水が嫌いだ―――
なぜなら祖母の部屋があるから。英昭の祖母は、最後は認知症が酷くなって妄想ばかりになってしまっていたが、その前からおかしかった。近所で悪さをするから、と言って野良猫を捕まえて来て、鍋て煮ていた。それを最初に発見した英昭は、あの時から確かに水が嫌いだ。水恐怖症の根底は、祖母が暴れる猫を風呂場で始末し、その後鍋で煮たから。両親もその痕跡を見て、ついに祖母を精神科へ入院させた。診断は年齢からくる認知症。妄想や強迫性障害、さまざまなものが折り重なって、祖母はおかしくなったのだ、と説明を受ける。しかし英昭は知っていた。祖母は認知症なんかじゃなく、あの猫たちに命を狙われていたのだ。
祖母と猫の攻防戦―――何かのアニメでも作れそうな話だが、中身はそう簡単なことではない。祖父が生きている頃、英昭は祖母ちゃんは動物の声が聞こえるんだよ、と教えてもらったことがある。その通りと言えばそうなのだが、祖母は近所中の動物から嫌われており、命を狙われていた。お隣の可愛いシロが、祖母にだけ牙をむき出しにして飛び掛かったこともある。
祖父が言っていたのは、祖母ちゃんは動物の言葉が聞こえるから、若い時に動物をたくさん殺したらしい、ということ。毎日聞こえる動物たちのささやきに悩まされた祖母は、最初は何度も耳鼻科に通い、それでも治らず脳外科、心療内科へかかった。しかし結果は異状なし。泣く泣く帰ってきた祖母の緊張の糸が切れた瞬間、話しかけてきた猫の首をへし折ったという。それ以来、祖母は常に自分の周りにいる動物を手にかけた。だから恨まれている、というのが真相だ。声が聞こえようが、聞こえまいが、とにかく他の命を殺めた祖母は、それなりの報いを受けて死んでいった。
祖母は、動物の声がすると最初は暴れ、次第に諦め、最後には話さなくなった。病室で亡くなった時、祖母の足の指は鼠がかじっていたという。
そんな祖母との関係があって、英昭は水が嫌いだ。でも、水がなければ人は生きていけない。干からびてしまうし、生活には水が必要なのだ。そう考えていた成人した直後、英昭は不意に水が自分の思うように動くことに気づいた。右、左、ゆらゆら。なんだあれ、と思うと水はパシャンと音を立てて、形をなくした。それ以来、水を動かすことに集中し始めた英昭は、ついにその水を上手く動かすことができるようになる。なぜそれが分かったかというと、水道メーターの改ざんができたからだ。
恥ずかしい話、フリーターの給料では贅沢な暮らしはできない。水道代だけでも切り詰められるなら、それだけでもラッキーな話だったのである。こうして、英昭は水道料金を誤魔化しながら生き続けた。いつか見つかって、倍以上の代金を請求されたらどうしよう、そんなことを不安に思いながら、祖母がしていたことに比べれば可愛いものだ、とも思う。
水道代を誤魔化すなんて、ケチな能力の使い方しかできない英昭だったが、唯一、人を傷つけることだけはできなかった。この力があれば、なんでもできるはず、と思う反面、誰かを傷つけてまで何かをすることはできなかった。水を使って人を殺すこともできるだろうし、溺れさせることもできるんじゃないか、と思う。しかしそれを考えるといつも祖母の顔が浮かぶのだ。あんな風になりたくない、と思うと水道代をちょっと安く済ませる程度しか彼にはできなかった。
ある時、バイトに行く前に寄ったコーヒーショップで、前に並んだ客がなかなか注文できずに困っていた。若い男なのに、初めてコーヒーを頼むのか、種類も、飲みたいものも定かではない様子だ。だからちょっとした親切心で、英昭はコーヒーを注文してやる。甘いのを飲みたいとか、コーヒーの香りがした方がいいとか、よく他人に言えるもんだと驚くくらい、その男は英昭に話しかけてくる。そして、ちょっと馴れ馴れしいのだ。しかし俺に1杯奢ってくれるというから、まあいいか、と思う。いつもは頼まないスペシャルブレンドを選んで、買ってもらった。
「君さぁ、若いのにしっかりしてるよねぇ」
「若いって……アンタもそう変わらないと思うんですけど」
コーヒーを差し出してくる男は、正面から見るとさらに綺麗で整った顔をしている、と思った。だが、着ている衣類はどれも高価なもので、英昭との生活の違いを思い知らされる。ただの若い男じゃないのか、それとも金持ちの若作りなのか、と考えていると男が英昭の顔を覗き込んでくるようにこちらを見てくる。
「コーヒー好き?」
「あ、はい」
「そうなんだ。僕はさ、こういう店に来たことがなくって。お恥ずかしながら注文するのって大変だねぇ。本当、若いのにしっかりしてるよ」
また同じ台詞。つまり、やはりこの男性は自分よりとても年上なのだろうか。そうとしか取れないような言い方だ。
「僕、村雨景吾」
「……坂田英昭、です」
「今度、僕がおすすめの店に行かない?いい水使ってるんだよね」
「え?」
いい水ってなんだ、と思った時に電光掲示板にウォーターサーバーのコマーシャルが流れた。そうか、そういう販売系の男なのか。だからしつこく話しかけてくるんだ、と思う。自分に水を売りつけたい人間は、時々いる。ショッピングモールなどの一角に、わざわざ設置して声をかけてくるのだ。会ったこともないのに「昨日会いませんでしたか」と言って、ちょっとこちらの足を止めてくる。
「いえ、水は要らないんで」
「どうして水が要らないの?」
「いや、別に困ってないから……」
「本当に困っていない?」
なんだコイツ。まさか、行政の職員で自分が水道代を誤魔化しているのを気づかれたのか?と英昭は不安に思ったが、メーターの故障だと言うつもりでいた。
「こ、困ってないです」
「そっかぁ、じゃあ、単刀直入に。君のお祖母さんは動物との会話ができたね」
「は……?」
その話は、誰も知らないはず。祖父母が死んで、誰にも話をしていない。両親だって、それを聞いたことはなかったはずだ。話題に上がったこともない。
「お祖母さんの資料はあるんだけど、気になって君を調べてね」
「な、んで」
「毎月の水道代がちょっと変だし、水恐怖症なんでしょ?」
「ち、」
ちがう、と言おうとした瞬間に、顔面にコーヒーをかけられた。いや、かけられると思ったから、咄嗟に水を弾いた。水は壁を伝うように地面に落ちていく。能力を知られたと思った英昭は、真っ青な顔になる。
「本当に恐いんだ」
「こ、恐いですよ、ホットコーヒーなのに、何なんですか!」
大声を出して誤魔化して、このまま逃げよう。逃げなければ、何をされるか分からない。英昭は男の側を離れようとしたが、呼び止められる。
「動かない方がいいよ。近くで君を監視してもらっているんだ」
「か、監視?」
「そう。植物がね、君を見ているよ。それ以上動くなら、木の枝が偶然上から落ちてきて、君に突き刺さって事故死することになる」
なんだ、それ。そんなこと、できるはずがない。でももしできたら。死ぬ時まで、動物の囁き声に悩まされた祖母の姿が浮かぶ。
「コーヒー好き?」
笑って聞いてくる景吾の顔は、綺麗だけれど、恐ろしかった。