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第九話「大磯 和美 と "ルール" の多い物件 」

 ◆


『……じゃあさあ、新しいルールを増やしちゃえばいいんだよ』


 真夜中の玄関先で、大磯和美はスマートフォンを握りしめたまま震えていた。


 いや、正確にはスマホを握りしめる右手だけではなく、全身が小刻みに揺れている。


 ドアの外からはずるずる、と何かを引きずるような足音が聞こえてくる気がする。


 こわい。


 扉一枚隔てただけの向こう側に、得体の知れない“それ”が立っているような予感がする。


『増やすんだよ、ルールをさ。元々この物件には変なルールがあるんだろ? ならさらに追加ルールをぶっこめばいいんだよ』


「そ、そんな好き勝手ありなんですか……? これ、管理会社から渡された“絶対に破ってはいけない”ルールですよ? もし破ったら……」


『……死んじゃうって? でもさ、誰が作ったルールなのか知らないんだろ? だったら、そのルールに対抗するルールを作ればいいじゃん。例えば『既存のルールは二回までは破ってもOK』とか。で、それを物件のオーナーから通達しちゃうの。だってオーナーが決めた事なんだからね、逆らえないでしょ!』


 あまりに軽薄な声が、スマホ越しに響いてくる。


 そもそも、こんな半信半疑の提案を受け入れている場合なのか。


 しかし、背後からの足音は確実に和美に近づいてきているように思える。


 一刻を争う状況だ。


「……わ、わかりました。とにかく、管理会社に連絡します……!」


『そそ。オーナーが嫌がったら俺の名前を出してくれてもいいよ、俺結構有名らしいから。なんたって最近フォロワー増えまくってるからね! 200万だよ!? やばくね? 解決しなかったら俺への支払いはいらないからさ。じゃあがんばってねー』


 軽薄な口調のまま、通話はぷつりと切れた。


 和美は頭が混乱する中、スマホの電話帳から管理会社の番号を探す。


 どこから入り込んだのか、冷たい風が吹き込み頬を撫でるが気にしない──気にしている場合ではない。


「“新しいルールを増やせ”、か。……こんなの、本当にうまくいくわけが……」


 そう呟いた瞬間、ドアがガタッと揺れた。


 激しい衝撃ではないが、誰かが外側からノブを回そうとしたような、そんな感触。


「ひっ……」


 和美は声を殺して後ずさる。


 だが、逃げ込む先はベランダしかない。


 飛び降りるか? 


 無理だ。


 スマホを握りしめ、必死に管理会社の番号を探して──


「お、落合さん! 今すぐ……今すぐオーナーさんに『新しいルールを追加するように通達して』って伝えてください! えっと、えっと……"ルールは2回まで破ってOK"って感じで!! 理由? 理由は説明が難しいけど、とにかく今すぐ……! ぴ、ぴるるんさん!!! インフルエンサーのぴるるんさんがそうしろっていってました!!!」


 電話の向こうで混乱する落合の声が聞こえるが、和美はほとんど錯乱状態だった。


 このままではまずい。


 そう思った瞬間、背後のドアが──こともあろうにぐにゃりと歪んでいくではないか。


 金属製のドアなのにまるで生きている様に表面が波打っている。


 思わず悲鳴を噛み殺す。


 もう時間がない。


 ──その瞬間だった。


 ふいに携帯が振動し、落合からの短いメッセージが届く。


「オーナーが承諾しました。住民あてに通知のメールも送りました」と。


 そして、ドアの揺れはぴたりと止んだ。


 足音も、冷たい気配もすべてが一瞬にして消え失せる。


「え……」


 和美は息を呑んだまま、しばし呆然とドアを見つめる。


 先ほどまでの“何か”は、まるで存在そのものを消されたかのように気配がない。


「嘘でしょ……? 本当に……いなくなった?」


 ドアを少し開けてみると、廊下はいつもの形状だった。


 狂ったような歪みも、血のようなシミも、足音の主もいない。


 和美は放心状態のまま、スマホ画面を見下ろした。


「『新ルール:全てのルールは二回までは破っても可』……。こんな馬鹿げた追記が、本当に効いたっていうの……?」


 だが事実として、和美は助かっている。


 和美は動揺を抑えながら、そっと廊下を見回し、深く息を吐いた。


「……助かった、のかな……」


 そう、助かったのだ。


 少なくとも、今は。


 ◆


 大磯和美。


 35歳、一般企業に勤めるOL。


 離婚歴があり、今は独り身だ。


 大学を出てすぐに就職し、それなりに真面目に働いてきたつもりだった。


 しかし結婚生活は上手くいかず、一昨年とうとう別居──そして去年正式に離婚となった。


 実家に戻るという選択肢もあったが、地方の閉塞感が嫌だったのと、元夫との思い出が残る地元へは戻りたくなかった。


 その結果、都心に近いエリアで“なるべく家賃を抑えて”暮らす道を選んだのだ。


 しかし、都心は家賃が高い。


 和美の収入だけでは苦しい面が多く、ネットや不動産会社を駆使して格安物件を探しまくった。


 ……そして見つけたのが、問題のマンションだ。


 管理会社の落合から案内を受けた際、驚くほど安い家賃に少し警戒はした。


「え、月八千円……ですか? 都内でこの立地、しかも駅まで徒歩十分で……?」


 落合は渋い顔でうなずく。


「ええ、政府認定の特異事例物件ですからね。家賃補助というか、実質的には国が家賃の大半を負担してくれている仕組みです。ただ、入居に際して幾つかルールを守っていただく必要がありまして……」


 そう言われ、和美は「何かしら訳ありだろう」と感じつつも、背に腹は代えられなかった。


「ルール……ですか。具体的には、どのような……?」


 その場で渡された書面には、六項目の不可解なルールが載っていた。


 一つ目:“マンションの外観を指さしてはいけない”


 二つ目:“エレベーターを利用する際は、必ず一度四階で降りること”


 三つ目:“玄関に靴を置くときは必ず逆さまにすること”


 四つ目:“夜十時以降は、廊下ですれ違う人に声をかけないこと”


 五つ目:“共用ゴミ捨て場の角を踏まないようにすること”


 六つ目:“マンション敷地の隅にある花束には触れてはならない”


 ──どれもこれも、まるで意味不明だ。


「こんなの、本当に必要なんでしょうか……?」


 そう和美は呟いたが、落合は苦い表情を浮かべている。


「正直、私はこの物件をあまりおすすめしません。しかし、格安であることは事実です。……注意していただきたいのは、これらのルールを破った入居者は全て亡くなっています。簡単だと思って甘く見ないでください」


 そう言われてマンションの敷地を見まわすと、確かに隅のほうに花束が置かれている。


 白い百合とカーネーションが混ざった、少し古びた花だ。


 まるで墓参りのように供えられているのがなんとも不気味だった。


 ──だが、和美は決心した。


「……わかりました、ルール自体は簡単ですしやってみます」


 離婚のショックはあれど、ここで再スタートを切らなくてはいけない。


 家賃八千円。


 確かに何か起こるかもしれないが、“絶対に破らなければいい”のだ。


 そう信じ、和美はサインをした。


 ◆


 引っ越し直後、和美は慎重にルールを守って過ごしていた。


 朝は仕事へ行き、帰宅が夜になることもしばしば。


 最初の一週間は特に大きな問題が起こらなかった。


「四階でいちいち降りるのは少し面倒だけど、慣れればたいしたことないわね」


 靴を逆さまに置くのも最初は戸惑ったが、少しの慣れでどうにかなった。


 廊下ですれ違う人に挨拶もしなくていいなら、気楽と言えば気楽だ。


 そんなある夜。


 残業が長引いてマンションへ帰りついた時刻は深夜近くだった。


 エレベーターを使うためにボタンを押そうとしたその瞬間──


「あ……」


 疲れた身体ゆえか、頭がぼんやりしていたのか、和美は“あるルール”を破りかけた。


 危うく直接部屋のある階のボタンを押しそうになったのだ。


「あぶないあぶない……」


 冷っとしながらも結局その晩は、四階経由で無事自室に帰りついた──少なくともその夜は。


 ◆


 そして決定的なトラブルは、その数日後に起こった。


 その日は朝早くから出社しないといけないというのに、和美はやや寝坊をしてしまった。


 慌ててスーツに着替え、パンプスを履いて──それを脱いで、踵の低いローファーに履き替える。


 駅まで全力疾走すればぎりぎり電車に間に合うかどうかといった所なので、パンプスだと走りづらいかもしれないという判断だった。


 そうして玄関を出て、鍵を閉めると──


 その瞬間、廊下の照明が一瞬だけチカリと点滅した。


「ん……? 気のせい、かな……?」


 自身がルールを破った事に気付かず、エレベーターへ向かおうとする和美。


 だが、エレベーターホールに一人の女が立っていた。


 スーツを着ている、一見OL風の女──しかし普通の女ではない。


 頭部が180度回っている……つまり、女の身体はエレベーターに向かって正面に立っているというのに、顔だけは後ろを向いているのだ。


 その顔が、和美をみてニタリと嗤った。


 朝の眠気が一気に醒め、背筋に冷たい汗が伝う。


 回れ右して脱兎のごとく部屋へと駆けだす和美。


 ドアを開け、鍵を閉め、チェーンも掛ける。


「な、なんで……なに、なに!? あれ……」


 大きく息を荒らげる和美だが──


「あ……まずい……」


 視線の先にはパンプスがで揃えて置いてあった。


 ◆


 そう気づくと同時に、誰かが、あるいは何かが玄関のドアを──


 ドンドンドンドン!! 


 と殴打しているような音が響いた。


「きゃっ」


 思わず悲鳴をあげる和美だがしかし、殴打の音は収まってはくれない。


 部屋の照明が激しく明滅を繰り返す。


「やだ……なに……?」


 震える声でそう呟いても、答えはない。


 ドアの覗き穴から外を見る余裕など無かった。


 黒い影のようにしか見えない。


「落ち着いて、落ち着いて……」


 あわててカバンからスマホを取り出す。


「誰か、警察、きゅ、救急とか……?」


 とにかく誰かに連絡しようと110、119番と連絡するが受話口から聞こえるのはノイズの様な音だけだ。


 ならば友人にMINEをしようとするがしかし、メールアプリそのものが開かない。


「そ、それならSNSッ……」


 Xitterを開いて、助けを求めようとしたが──


 今度はエラーを吐く。


 リプライなども同様だった。


 和美は焦った様に周りを見渡すと、壁や床にべったりと湿ったような手形が浮かび上がる。


 色は赤──まるで、血の様な。


「いやああああああ!」


 ついに悲鳴を上げた和美はどうすることもできず、スマホを握りしめる。


 ──助けて、誰か助けて……! 


 兎に角、誰でもいいからとSNSの検索欄にそれっぽい単語を入れて検索してみる。


 なにか助かるヒントが見つかるかもしれないからだ。


「だめ……もうだめ……」


 涙が出そうになるが、スクロールを続けていると、ふと目に留まったアカウントがあった。


「ぴるるん@心霊相談承ります……24時間、対応?」


 藁にもすがる思いでそのアカウントを開き、ダメ元でDMのアイコンをタップする。


 すると、なんと送信欄が開いた。


 ──『物件のルールを破ってしまいました。助けてください。このままじゃ私、死んじゃう……』


 すると驚くほど早く既読がつき、返信が来た。


『いいよ、通話おっけー?』


 ──こうして和美は、謎の男“ぴるるん”に連絡を取ったのだ。


 ◆


 今回の相談は“特異事例物件”だってさ。


 俺不動産の事なんて全然しらないんだけど、これに関してはピンときちゃったね。


 超ド級に頭おかしい住人が居住権を振りかざして暴れてるとかそんなんだと思うよ。


 もうそういうのはさ、オーナーにルールをきちんと決めてもらうしかないじゃん。


 つってもそれを頭おか……あー、ユニークな人が守ってくれるかは知らないけど。


 まあいいよ、どうせ最悪引っ越すことになるとかそんな感じでしょ? 


 数日待って1万送金されてきたらそれでいいし、こなかったらそれはそれで残念だったねーってことで……


 それにしてもめっちゃお金たまっちゃったなぁ。


 旅行でも行こうかなあ。


 韓国とかどうだろう? 


 近いし、あとは俺辛いの好きだからあっちのメシが性に合うとおもうんだよね。



 ◆


 その後、和美のマンションでは“新ルール追記”という前代未聞の事態が住民たちに告知された。


【既存の六項目のルールは、各項目につき二回までは破っても問題なし】──という追加文書。


 マンション住民の大半は「また変なルールが増えたよ」と苦笑いしつつも、内心安堵していた。


 “二回まではOK”という保険ができただけでも、精神的にはずいぶん楽になる。


 だがそもそもこの物件は何なのだろうか? 


 政府はこのように定めている。


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 政府公文書番号:特異-2025-第001号


 発令日:平成○年○月○日


 発令機関:国土交通省特異事例住宅対策局


 特異事例物件に関する告示


 近年、住宅市場において「特異事例物件」と称される物件が散見される状況が確認されております。これらの物件は、過去の事件・事故等が原因となり社会通念上“通常の不動産取引”に支障を来す恐れがあるため、一定の公的認定を受け、その取扱いについて特別な注意を払う必要があります。国土交通省特異事例住宅対策局(以下、「当局」という)は、下記のとおり通達いたします。


 第1条(特異事例物件の定義)


「特異事例物件」とは、以下のいずれかに該当する住宅又は建造物をいう。


 重大な事件、事故、災害等が発生し、その心理的影響や実質的な環境要因により通常の居住や取引が困難となったもの。

 地域住民や関係者の間で“特異な現象”が繰り返し報告され、社会通念上の安全・衛生・快適な居住の確保が困難であると判断されるもの。

 その他、当局が「特異事例物件」としての認定を必要と認める事由があるもの。


 第2条(公的認定及び家賃補助等の措置)

 特異事例物件として当局の認定を受けた物件に関しては、当局が必要に応じて下記措置を講じるものとする。


 家賃等の補助

 特異事例物件に入居する者の経済的負担を緩和するため、一部費用を国庫又は所管自治体の補助金により軽減する。


 所有者・管理者への指導

 継続的に発生する異常事象を含め、情報収集・報告体制の整備を指導し、トラブルや事故の未然防止を図る。


 居住者の安全確保

 当局が必要と判断した場合、警察・消防・医療機関等と連携し、居住者の安全に係る体制整備を推進する。


 第3条(告示の周知及び情報公開)

 特異事例物件として認定された物件の情報は、居住者及び不動産事業者が適切に確認できるよう、国土交通省の特設サイト、並びに所管自治体の広報媒体を通じて周知する。情報公開にあたっては、居住者のプライバシーを侵害しない範囲で行うものとし、住所や物件の詳細情報開示には必要最小限の制限を設けることができる。


 第4条(特異事例物件における入居条件及び遵守事項)

 所有者・管理会社は、居住者が安心して暮らせる環境を整備するために、当局の指導のもと必要な対策を講じ、かつ当局へ適宜報告を行わなければならない。

 居住者は、当該物件に固有の禁止事項・遵守事項が設定されている場合、事前に十分な説明を受けたうえでこれを遵守するものとする。


 禁止事項・遵守事項が社会通念に照らして合理性を欠くと疑われる場合であっても、所有者・管理会社は、過去の事例と併せて当局に報告し、適切性の判断を仰ぐことができる。


 第5条(相談窓口の設置)

 当局は、本特異事例物件制度の円滑な運用及び居住者の生活支援のため、下記の通り相談窓口を設置する。


 窓口名称:国土交通省特異事例住宅対策局相談窓口

 所在地:○○都○○区○○町1-1-1国土交通省第二庁舎

 受付方法:電話・Webフォーム・郵送

 受付時間:24時間


 居住者は当局への連絡を通じ、物件で発生した異常事象や管理上の問題点について随時相談することができる。

 必要に応じ、当局は専門家(建築士、心理学者、医療関係者等)と連携し、相談者に対して指導・助言を行う。


 第6条(罰則及び緊急措置)

 特異事例物件としての認定を受けたにもかかわらず、適切な管理義務を怠り、居住者の安全を著しく損なった所有者・管理会社に対しては、不動産取引免許の取消し・営業停止などの行政処分を行う場合がある。

 入居者が繰り返し重大なルール違反を行い、自己及び他者の生命・身体に危険を及ぼすと認められる場合、管理会社は直ちに当局へ報告のうえ退去勧告等を含む緊急措置を講じることができる。


 第7条(施行及び改廃)

 本告示は、平成○年○月○日より施行する。

 当局は社会情勢や関連法令の改正に応じて、随時見直しを行い、必要と判断された場合には本告示を改廃することができる。

 本告示の趣旨に鑑み、特異事例物件における居住者の安全及び生活の安定を図るとともに、不動産取引の適正性並びに社会秩序の維持に寄与することを関係各位に要請する。


 令和○年○月○日

 国土交通大臣印

 国土交通省特異事例住宅対策局局長印


(了)

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