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第十話「島崎 宗太 と“くねくね”」

 ◆ 


 『その白いのはただの虫除けダンスだよ。だったら殺虫剤でいけるって!クネってんのはアレよ!虫がまとわりついて鬱陶しいからだよ!』


 夕刻の川沿いに、一人の男が立っていた。


 男の名は島崎 宗太。


 ホラー雑誌の記者である。


 彼はスマホを握りしめ、通話の向こうから聞こえる軽薄な声に戸惑っていた。


「殺虫剤……ですか?」


 川面から吹く風が生温く、背後の田んぼには不気味な静けさが漂っている。


 どう考えても、そんな話が通用するはずがない。


 だが、今の島崎には他の選択肢など思い浮かばなかった。


 もしここで何もせず引き返せば、自分の身体はおそらく限界を迎えるだろう。


 激しい頭痛と吐き気。


 そして原因不明の悪寒。


 全ては、あの“くねくね”を遠目に見てしまった日から始まった。


 今こうして立っているだけでも、視界の端には妙にねじれた白い影がちらつき、眩暈を誘う。


「……わかりました。もう試すしかないですね……」


 島崎は自嘲気味に呟きながら、ガス式のスプレー缶を強く握りしめた。


『うん。それでダメならお金はいらないし、とりあえずやるだけやってみなよ』


 通話の向こう──“ぴるるん”と名乗る人物は、あまりにも気楽そうだった。


 島崎はわずかに苛立ちを感じたが、今の自分にはその軽薄さすら頼もしく思える。


 苛立ちよりも、救済を求める気持ちのほうが上回っているのだ。


「……よし」


 田んぼの縁をそろそろと進む。


 すると視界の奥──夕闇に染まった向こうに、白い人影が見えた。


 奇妙に揺れている。


 指先が震える。


「……あれか……」


 島崎は小声で呟き、少しずつ距離を詰める。


 “それ”はまるで人型のようで、しかし関節を無視して体をくねらせ続けている。


 まるで何かの踊りをしているかのようだが、その動きには人間味がまるでない。


 だが、ぴるるんの言葉によれば「単なる虫除けだ」とのこと。


 島崎は半信半疑のまま、思い切り殺虫スプレーを噴射する。


 シューッという噴射音が、田舎の夕暮れに虚しく響いた。


 すると、白い影が驚いたように揺れ幅を増す。


 クネ、クネ、とより大きく身体をひしゃ曲げながら、一瞬島崎のほうへにじり寄った──ように見えた。


「うわっ……」


 島崎は思わず後ずさるが、握ったままのスプレーを止めなかった。


 噴霧された薬剤が風に乗り、淡く白い霧となって白い影を包む。


 次の瞬間、白い影は揺れを乱して、まるで苦しむようにノイズを発しながら後退する。


 やがてスッと消えるように薄れ、いつの間にか夕闇に溶けていった。


「……本当に、消えた……?」


 島崎はしばらくその場に立ち尽くし、荒い息を整える。


 あれほど重かった頭痛が、不思議なほど軽くなっているのに気づいた。


 あの脳を締めつけるような不快感も薄れている。


『ね、案外効くでしょ?』


 スマホに再びぴるるんの声が響く。


 島崎はどこか呆然としながら、「まさか……殺虫剤なんかで……」と口にした。


『なんとかなったんだからオーケーでしょ!』


 それで済んでいいのか、と思いつつも島崎は安堵で胸がいっぱいだった。


「……ええ、助かりました。信じられないけど……助かったみたいです」


 ぴるるんは軽い笑い声をたて、通信を切る。


 島崎はしばらく夕空を見上げていたが、最後にスプレー缶を見下ろし、深いため息をついた。


 ──こうして、くねくねに対する“馬鹿げた手段”が、まさかの形で成功を収めたのだった。


 ◆◆◆


 島崎はホラー雑誌のフリーライターとして数年活動していた。


 怪奇スポットを巡り、奇談を集め、読者を怖がらせる記事を書く。


 だが、島崎自身は霊や怪異など、そういったものを本気で信じてはいなかった。


 その日、雑誌編集部で読者投稿を整理していたところ、「私の田舎では夏になると“くねくね”という白い影が出ます。友人が見てからおかしくなりました」という葉書に目を止める。


「くねくね……? またクラシックなものを持ってきたなぁ」


 島崎は鼻を鳴らしつつ、投稿をざっと読み終える。


 内容は、夏の川辺や田んぼに現れる白い人影を見てしまった人が次々と精神を病んだ、というもの。


 投稿者自身は一度だけ遠くから見たが、さほど影響はなかったらしい。


 ただ、友人の例を挙げて「本当に怖いから調べてほしい」と結ばれていた。


 島崎は最初、これを記事にするほどのネタとは思わなかった。


 しかし、ちょうど編集長が近づいてきて、「これ、面白そうじゃない? 取材費も出すし、ちょっと行ってきてよ」と声をかけた。


「いや、こんなのまた適当な怪談でしょ」


 島崎は呆れたように言うが、編集長は鼻歌混じりに「まあそれでも紙面に穴埋めできるしさ」と乗り気だ。


 それに、この取材を兼ねて夏休みが取れるのなら悪くない、と島崎も思った。


 結果、彼は投稿ハガキに書かれていた地方の小さな集落へ足を運ぶことを決める。


 往復交通費と宿泊費は会社持ち。


 ついでに記事化すればギャラも出る。


「まあ、気晴らしに行ってみるか」


 そんな軽いノリだった。


 ◆


 地方の小さな集落は、夏の青空の下、のどかな風景が広がっていた。


 川沿いには緑の草が風に揺れ、のんびりとした時間が流れている。


 島崎はさっそく、投稿者に連絡を取ろうとしたが残念ながら音信不通。


 仕方なく集落の人々に聞き込みをすると、「夏場に白い何かが出る」という噂は確かにあるらしい。


「……結構みんな知ってるんですか?」


 川べりに腰掛けた年配の男性は、「ああ、昔からね」と口を開く。


 ただ、誰も詳細をはっきり語ってくれない。


 「見たらダメ」「正体を知ったら危ない」とか、そんな警句ばかり繰り返すのだ。


 島崎は少し苛立ちを覚えた。


「結局、ただの民間伝承とか神隠しの類でしょう? 本当に見た人いるのか……?」


 だが、村の空気にのまれ、なんとなく不安を感じる自分もいた。


 ◆


 その夜、島崎は宿舎で仕事のメールをチェックしながら、投稿にあった“くねくね”の正体について考えていた。


 陽炎、案山子、着物を干す何か……いろいろ仮説は立つが、どれもしっくりこない。


「ま、適当にそれっぽい記事を書いて終わりだな」


 そう呟いた翌日。


 島崎は夕方近く、川辺で風景を撮影していたとき、遠方に白いモノを見た。


 ちょうど田んぼの向こう側。


 一瞬人影かと思ったが、動きがやけに不規則なのだ。


 クネクネと上下左右にが体をくねらせている。


「……あれ?」


 ぞくりとする嫌な感覚。


 だが、島崎は「まさか」と無理に笑い飛ばし、撮影を切り上げて宿に戻る。


 夜になって布団に入ると、突如激しい頭痛と吐き気に襲われた。


 身体が熱く、汗が止まらない。


「くそ……なんだこれ。熱中症か……?」


 しばらく耐えていると、今度は視界の隅に何か白い残像が揺れるようになった。


 眠るどころではない。


 結局、その晩は一睡もできずに朝を迎えた。


 ◆


 次の日も、状況はさらに悪化。


 頭痛やめまいだけでなく、足元がふらついて転びそうになるほど平衡感覚がおかしい。


 取材どころか、まともに歩くのも辛い。


 それでも、どうにか聞き込みをしようと外に出たが、人々は口を濁すばかり。


「やっぱり“くねくね”を見たんだろう? もうどうしようもないよ」とさえ言う人がいた。


 やがて島崎はこのままでは自分が危ないと悟る。


「……参ったな……ホラー記事書いてるくせに、こっちがやられるとか……」


 スマホで「くねくね 除霊」「くねくね 対策」を検索しても、有力な情報は皆無。


 次第に目がかすみ、手の震えが止まらない。


「ちょ……やばい……」


 そして夜半、もうどうにも耐えられなくなった島崎は、SNSで必死の検索をかけていた。


 すると、怪しいアカウント名が目に飛び込む。


『ぴるるん@心霊相談承ります』


 フォロワー数がやたら多い。


 タイムラインには「解決したら1万円でOK」「解決しなかったら無料!」などと書いてある。


「詐欺くさいけど……もういいや。背に腹は代えられない……」


 島崎はDMを送り、「白い影を見てから体調がおかしい。本当に困ってる」と打ち込む。


 するとほどなくして“通話できますか?”という返信が届いた。


 答えは当然イエス。


 だがこれで助かるとはちょっと思えない。


 なにせ相手が胡散臭すぎるからだ。


 神秘性がないというか、その辺のスピ系アカウントでももう少し信じられそうなポストをするだろう。


 ──最後のポストは何なんだよ、 "初めてセクキャバいきました" って。それでも霊能者かよ。いや、霊能者でもセクキャバは行くのか……?わからん……


 島崎は、完全に追い詰められた表情を浮かべ、震える手で通話ボタンを押すのだった。


 まあ結果、それが彼を救う事になるのだが。


 ◇◇◇


 やあ、またDM来ちゃったよ。


 しかも“くねくね”?


 なんだそりゃ。


 まあいいや、どうせまた思い込みでしょ。


 俺はいつものようにスマホ片手にゴロゴロ寝転がりながら、アイスかじりつつ通話するわけ。


 どうやら相手はホラー雑誌のライターらしいけど、めっちゃ焦ってるっぽくて面白いね。


 なんか“白い影”を見たら体調崩したってさ。


 俺からすれば、幽霊なんているわけないし、どうせ熱中症か精神的ストレスだよなって思うわけ。


 だからついつい「虫が鬱陶しいからくねくねしてるんだろ。殺虫剤でもぶっかけとけよ」って言っちゃった。


 真夏にさ、田んぼだか何だかのど真ん中でくねくねくねくねしてるんだろ?


 んなもん、虫がよってきて困ってるからじゃないのかなぁ、知らんけど。


 でも「効いたっぽいです……!」とか通話で報告してきたからさ、まあよかったねって。


 どうでもいいけど最近ハマってるゲームがあってさ、主人公が虫みたいな怪物を倒すやつ。


 ヘイルダイバーっていうんだけど、あれを思い出しちゃった。


 ・

 ・

 ・


 ◆◆◆


 実は“くねくね”には、古くからの民間伝承がある。


 その根源は、虫を払う舞だったとのこと──虫は動いていると寄ってこない、しかし立ち止まっていると寄ってくる。


 つまりは、本来は害虫を遠ざけるために絶え間なく舞うといったような神事が長い年月を経て怪異と化したらしい。


 しかし人ならざるモノが "絶え間なく舞う"──ここに問題がある。


 モノが動くにはエネルギーが必要で、絶え間なく舞うためには絶え間ないエネルギーの流れというものが不可欠だ。


 “くねくね”を見るということは要するにそのエネルギーの影響を受けるということで、観測者が正気を失うのは、或いはこのエネルギーを受け止めるだけの器がないから──と、とあるオカルト学者が発表している。


 島崎が助かったのは遠目に見たことと、根源の元となる "虫" を否定するようなモノを持ち込んだ事が要因なのではないか。


 確かに殺虫剤をぶっかけるために“くねくね”に近づくのは自殺行為だろう。


 しかし、例えば強力な放射線を浴びた者が居たとして、その者は数時間以内に意識障害や重度のショック症状を起こし、その後数日以内に死亡する──つまりは数時間程度の猶予はあるわけだ。


 “くねくね”に関しても、完全に発狂に至るまでには短いとはいえ多少猶予があるのかもしれない。


 まあそのへんはこじつけだが──ともかく、まさに偶然で島崎は助かった。


 だが、いつかまたどこかの田んぼや川沿いで、白い影──“くねくね”が誰かを惑わせることがあるかもしれない。


 そのとき、その誰かは果たして“殺虫剤をぶっかける”などという解決策を取れるだろうか?


(了)


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