

 彼らは何を見出すのだろうか。


 そして私たちは、本当に「存在している」と言えるのだろうか。

 それとも、誰かの観測が作り出した、

 可能性の束の一つに過ぎないのだろうか。


 その問いの答えを求めて、物語は始まる。

 白い病室の静けさの中で。

 午後三時、テレビの音が流れ始める──。


「人間は、社会の役に立つために生きているんです」


 引退したアスリートが、真摯な表情で語りかける。

 事故で選手生命を絶たれた彼は、今は子供たちにスポーツを教えているという。

 素晴らしい生き方だ、とコメンテーターが褒め称える。

 画面の中の人々は、みな穏やかに笑っている。


 私は、消音ボタンを押した。


 白い天井を見上げる。

 空調の微かな振動音だけが、静かな空間を満たしていく。

 長い前髪が視界にかかり、指でそっと払う。

 事故前はもう少し短くしていた気がするけれど、今はどうでもいい。

 女子高生『らしさ』なんて、今の私には関係のないものだった。

 ナースステーションから、時折看護師たちの話し声が漏れてくる。

 時計の針が、午後三時を指している。

 まもなく、リハビリの時間。


「社会の役に立つ」


 その言葉を、私は何度も反芻する。

 もっともらしい響き。正論めいた重み。

 でも、それは誰のための言葉なのだろう。


 四肢の自由を失い腕を持ち上げるのもやっと。

 そんな私に、どんな貢献ができるというのだろう。

 ベッドの上で、私は考える。

 想像しようとする。

 社会の役に立つ自分の姿を。


 でも、何も浮かばない。

 描こうとする未来が、霧のようにぼやけていく。


「澤野しずるさん、リハビリの時間です」


 看護師の声に、私は目を開けた。

 いつもの車椅子が、ベッドの横で待っている。

 キャスターの軋む音が、やけに鮮明に耳に残る。


 不意に、ピースがはまるように記憶が蘇った。

 幼い頃の、公園の風景。

 ブランコに揺られながら、何を考えていたのだろう。

 きっと、何も考えていなかった。

 ただ、そこにいた。

 風を切る音を聞きながら、空を眺めながら。


 生きる意味なんて、考えもしなかった。

 社会の役に立つなんて、思いもしなかった。

 ただ、在った。


 今の私には、遠い他人の記憶のよう。


 リハビリ室の平行棒の前で、私は考える。

 幸せを求めることが、人間に与えられた定めだというのなら。

 それは私にとって、呪いでしかない。

 永遠に手の届かない希望に、縋りつき続けることを強いられる呪い。


「一歩、進めますか?」


 理学療法士の先生が、優しく声をかける。

 その声に、私は小さく頷いた。


 一歩。

 また一歩。

 動かない足を、意識の力で引きずるように。


「こんなことをして」

「何になるんでしょう」


 私の呟きに、先生は立ち止まった。


「今、踏みしめた一歩は」

「確かに、あなたが選んだ未来ですよ」


 その言葉に、私は息を呑む。


 窓の外で、影が揺らめいた気がした。

 でも、それは一瞬の幻に過ぎない。


 部屋に戻ると、夕暮れが始まっていた。

 明日も、同じ時間が流れる。

 意味のない時間。

 価値のない時間。


 でも——。


「必然なのだ」


 私は、自分に言い聞かせる。

 これは全て、運命の歯車の一部。

 大きな川の流れの中の、小さな渦のような。


 人生には、本質的な意味など無い。

 あらゆる理不尽も、その流れの一部でしかない。

 私たちに求められているのは、ただその旋律を乱さないこと。

 それだけ。


 何をするのも自由。

 そして、何をしても意味が無い。


 その認識が、不思議な安らぎをもたらす。

 必然を受け入れることで、逆説的な自由が訪れる。


 窓の外で、また影が揺らめく。

 形の定まらない、黒い靄のような何か。

 見つめれば見つめるほど、輪郭が溶けていく。


 私は、目を逸らさなかった。

 理解できないまま、ただ見つめ続けた。


 明日も、リハビリがある。

 明日も、意味のない時間が流れる。

 明日も、必然が私を包む。


 それは、呪いなのか。

 それとも、救いなのか。


 その答えを探すように、私は再び天井を見上げた。

 時計の秒針が、静かに時を刻んでいく。


「あの時、こうしていたら...」

 なんて。


 誰もが一度は抱く空想に耽るのは、もうやめた。

 現実は静かに、でも確実に私の身体の奥へと浸透していく。

 黒く蝕むように、私の胸の苦痛を埋めていくように。

 白いベッドの上で寝たきりの、私という存在を確定させる。


 記憶の中で、何度も再生される場面。


 道路に佇む、黒い靄のような影。

 その不確かな輪郭が、あまりにも頼りないから。

 私は、手を伸ばした──。


 瞬間。強烈な痛みと共に、私の身体はトラックに跳ね飛ばされていた。


 そうして四肢の自由を失い、果てしなく白い病室でただ呼吸を続けている。

 差し込む薄オレンジ色の夕日が、母の腕のように温かかった。

 涙を浮かべる前に、午後の風が夢心地の頬をつねる。


「全て、必然だった」


 そう、考えるしかなかった。

 この世界で起きる全ての事象には、必ず理由がある。

 猫が現れたことも、私が助けようとしたことも、トラックが来たことも。

 それらは全て、あらかじめ定められた運命の歯車の一部なのだ。

 私が生まれた瞬間から、この現実は決定されていた。

 だから、手の届かないものを求め続けることは、無意味でしかない。

 そう、悟ったのだ。


 病室のノックの音が聞こえた時、私はいつものようにその音の正体を予測する。


1: 看護師の定期巡回

2: 両親の面会

3: 主治医の回診


 ドアが開いた時、そこにはクラスメイトだった中村隼士くんの姿があった。

 結局、私の予想はどれも外れてしまったのだ。

 必然を予想することは、難しい。

 何故なら、多くの必然が複雑に絡み合い相互に影響しあっているから。


 人は、それを偶然と呼ぶ。

 だけど、私は知っているのだ。

 それは、とても複雑なだけで必然であることに変わりは無いということを。


「やぁ、澤野」


 中村くんは、窓際の席に座った。

 夕日に照らされる彼の横顔は、まるで計算しつくされたように全てが完璧に整っていた。

 白いマスクの中から、時折微かな吐息が漏れる。

 何か言いたげな表情を、彼は何度も浮かべては消した。


 彼は、きっとモテるだろう。

 普通に学校に通い、クラスメイトと談笑し、幸福を噛みしめて。

 そんな彼に、私は嫉妬してしまった。

 だから、少し意地悪をしてみたくなったのだ。


「具合はどう?」


 当たり障りのない質問に対して、私の頭の中でいくつかの選択肢が浮かぶ


1: 「うん、大丈夫」(相手を安心させる標準解)

2: 「最悪」(本音だが、相手を困らせる)

3: (黙って微笑む)(無難な対応)


 これらの選択肢は、既に結果が決まっているはずだ。

 私の性格、状況、相手との関係性。

 全ての要素を考慮すれば、私がどの選択肢を選ぶかは、既に決定されているはずなのだ。


 だからこそ——。


「すっごく元気!毎日が充実してて、むしろ事故に遭えてラッキーだったかも!」


 私は最も不自然な、最も私らしくない選択をした。

 大げさなジェスチャーと共に、まるでアイドルのような声色で。


 その瞬間、不思議なことが起きた。

 中村くんの表情が、一瞬だけ凍りついたように見えた。

 そして彼の輪郭が、まるでテレビの砂嵐のように揺らぎ始める。

 夕陽の光の中で、彼の姿は徐々に透明になっていった。

 最後に見えたのは、どこか切なそうな笑顔。

 私に何かを伝えようとした彼の口が、音もなく動いて──。


 次の瞬間、彼は完全に消失していた。

 窓から差し込む夕陽だけが、彼がいた場所を照らしている。


「澤野さん」


 突然、主治医の声が響く。


「退院の準備ができました」


 一瞬、意識が飛んだ。

 医者の声が遠く、つい先ほどの出来事のようにも遥か以前のことのようにも思えた。

 無理やり継ぎ合わせた布のような、歪な時間のつながり。

 ぼやけ続ける視界の中心に、見たことのある光景が浮かび上がってきた。


 道路の中心に佇む靄のような、黒猫。

 その猫がこれからトラックにひかれるであろうことを、何故だか確信していた。

 咄嗟に、目を逸らしそうになる。

 だけど、私の目は釘づけにされたように道路の中心を見つめ続けていた。

 目を逸らしては、いけない。

 何故だか、そんな気がしたのだ。


 でも、あの時と違って、私は黒猫を助けようとしなかった。

 「助けない」と決めた瞬間、視界の隅にもう一つ見慣れた存在が映る。


「やめて!」


 私の声は、彼には届かない。


「クロ、危ない!」


 中村くんは、その猫のことをクロと呼んだ。

 そういえば、以前に聞いたことがある。

 彼が可愛がっていたペットの猫が、確かクロって名前だったっけ。


 その瞬間、私は走り出していた。

 もしこのまま見殺しにしたら、私はきっと後悔する。

 これが必然だとしても、運命だとしても、何一つ未来が変わらないとしても。

 私は決して「私らしい選択」を、手放してはいけないのだ。


 意識が、ゆっくりと沈んでいく。


「早く写真撮っとけよ」

「うわ、足、逆向きじゃん...」

「こんなの助かんねーよ」


 誰かの声が、遠くで交錯する。

 それは私への言葉なのに、まるで物を扱うような響き。


 白い光の中で、私は見つめていた。

 アスファルトの上に横たわる、おぞましいまでに歪んだ肉の塊を。

 それが私自身だと気づくまでに、少し時間がかかった。


 制服のスカートが風に揺られ、その下から覗く足は、人体の構造を完全に無視した角度で折れ曲がっている。腕は......腕はどこにあるのだろう。血の匂いが、吐き気を誘う。


「おい、誰か警察呼べよ」

「スマホ、動画撮っとく?」

「やめとけって。この制服、うちの学校じゃん...」

「マジで?誰だよ」


 意識は空中に浮かび、その光景を見下ろしている。


 その時、群衆の中に、一つの異質な存在を見つけた。

 若い物理の先生。春川先生だ。

 いつもの穏やかな表情で、白衣のポケットに手を入れたまま立っている。


 彼は、群衆の誰もが気づかないように、ゆっくりと近づいてきた。

 その瞳には、凄惨な事故現場などどこにもないかのような、澄んだ光が宿っている。

 まるで、教室で物理を説明する時と同じように。


「シュレーディンガーの箱の中で、量子は重ね合わせの状態にある」


 先生は、いつもの調子で語り始めた。


「コペンハーゲン解釈によれば、観測行為によって波動関数は収縮し、一つの状態に定まる」

「でも、ヒュー・エヴェレットの多世界解釈では、観測それ自体が分岐を生む」

「アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスすら、平行世界の存在を示唆している」

「量子もつれ、非局所性、そして意識による波動関数の収縮」


 彼の目が、異常な輝きを帯びる。


「私たちは今、観測と非観測の境界にいる」

「あなたの意識は、まさに重ね合わせの状態」

「ヒルベルト空間における固有状態の無限の可能性」

「デコヒーレンスによる古典的現実の出現」

「この瞬間にも、無数の分岐が...」


 黒い靄のような影が、先生の足元を横切った。


 それは形を持たない闇のような、そこにあってないような、不確かな存在。

 どこかで見た影。いつか見た影。

 記憶が、靄のように混ざり合う。


 その影は、地面に横たわる私の肉体に近づき、触れようとする。


 途端、周囲の喧騒が遠のいていく。


「存在それ自体に意味など無い」

「でも、意味が無いということは」

「すべてが意味を持ち得るということ」


 先生の声が、いつもの教室での声とは違って、どこか遠くから響いてくるように聞こえた。


 救急車のサイレンが、現実を引き裂くように近づいてくる。

 赤と白の光が、街を染めていく。


 私の意識が、ゆっくりと沈んでいく中で。

 先生の理論が、頭の中で反芻される。

 そして、決定的な違和感が、全身を貫く。


 その瞬間、私には見えた。

 黒い霧のような影が、確かな輪郭を持ち始める様を。

 それは紛れもなく、一匹の猫の姿。


 多世界なんて、存在しない。

 私たちは、ただ一つの現実の中にいる。

 そう理解した瞬間、全てが明確になった。


 救急車の揺れが、遠くで感じられる。

 医師たちの声。

 機械の音。


「もう、ダメかもしれません」

「いや、まだ...」


 意識が完全に途切れる前に、私は確かに見ていた。

 黒猫の、凛とした姿を。

 そして、それが示す必然の真実を。

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