「おっと、怖いものを握っている花嫁さんだな」
ふいに朗らかな声がかけられ、イリヤーナは慌てて顔をあげた。
いつの間にか馬車は止まり、扉が開かれている。
「あ、あの……すみません……」
「何も謝る必要はないよ」
黒い軍服姿の青年が、イリヤーナを見つめている。
金糸のような艶やかな金髪と、晴れた日の青空を思わせる青い目。軍服であるからには軍人なのだろうが、妙に柔らかい雰囲気の青年である。
「あ、あの……王都へ着いたのでしょうか?」
「いや? 国境をこえて我が国へ入ったところさ。検問所がこの先にあってね。今日はかなり混んでるからその間に散歩とランチでもどうかなと思ってね」
イリヤーナはぽかんとしてしまった。
国境の町が、これだけ立派なのだ。王都はどれほどだろうか。
「国境……ランチ? あなた様と、ですか?」
「おっと、まだ名乗ってなかったか。俺は花嫁護衛のために派遣された騎士の一人、クラウスだ」
「クラウスさま……ご丁寧にありがとうございます」
クラウスは、ふぅむ、と唸った。何かおかしなことを口走ったかとイリヤーナは慌ててしまう。
「……いや、普通なら怒ったり泣いたりしてもおかしくない状況なんだが……。君は、ずいぶんとおおらかな王女さまなのかな」
いえ、と、イリヤーナは正直に首を横に振った。
「わたくしは……我が国との和平のために国王陛下と結婚しなければならないのです。怒れる立場ではありません」
「国のための結婚、か」
「はい。愛されて結婚するわけではありませんので……国王陛下に嫌われないよう努力しなければならないのです」
それでもうまく行かず、和平の約束が反故にされそうになったら迷わず国王を刺し殺し自害せよと、イリヤーナの父は言った。
イリヤーナの実母は、あまりに辛い時は剣で我が身を守りなさい、いつでも帰っておいで、と、イリヤーナを抱きしめてくれた。
「へぇ……綺麗な顔して、今時珍しいくらいの悲壮感だな」
「そう……でしょうか」
うむ、と、クラウスがうなずき、少し考える素振りを見せた
「国王には、側室と子供たちが山のようにいるわけだけれども……それは知ってるよね?」
「はい」
「それでね……御側室たちは、それぞれ愛する人がいらっしゃる。むろん、国王陛下ではなく別に」
へ? と、イリヤーナの目が丸くなった。
「お、そんな可愛い顔も出来るのか」
「かっ、可愛い……!?」
からかわないで、とイリヤーナは俯く。
「つまり我が国王と各国の王女たちの結婚は形だけ、彼女たちはお城に来てそれぞれ恋人を作っているのさ。もちろん、国王も承知だよ」
「そ、そんな……」
「驚いただろ?」
息を呑むイリヤーナの肩を、ぽん、とクラウスが優しく叩く。そのままゆっくり顔が寄せられて、
「……俺が忘れさせてやる」
と、耳元で甘く囁くクラウス。
「え?」
「イリヤーナ王女ーー何歳だ? うら若き乙女があの老ぼれ国王に抱かれるだけじゃ、足らないと思うが……」
「だ、抱かれって、昼間からそんな、破廉恥な……」
首まで真っ赤になって狼狽えるイリヤーナを見て、クラウスはくすりと笑った。
「いや、すまない。王女殿下がそんなにも純情だったとは……」
「あ、当たり前でしょう!」
「この綺麗な顔に、この見事な胸……男が欲さないはずはないからね……。恋人の1人や2人はいただろうと思って」
失礼ね、と、さすがにイリヤーナは怒るが、クラウスはそんなイリヤーナも可愛いと言う。
「も、もう、知りませんっ! 自国の王の側室を揶揄うなんて不敬だわ!」
ぷん、と、そっぽ向いたイリヤーナの頬をクラウスはゆっくり撫でた。
「大丈夫、俺はーー……この国で俺を咎めるひとはまずいない」
「え? 騎士さまとはそんなに偉いのですか?」
「えーーいやまぁ……それはそのうち、わかるさ」
何やらクラウスもーーワケアリなのだろうか。イリヤーナが、半ば忘れられた王女であったように。
「さ、ランチにしよう。何か食べたいものはありますか? イリヤーナ王女殿下」
口調が丁寧になったと思ったら、クラウスがイリヤーナを横抱きにして馬車から下ろしてくれた。
「あ、の、クラウスさま」
「王女、どうかクラウス、と」
え、と、イリヤーナの目が泳ぐ。
「俺は国王陛下のご側室を守る臣ですから」
わかりました、と、イリヤーナは素直に頷く。
「クラウス……わたくしは、あたたかいスープが飲みたいです」
承知しました、と。
クラウスが騎士の礼をした。
その眩しい姿に、イリヤーナは思わず見惚れてしまい、慌てて己を律した。
ーーわたくしは、国王陛下に嫁ぐ身よ!