突然目が覚めて、
村雨という名前は、景吾と同じ苗字だ。景吾に言わせれば、親がいないのだからどんな名前でも構わないだろ、と気軽に言われたのが最初。それ以来、幸一郎は村雨幸一郎と呼ばれるようになった。
幸一郎は、特に何が好きだとか、何が得意だとか、何が、という感情に乏しかった。何も湧き上がらない、というのが彼の中にある絶対の感情である。自分にとって何もない、とは当然のことであり、当たり前のこと。だからそこを気にする理由がない。
茶色の髪に青みがかった目は、人が見ると緑のようにも見えるらしい。変わった目である自覚はあったが、それも大して気にならなかった。色々と本を読めば、人間は人種によって肌の色、目、髪など、さまざまな違いがある。猫の模様に似たようなもの、動物の種類のようなもの、と認識した。
本を読むのは嫌いではなかったが、分かりやすい本がいい。感情に乏しい幸一郎にとって、相手の気持ちを考えねばならない本を読むことは、苦痛だった。分からないから。どんなに読んでも、感情の答えがない。答えが出ないと、気持ちが悪い。無口になっている時は、大体何かを考えている。
そんな幸一郎に景吾は言った。
「幸一郎、お前は僕にそっくりだね」
「そうですか」
「うん、まあ、そんなところが特に」
「似ていますか」
「うん。そうだなぁ、昔の僕ってところかな」
昔の景吾。知るわけもない存在に似ていると言われたって、判断ができない。判断ができないということは、答えが出ない。自分に向かって話しかけてくる景吾のどこが自分に似ているのか、なぜ似ているのか、幸一郎は知らなかった。
景吾は、幸一郎を屋敷に連れてきて、それこそ千晶と奈雄に教育を任せた。それは一真の時と同じやり方を彼が望んでいる、と2人には思わせたようである。しかし幸一郎はよくできた子だった。能力は、一度見たモノは何でも扱える、ということ。それは武器でもハサミでも、難しさは大して問題ではないようである。ただ一度は正しい使い方を理解しなければならない。それは見本を見せてもらえることから、説明書を読むことなど、幸一郎が理解できればよかった。
真面目な彼は、常に本や辞書、図鑑から、多くを学んでいく。隣に座る一真は数分と真面目に本を読めないのに、幸一郎は違った。知識を得る手段として、文章などを選ぶことがとても多いのだ。真面目ないい子、しっかりしている、と奈雄は言ったが、千晶はあまり幸一郎を過信しなかった。
「あの子は年齢相応だよ。一真よりもね」
千晶の言葉に、奈雄は首を傾げる。
「いやいや、一真の方が馬鹿じゃない?」
「知能指数でいうとそうかもしれないけれど、幸一郎は年齢相応だ。足りないのは感情かもしれない」
「感情ねぇ」
奈雄は自分自身が心を失っていたことがあるので、感情が大切だと言われても理解したくない。頭では分かっていても、それに振り回される自分が嫌なのだ。だから、それを相手にも見てしまう。
「でも、あの力はちょっと不思議だよね。普通に頭がいいだけって考えてもおかしくはないと思うんだけど」
「なんでも扱えること?」
「そう。しかもモノ限定。それが人間にまでは及ばない。つまり、あくまでも作業ってこと」
「そうだね」
千晶と奈雄は時々年下の【子供達】について話し合いをした。話し合い、と言っても大事ではない。ただ最近あったこと、成長したと感じたことを話すだけだ。それを2人きりで話すことで、2人の間で情報の交換と整理ができる。
「まるで、作ったみたいだよね」
奈雄の言葉を聞いて、千晶は一瞬だけ息を飲んだ。作られた、とは創造された、という意味なのか。それとも学習や訓練によって身に着いたもののことを言っているのか。はっきりとは分からなかったが、2人の感想として幸一郎は真面目ないい子、であった。
幸一郎は、細身の体を常に鍛えていた。涼しい顔で鍛えているので、一真が必死になってついて行こうとする。しかし、なかなかついて行けないのだ。幸一郎は、逆に一真へ的確な鍛え方を教えてくれたほどである。
「幸一郎さ」
急に声をかけられて、幸一郎は一真を見た。本当は、運動する時には1人がいいと思ってしまう幸一郎なのだが、一真は勝手についてくるので仕方がない。
「お前さ」
「なんだ」
「千晶さんと奈雄さんから、何教えてもらってんの」
なんだそんなことか、と幸一郎は思った。一真は子どもで、頭の中もまだ子どもの思考。選び取る考えのそれぞれが、まだまだ幼いのだ。こうやって小さな嫉妬と好奇心を相手にぶつけることも、厭わない。鍛錬の途中であっても、相手に話しかけてくるのは若干マナー違反のような雰囲気をしているが、幸一郎は一真という人間がそんなことを気にしない、と分かっていた。
「何も」
「うっわ、最悪。聞くんじゃなかった」
「……千晶さんには、鍛錬の相手をしてもらっている。あの人はさまざまな異能が使えるから、それを相手に実践的な鍛錬だ。奈雄さんは植物のことを教えてもらいながら、読み書きの詳しいことを教えてもらっている」
幸一郎がこんなにはっきりと長く話をするのは初めてだ。そちらの方に驚いた一真は、口をあんぐりと開けていた。
「千晶さんは丁寧になんでも説明をしてくれる。だから、凄く分かりやすい。奈雄さんは知識が深いし、思慮深い」
「思慮深いってなに?」
「……思いやりがある、に近いだろうな」
さすがは奈雄に習っているからか。幸一郎は少しずつ語彙が増え、言葉の意味合いを理解できるようになってきている。だから、説明や似ている言葉を選ぶことができていた。彼の成長は、一真にとって少しだけ焦りを生む。自分よりも後にやってきたと言うのに、成長が早いと感じていたからだ。実際のところ、一真もとても成長していたのだが、そういったものは本人が一番見えないものである。
一真にしてみれば、この屋敷で年齢が近く、同じ性別である幸一郎は少し特別な存在になりつつあった。
そんなある日、一真はその真っすぐさを打ち抜いて、幸一郎に話しかけた。
「お前さ、名月のこと好き?」
「好きとは、生殖を行う相手としての感情か?」
「せーしょくって何?」
「性行為」
「せーこういって?」
「セックス」
「せっくす?」
「子どもを作る行為」
「うわ!ナニソレ!」
一真は頭が悪いわけではない。彼は世間知らずと、知識不足が重なって、色々と理解できていないことがあるのだ。それが露呈した時、周囲の方が肝を冷やすという話はよくある。幸一郎は特に感情が動かされることはないのだが、やはり目の前の一真には知識が足りなすぎると思った。だから注意をする意味で話す。
「好きなのか」
「うーん、まだよく分かんないな」
「なら、まだ何も口に出すな。周囲の迷惑だ」
迷惑と言われれば、一真は幸一郎に対して不機嫌そうな顔を見せる。しかし幸一郎からすれば、一真が他者から馬鹿にされるのは嫌なことだった。2人は並んで鍛え、並んで成長していく。お互い、はっきりとしたことは言わないが、これが親友というものか、と幸一郎は分かっていた。さまざまな本を読んで、親友とはどんなものなのか、多くの事例を分析した結果だ。同時に、一真ならばずっと一緒に居てもいい、と初めて思える相手であった。
外の森が梅雨の雨に打たれ始めた頃、景吾はまた少年を連れてきた。ボロボロの格好をした子だ。しかしその子は自由に屋敷の外へ出て、森の中を歩き回る。幸一郎はついて行くべきか、と確認したが、景吾は首を降る。
「あの子はいいんだ、新鮮な空気が好きだから」
村雨樹、森の中で発見された空気を操る少年であった。