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第十四話「朝日 昇太 と 八尺様」(中編)

 ◆


 闇夜が意思を持ち、村の隅々まで満ちて生き物のように蠢いているかのようだった。


 遠くからかすかに耳を打つ、不気味な「ぽ……ぽぽ……」という声が一定のリズムを刻みながらこだまする。


 早く朝になれ、朝になればこんな思いはせずに済む──そんな想いを抱く大人たちだが、同時に "この夜はいつまでも続く" とも感じてしまう。


 まるで時間の流れ自体が狂わされているような感覚。


「せめて、昇太だけでも……」


 老いた男──儀一の声が、しんと静まり返った客間の空気を震わせた。


「おじいちゃん……」


 青い顔で、その隣に座り込むのは中学二年生の昇太だった。


 ──ぽ……ぽぽ……


 またしても、家の外から声が聞こえる。


 段々と近づいているようだ。


 夏の夜だというのにやけに寒い。


 ぶるりと震える鮎美の肩を、母である美知恵が抱き寄せる。


「鳳仙先生、お願いします、どうか、どうか」


 美知恵がしゃがれた声で麗子に懇願した。


「ええ……最善は尽くします」


 しかしその言葉とは裏腹に、麗子の表情には焦りが色濃く浮かんでいる。


 最善とやらすでに施しているのだ。


 が、まるで効果がない──わけではないが、時間稼ぎにしかならない。


 魔なるモノに対して結界を以て臨むという選択自体は悪くはなかった。


 元来、そういった存在に対しては陽の気が有効だからだ。


 護るという意思、行為にはそれが満ちている。


 結界に触れた魔のモノは結界と打ち消し合い、その存在力を弱めていく。


 よく、魔には魔をだとか、呪物を以て魔に臨むという描写が映画などで描かれていたりするが、実際は悪手という他ない。


 そんな事をすればこちらを害さんとする魔のモノの力が強まるばかりだろう。


 あるいはもっとタチの悪いモノへと変容してしまうかもしれない。


 とはいえ。


 ──これ以上、結界を強化するにも限界があるわ


 麗子はうつむき、固く口を結んだまま考え込む。


 村からは逃げられない。


 逃げようとしても迷い込むように同じ場所に戻ってしまう。


 ──ぽ、ぽぽ……


 時折、家の壁や窓が軋むように震え、そのたびに大人たちは縮こまった。


 麗子は "やはりこの依頼は受けるべきではなかったか" という弱気な思いが芽生えるも、それを無理やり押し殺す。


 だがそんな弱気の気配が伝わったのか、鮎美や儀一、そして昇太ら表情を曇らせた。


「やっぱり……もう無理なのかな……」


 昇太が弱々しい声を漏らす。


 ふだんは明るい性格の少年だが、こうも異常な状態に置かれれば恐怖で心が折れそうになるのも無理はない。


「駄目だ。そんなこと言うんじゃない」


 儀一が奮い立たせるように叱咤する。


 しかし、そんな儀一自身も自分が小便を漏らしそうになるほど怯えている事を理解していた。


 夜はさらに深みを増していく。


 不意に、天井付近からペタリ……ペタリ……と布を貼り付けるような音が聞こえた。


「な、なんだ……?」


 麗子が耳をそばだて、祓いの道具を手に構える。


 ──なるほど、上からね。確かに屋根には札は貼っていなかったわ


 すると次の瞬間、ズ……ズズ……と屋根が大きくきしみ始めた。


「ま、まさか……上にいるのか」


 儀一の声が震える。


「……皆さん、できるだけ隅へ。私が応戦します」


 麗子は幣束(へいそく)を握りしめ、天井を睨みつけた。


 灯りが明滅する。


 部屋全体に冷たい湿気が立ち上り──『ぽ、ぽぽ……』という声にあわせて天井の梁がメリメリと音を立てて歪んでいった。


「くっ……なんて濃い邪気」


 麗子の額には玉の汗が浮かぶ。


「昇太! 儂の後ろに隠れなさい! お前たちもだ! 儂の後ろへ下がれ!」


 儀一が昇太、美知恵、鮎美らを自身の背に隠すようにして立つ。


 すると、天井の中心に黒い染みが出来て、それがどんどんと大きくなっていくではないか。


 じゅくじゅくと粘着質の黒い液体がその面積を広げていく。


 そして、ぽたり。


 また、ぽたり。


 どす黒い液体が床に垂れ──


 ◆


 麗子は昇太らをここから逃がすか、それともここへとどめておくか悩んだ。


 なにせ相手は怪異。


 同時に二所(ふたところ)へ出現出来ない保証などないのだ。


 自身がその場にいない場所で八尺様に襲われたなら、それこそ生きる目は無くなってしまう。


 しかし悩んでいる内にも天井からの落滴は続き、それどころかぽたりぽたりがびちゃりびちゃりへと変わるほどに量を増やしていき──


 深い深い闇からぼこりと湧いてでてきたように、黒い液体の表面がぼこりと膨らみ、伸び。


 立体的な黒い女の影を形作っていった。


 ──『ぽ……ぽ……』


 そうして低く湿った声が響くと。


 黒い影は足の先から色づいていき、そして『八尺様』と相成り。


 異様に長い腕をだらりと下げながら、ゆっくりと昇太の方へ歩を進めていく。


 その時。



 高天原たかあまのはらに神留坐かむづまります


 神漏岐(かむろぎ) 神漏美(かむろみ)の 命以みこともちて


 皇親神伊邪那岐すめみおやかむいざなぎ大神おおみかみ



 歌のような詩吟のような──鈴が鳴る様な声が響くや゙いなや、八尺様がその動きを止めた。


 まるで見えない縄に縛り付けられ、それを内側から引きちぎらんとするかのように震えている。


 声の主は麗子だ。


 神道で用いられる禊祓詞(みそぎはらえのことば)であった。


 災いを祓い、罪を清めるとされる神聖な言葉だ。


 まあとはいえ、この言葉そのものが何か特別な力を発しているわけではない。


 しかし、長い長い、とても長い年月、事によって、ただの言葉の羅列に "力" が宿る様になった。


 しかしこの言葉に宿る力は、相応の器を持つ者にしか引き出す事が出来ない。


 要するにその言葉を扱うに相応しい人物だと、自分は勿論の事、周囲の者たちもそう信じていなければならない。


 畢竟祓い屋の修行の本質とは、この力を扱うに相応しい人物だと自身に思い込ませる事にあった。


 麗子は長く苦しい修行を経て、自身がそれを振るうに相応しい人間だと思っている。


 周囲の者たちも麗子ならばそれくらいの力はあるだろうと思っている。


 だから麗子はのだ。


 実際、八尺様は麗子の禊祓詞にその存在を縛られているではないか。


 しかし。


 ・

 ・

 ・


 ──ぽ、ぽぽ、ぽぽぽぽ


 八尺様は怯むどころか薄く笑った。


 すると壁一面に貼りつけた霊札に血のような赤黒い斑点が浮き始め、一瞬で焼け焦げるように崩れ落ちてしまう。


「そんな……」


 麗子は愕然として息を呑む。


 そうして、八尺様が『ぽ』と一際大きな声をあげた。


 その瞬間、麗子の全身に凄まじい衝撃が走る。


 まるで見えない槍を突き立てられたような痛みが首筋から背中にかけて走り、呼吸が乱れる。


 麗子は片手で幣束を握りしめながら、必死に祝詞を唱えようとするが上手くいかなかった──喉の奥からこみ上げてくる血のせいで。


 ──前が、みえない


 吐血だけではない。


 いまや麗子は血涙を流し、鼻、耳からも流血している。


 がくりと膝が折れ、腰が落ち……麗子はその場に倒れ伏した。


「ああ……」


 部屋の隅でうずくまっている鮎美が、小さく悲鳴を漏らす。


 その隣では儀一が昇太をかばうように肩を抱いているが、彼の手も小刻みに震えていた。


 どこにも逃げ場はなかった。


「おじいちゃん……僕、もう……」


 昇太は目を潤ませ、か細い声で何か言いかけるが言葉を継げない。


 そんな昇太に、八尺様は一歩、また一歩と近づいていく。


 儀一が「うおおッ!」と吠えながら八尺様へ突進したがしかし。


 長い腕が一振りされるだけで、儀一の体は紙くずのように吹き飛ばされた。


「がはっ……」


 重い音とともに儀一は壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。


「じいちゃん!!」


 昇太が叫ぶが、近づこうにも足がすくんで動けなかった。


 八尺様は昇太を見下ろす。


 ──目が


 昇太は見た。


 八尺様の目を。


 それはただのだ。


 ぽっかり空いた、真っ暗な穴が二つ。


 そうしてぱくりと八尺様の口が開く。


 血のように真っ赤な咥内はぬらぬらと光っており、どこか艶めかしくすらあった。


 そんな咥内の奥、昏い穴にも見える喉奥から何かが聴こえてくる。


 ──『……けて』


 ──『誰、か』


 ──『ああああ』


 男の子の声、女の子の声、色んな声が聴こえてくる。


 ああ、僕もへ行くんだ──昇太がそう思い、そして八尺様が彼に向けて腕を伸ばしたその時。



 ──『つく、しの、ひ、むかの……たち、ばなの……お、どのあわぎ、が……はらの……』



 血まみれの麗子が、半ば意識をもうろうとさせながらも唱える祝詞。


 それは八尺様からすれば赤子が足に纏わりついた程度の妨害にしかならなかったであろうが、それでもほんの一瞬──その動きを止めた。


 ◆


 八尺様はそれを無視することもできた。


 だがしなかったのは、八尺様が曲がりなりにも人の似姿を取っていたからかもしれない。


 己より遙かにか弱く、儚い、ちっぽけな存在が、ほんの僅かにせよ自分という存在の邪魔をした事への憤り。


 そういった怒りにも似た感情が八尺様にもあったからもしれない。


 精神は肉体に引っ張られるのだ、例えそれが八尺様の様な埒外の存在であったとしても。


 とはいえ、麗子にとってはなんら良い結果を生む事にはならないのだが。


 ・

 ・

 ・


 八尺様の腕が伸び、麗子の首を掴み、宙づりにする。


「が……は……」


 細い指先が血が滲む程に喉に食い込み、麗子の身体が宙に浮かんだ。


 ただでさえ死に体の麗子には何一つ抵抗などできなかった。


 ──ああ……ごめん、なさい


 麗子の頭に浮かんだのは、依頼人を守り切れない無念と、自分がここで終わるという絶望感だけだった。


 せめてもの抵抗をしようと指先を幣束にかけようとするが、首を締め付けられた状態ではうまく動かない。


 ゴリゴリと頚椎が鳴る嫌な音を背中で聞きながら、麗子は必死に視線を上げた。


 そこには、八尺様のかぱりと開かれた口がある。


 人間の限界をはるかに超えて、顎の骨が外れたかのように大きく、大きく開いている。


 ──……わたしを……喰う、つもり……ね


 いわゆる "本物" であるところの麗子には、自分が死ぬだけでは済まない事がよくよく理解できている。


 それは恐ろしい事だ。


 とてもとても恐ろしい事だ。


 しかし。


 ──いい、わ。私は、終わり……でも、お前の、内から、喰い破って……やるッ……いつか、かならず! 


 死ぬならば強く死のうと八尺様を睨みつけたその時。


 不意に、大きく電子音が響く。


 しんと静まり返った空気を乱すような──スマホの着信音だった。


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