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第八話「紫月 と 芽衣理」

 ◆


「おい、これ……本気でやんのかよ」


 深夜の雑居ビルの階段の踊り場で、紫月(しづき)は立ち尽くしていた。


 彼はホストクラブ「CLUB Midnight Roses」に所属する人気ホストだが、今は華やかな店内とは真逆の薄暗い階段の踊り場で、スマートフォンを片手に困惑している。


 スマホの向こうでは、やけに軽薄な声が続いていた。


『だーかーら、今すぐ鼻をほじってその鼻くそをペロッとなめるの。しかも人目のある場所でやるのがポイントね。いい? そうしないと“芽衣理”ちゃん、まだついてくるよ? ああそうそう、君だけじゃだめだな、他のホスト……ええと、ヘルプだったっけ? いるんでしょ? そいつのも食っちゃえ! ぱくぱくおいしいーってね』


「や、やってられるか、そんなもん……! 俺は人気プレイヤーだぞ? 客に見られたらどうするんだ」


 紫月は思わず声を荒げるが、相手──SNSで見つけた「ぴるるん@心霊相談承ります」は全く動じない。


 ちなみにホスト界隈では接客を主業務としているホストをプレイヤーと呼ぶ。


 会社勤めの雇われをサラリーマンと呼ぶのと同じノリだ。


『別にやらなくてもいいけど、断ってる余裕あるわけ? ないでしょだったら俺のアドバイス聞くしかないんじゃないかなァ……』


「うぐっ……」


 その通りだった。


 紫月には余裕がない。


 既にいまこうしている瞬間にも背後に気配を感じているのだ。


「くそ……。誰にも見られないようにやるんじゃだめなのかよ?」


『だめにきまってるじゃん』


「…………。はあ……しょうがねえ」


 紫月は舌打ちし、店内へと戻った。


「あ、おかえり~」


「どもっす!」


 卓についているヘルプと客の女が笑顔を向けてくる。


 ──やるか


 意を決し、紫月は鼻に指を突っ込み、無理矢理に鼻くそをこしらえる。


 そして、それをべっとりと指先に引っかけると、顔をしかめつつも……


「……は!?」


「ちょッ!? 紫月さん何やってるんすか!?」


 意を決して、舌先でペロッとなめた。


 紫月は目をそらしたくなるのを堪え、あえて堂々とした態度を取ってみせた。


「酔い覚ましには鼻くそが一番キくんだよ!! ああ、うめぇなあ! めっちゃうめえ! おい! お前のも寄越せ!」


 そういって紫月はヘルプのホストに掴みかかり、鼻の穴に指を突っ込もうとする。


「やめ! やめてください! ちょっと! どうしちゃったんすか!? 酔っぱらってるんだったらッ……」


 ホストはイメージ商売である。


 誰も見てない場所ならまだしも、店内でこんな事をするなんてありえないことだ。


 しかしそのありえない事を紫月はした。


 別に紫月だってやりたくてやってるわけじゃないのだ。


 そして紫月がヘルプのタクロウの鼻の穴に指を突っ込んで、黄緑色のソレをぱくりと口に入れた時──


 背後でかすかに誰かが息を呑むような気配がした。


 だがそれはすぐに薄れ、消えていく。


 まるで落胆したかのように。


「……いなく、なった?」


 小さく息を吐き、紫月は頬をひきつらせながら店内を見回す。


 誰も彼もが紫月を見ている。


 失望した目、狂人を見る目、面白がっている目、スマホを向けて写真を撮っているものもいる。


 ──店、変えなきゃな……


 紫月は泣きだしたい気持ちを堪えてそんな事を思った。


 そうして逃げるようにして、その日は体調不良ということで無理やり帰宅し──


 ・

 ・

 ・


 ──『やったじゃん! で、まだ続けてほしけりゃ第2ラウンドもあるよ。次は人前で盛大に屁をかましてくれたら完璧だよ』


「ふざけんな! 勘弁してくれよ、もう……」


 自宅で男──ぴるるんと通話をしている。


 あの醜態は恐らくインスタのストーリーかなにかで拡散されるだろう。


 しかし紫月は、こんな事をさせたぴるるんを恨む気持ちは無かった。 


 なぜならさっきまでまとわりついていたあの重苦しい感覚が、嘘のように薄れていたからだ。


 体も重くない。


 それまでは人一人分を背負っているかのように体が重かった。


 24時間、絶え間なく耳元で聴こえていた囁き声もない。


「……嘘みたいだ。本当に静かになった」


『だからいったでしょ? まあ、少し様子を見て──』


 ぴるるんがそう言いかけたところで、MINEのメッセージ通知が入る。


 みればそこには、「私、芽衣理。……さようなら」とあった。


 つまり、除霊完了ということだ。


『ああごめん電波が……ええと、なんだっけ、そうそう。一週間くらい様子みて、問題なさそうなら報酬を払ってね。ペイペイでよろしく』


「ああ……分かったよ、それにしても本当に1万円でいいの?」


『まあね、お得だろ? じゃあまた何かあったらDMくれよな』


 そういってぴぴるんは通話を終了した。


 ハア、と溜息をつく紫月。


「店……移籍しないとな……」


 多くのものをうしなってしまった。


 だが、取り返しがつかないものだけは守る事ができた。


 それでよしとしなければ、と紫月はスマホで "ホスラビュ"(夜業界の為の情報交換サイト) のページを開く。


 ◆◆◆


 そもそもなぜこんな事になったのか。


 それは一月ほど前のことだった。


 仕事を終え、夜明け近くにタクシーで帰ろうとした際、ふとガードレールの脇に花束が供えられているのに気づいた。


 いつも通る道だが、あの場所に花が供えられているのは見たことがない。


 誰かが交通事故で亡くなったのだろうか。


 それを見た紫月はなんとなく、本当にただの気まぐれなのだが──コンビニでイチゴミルクを買ってきて、花束の横へ供え物をした。


 "芽衣理ちゃん、安らかに眠って下さい"


 というようなプレートを見て、犠牲者が女だとわかったからというのもある。


「まあ、花だけじゃ寂しいだろ」


 軽い気持ちで置いただけのイチゴミルク。


 そのまま紫月は何事もなく帰宅し、眠りについた。


 ところが、その日の夜、仕事中に彼のスマホが奇妙な着信を受ける。


 相手は非通知で、発信元が表示されない。


「もしもし……? 誰?」


 相手は若い女性の声だった。


 少し高めで、どこか幼さを含んだ口調。


『……私、芽衣理だよ』


「はあ……芽衣理? 悪いけど、あんた誰だ? 来店予約ならLINEで連絡してくれって、いつも言ってるんだけど」


『……知ってるよ、紫月くん。ねえ、さっきイチゴミルクをくれたでしょ?』


「は?」


 思わず息が止まる。


 あの花束の横に置いたイチゴミルクを見ていた人がいるのか? 


 ストーカーじみていて嫌な感じがする。


 紫月はすぐに電話を切り、ブロックしようとしたが相手は非通知だ。


「てかなんで非通知拒否ってるのに掛かってくるんだよ」


 ふざけるなよ、と怒りをあらわにしようとした紫月だったが、その手は僅かに震えている。


 ──芽衣理


 思い出したのだ。


 ガードレール。


 花束。


 安らかに眠ってね。


 



 ◆◆◆ 


 紫月はあの電話の事はなるべく考えないようにしてその夜も接客をしていたが──


 その日は首筋に妙に冷たい空気を感じ、何度か背筋がぞくりとした。


 店内は賑わっているが、自分だけがひたすら寒いような不思議な感覚。


「体調でも崩したか……?」


 翌朝、退勤後に帰宅してシャワーを浴びようとしたとき、また非通知の着信が入る。


「……なんだよ……」


 紫月は嫌々スマホを取る。


『……私、芽衣理だよ』


 ひそひそ声で囁くような口調だが、確かに笑っている。


 薄気味悪くて背筋が凍り、思わずスマホを落としそうになった。


「おい、ふざけんな。誰の仕業だ? 変な悪戯やめろよ。俺に恨みでもあんのか?」


 苛立って問い返すと──


『芽衣理はね芽衣理はね芽衣理はね芽衣理はね芽衣理はね芽衣理はね芽衣理はね芽衣理はね紫月くんが、だァァァイスキ』


 その言葉を最後に、電話はぷつりと切れた。


 紫月はごくりと息を呑み、スマホを見つめる。


 その日から不可解な現象が始まった。


 深夜、自宅の鏡にちらりと女の影が映った気がして悲鳴をあげたり、街を歩いていると後ろから誰かにつけられているような感覚を覚えたり。


 スマホは相変わらず非通知で鳴り、出ると「私、芽衣理だよ……」という呟きが聞こえる。


 耐えられなくてスマホを変えたりもしたが、新規契約をしたスマホにも変わらず芽衣理からの非通知着信が入る。


 ではとスマホを押し入れに放り投げ、一切持ち歩かないようにしたら、今度は体調が悪化した。


 文字通り "腹を刺すような痛み" がはしるのだ。


 腹を下したとかそういうものとは別の、要するにアイスピックか何かでぐりぐりとヤられているような痛み。


 満足に食事も取れずに、紫月は大分ほっそりとしてしまった。


 酒の飲みすぎかと健康診断を受けても数値的には異常なしと言われたものの、鏡で見る自分は明らかに痩せ細っている。


 頬がこけ、肌も荒れて、目の下には濃いクマ。


 それでいて、極めつけは──


 


 4キロではない。


 40キロだ。


 まるでかの様な。


「なんだよこれ……」


 店の先輩ホストに打ち明けると──


「それ、気のせいじゃねえよな明らかに。だってお前と話してるとたまに女の笑い声がするんだよ、絶対やばいって」


 ──まさか、芽衣理か


 そうだったとしても何をどうすればいいか分からない。


 だが先輩ホストはこうも言った。


「ダメ元で除霊とかしてみねぇ? ほら、この垢、最近有名なんだけど──」


 そう言って紹介してもらったのが、“ぴるるん@心霊相談承ります”というアカウントである。


 BIOには「解決しなかったら料金不要、解決したら一律1万円」と書いてある。


 明らかに詐欺くさいが、今の紫月は藁にもすがりたい状態だった。


「ありがとうございます、連絡してみます……」


 そうしてDMを送ってみると、素早く返信があり、通話が始まった。


 そして開口一番──


『ホストかあ、イケメンなんでしょ? 俺、イケメン嫌いなんだよね。まあいいや、どれくらい困ってるか教えてよ、鼻くそ食えって言ったら食べる?』


 ときた。



「はあ? 意味分かんねえんだけど……」


 いきなり異様な提案をするこの人物こそ、紫月をさらに混乱させ、しかし同時に“怪異”から救おうとしているらしい“ぴるるん”だった。


 だが、結果的には解決できたものの、もし紫月がぴるるんの本音を知っていたらこうはいかなかっただろう……。


『いやー、俺、イケメン大っ嫌いなんすよね。


 何でって、俺が大したツラでもないからだよ、言わせんな。


 だから今回は意地悪しちゃった。


 悪いとは思ってるけど、嫌いなもんは嫌いなんだから仕方ないよ。


 大体、女から電話って知るかよそんなの。


 どうせ過去酷い扱いして恨まれてるとかだろ。


 まあもういいや、どうせもう連絡ないだろうし』


 ──などという本音を知っていたら、紫月はぴるるんに依頼などはしなかったに違いない。


 その場合どうなっていたかは神のみぞ知る。


 ◆◆◆


 芽衣理──という女はいわゆるホス狂だった。


 夜の街に憧れてホストクラブに通い詰め、気づいたときには多額の借金を背負っていた。


 馬鹿な女と片付けられがちなエピソードではあるが、理由がないでもない。


 彼女は地方の生まれである。


 両親が揃って毒親で、それに嫌気がさした彼女は家を出て東京で一人暮らしを始めた。


 東京なら仕事にも困らないだろうし、人も沢山いるだろうから友人知人がすぐにできて寂しくないから──そんな感じの理由だった。


 この辺の彼女の見立ては半分だけ当たっている。


 確かに仕事は選ばなければどうとでもなったが、友人もできなければ知人もできなかったのだ。


 少なくとも彼女はそう思っていた。


 孤独とはたった一人きりの状況では成立しない。


 孤独とは人の間に存在するのだ。


 そして孤独は孤毒となり、彼女は愛や情に飢えるようになる。


 そんな時に職場の同僚に連れていかれたのがとあるホストクラブだった。


 イケメンと飲めば元気も出るだろうと、その同僚が芽衣理を気遣って全奢りで連れていってくれたのである。


 そうしてホストの軽佻浮薄な色恋営業にコロリとやられ──という寸法だった。


 しかしホストクラブに通う金など、まともな昼職で捻出するというのは非常に困難だ。


 畢竟、芽衣理の経済状況は急速に悪化し、金を借りられる場所から借りつくし。


 最終的にはどのホストにも相手にされなくなり、ついには「金を払えないなら、もう来るな」と追い返された。


 しかしそれでも。


 偽物の愛でもいいから欲しかった芽衣理は風俗店に勤め始める。


 それでようやくホスト代を捻出する事が出来たのだが、こんなものは底なし沼にダイブするようなものだ。


 折角稼いだ金も次から次へと搾取され、シフトは毎日のように入る様になり。


 そして、疲労でふらつきながら街を歩いていたら酔っ払い運転の車にドンとはねられて死んでしまった。


 酒の毒、色の毒、孤の毒、様々な毒が彼女を蝕んで、彼女は何も見えなくなっていたのだ。


 明らかに危険な運転をしている車に警戒することすら出来なかったし、芽衣理を何かと気遣ってくれていた同僚の事を視界に入れる事もできなかった。


 本当は孤独じゃなかった事にも気付けなかった哀れな女である。


 そして、死してもなお現世に囚われ続け──紫月に出逢った。


 芽衣理の大好きなホスト。


 イケメン。


 そして、男。


 そう、芽衣理に悪意はない。


 この人なら、と思ってつきまとっていたに過ぎない──まあ、紫月からすればいい迷惑だったのだが。


 しかし、悪意がなかろうと亡者が生者に付きまとう事自体が、生者にとっては毒である。


 案の定紫月はみるみるうちに衰弱し──


 そしてぴるるんのに従って鼻くそを食った。


 自分の鼻くそのみならず、他人のものまでも! 


 ホストに憧れをもっていた芽衣理としては、とんでもないショックな出来事である。


 清潔感というものは大事なのだ。


 そうして紫月に失望してしまった芽衣理はホストへの、要するに現世への未練を断ち切り──


 ◇◇◇


 わ、きれい


 それにあったかい


 あそこまで昇っていけるかな? 


 なんだか体がかるい


 かなしくもないし、くるしくもない


 これならいけるかも


 上へ、上へ


 あともうすこし


 あそこまでいったらわたしはどうなるんだろう


 いまのわたしはいなくなって、ちがうわたしになれるのかな


 もしそうなら──


 こんどはしあわせになりたいな


(了)

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