打たれる場所は決まって、見えないところ。
それが虐待を意図的に行っている大人の、汚い部分だと小林奈雄は幼い頃から知っていた。彼を虐待していたのは、主に母親。それから、年齢が数歳上の姉だった。姉は学校から帰ってくると、まず奈雄の顔を見る。自分より綺麗で可愛い弟の顔を、これでもかと言うくらいつねるのだ。たまに唇の端が切れてしまうと、姉は意地悪く笑った。
母は、母子家庭で姉と奈雄を育てることが金銭的に厳しかった。手当をもらっていたり、夜の仕事に出ることもあったが、それでも2人子どもがいると、なかなかに大変だ。特に息子は、まるで女の子のような顔をしていて、女の母でさえ嫉妬する愛らしさだ。いっそのこと、どこかの変態に高値で売ってしまおうか、と何度思ったことか。それでも母が姉と奈雄を側に置いていたのは、夫が2人の親権を欲しがっていたからだ。
男というのは勝手なモノで、特に育てたわけでもなければ、産んだわけでもないのに、とられると思うと惜しくなる。だから離婚する時に親権の話になると、すぐ欲しいと言い出した。しかし母はそれを許さず、今に至る。
奈雄が自分の異能に目覚めたのは、まだ姉が高校を卒業する直前。姉は高校を卒業とともに家を出て、どこかに行ってしまった。進学するようなお金はなかったので、結婚したのか就職したのか知らないが、出て行った。それから、母の虐待は奈雄に集中していく。言葉、態度、暴力……些細なものでも積み重なれば、子どもには大きなダメージになる。
ある時、母は奈雄の食事を忘れて夜の仕事に出て行った。食べるものがなくなって、奈雄は空腹を耐えるしかない。しかし耐えきれなくなった時、ベランダにリンゴが落ちていた。夢中でかぶりついて、次にベランダを見ればみかんが落ちていた。誰が持ってきてくれたのか、と思うとベランダ近くにある木の枝がこちらに伸びてきている。触れれば温かくて、気持ちが伝わってきた。その時、奈雄は自分が生まれてくる種族を間違えたのだ、と思ったのである。
姉が出て行って、母は次第に荒れることが多くなった。奈雄に食事を与えず、折檻のためにベランダに出すこともあった。手足が真っ青になるくらいに寒い夜。でも奈雄は、木が包んでくれるから平気だった。
しかし、ある時地域開発のために木が切られ、奈雄を支えてくれた存在はいなくなってしまう。逆に、切られる時の木の悲鳴、木々の苦しみが聞こえたことの方が辛かった。押入れの中に隠れても、どんなに涙を流しても、木々が助けを求める声が聞こえてくる。助けられなくてごめん、と奈雄は何度も言った。子どもである彼にできることは、何もない。
それからの虐待は地獄だった。食べるものがなくなり、母が帰ってくる頻度が減った。冷蔵庫の中は空っぽで、ついに水が止まる。電気もつかなくなって、世界から奈雄だけが切り離されていく―――ベランダに飛んできた落ち葉を口に入れ、泣きながら味わった。そんな日々。
血の繋がった女2人に捨てられた奈雄は、自分の気分を害することのない相手―――それこそが真の恋愛であり、愛であるような気がした。愛なんてない。腹を痛めて産んだって、自分の後に産まれたからって、必ず愛してくれるわけではなかった。
奈雄へ救いの手を伸べてくれたのは、景吾である。景吾は、突然彼の前に現れた。母が閉め切っていたドアを開けて、入ってきた人だ。汚くて、やせ細った奈雄を連れ出し、新しい家に連れて行くと言ってくれたが、信じられなかったのを今でも覚えている。その時の景吾は、とても男前で素敵な男性で、まさかこんな人が自分を助けてくれるなんて、思ってもいなかったからだ。
景吾は屋敷に到着すると、すぐに食事を与えてくれた。弱った体の負担にならないように、スープから。温かくて美味しいスープを飲んで、それから風呂に入った。この時、風呂に入れてくれたのが千晶だ。2人の出会い。全身に痣のある奈雄と、それを気にせず風呂に入れてくれる千晶。2人の間には、言葉にできない信頼が確実に生まれた。
「名前」
「なお」
「俺、千晶な。千晶しかいないから」
「ちあきくん?」
「くんはいらない。千晶でいい」
「千晶……くん」
どうしてもそう呼ばなければいけないような気がして、奈雄は最後まで千晶をくん付で呼んでいた。千晶は奈雄よりも数歳上のようで、整った顔立ちが大変男前だ。男の家族がいない奈雄にとって、千晶のことは気になる存在である。時々やってくる景吾は、これまた綺麗な顔をした人だったが、男らしさで言うなら千晶の方が上だった。
景吾は、この屋敷のことを説明してくれる。特別な力を持った【子供達】をここに集めて、教育したり、一緒に生活したりしている、という話だ。特別な力なんてない、と奈雄が言うと、景吾は笑った。そして小さな花瓶を持ってくる。奈雄はその花瓶に生けてある花を見て、嘔吐した。
花は、死人の上に咲いていた花だ。死人を栄養として、大輪の花を咲かせている。それを誇らしいとさえ、花は思っているのだ。だから気持ちが悪くなって、奈雄はその場で吐いた。花は言うのだ、自分の栄養となった女のことを。子どもを捨てた母親、と言った。吐しゃ物に汚れながら、奈雄はニヤリと笑う。出てきた言葉は、ありがとう。それだけだったが、景吾にもその意味は伝わったようである。
「奈雄、もう何も気にすることはないよ。ここでは君は自由だ。部屋をあげるから、植物をたくさん育てるといい。君の自由にね」
「僕の自由にしていいんですか?」
「ああ、構わないよ。ただ、千晶の言うことは守りなさい。千晶がここのルールだ」
「分かりました。千晶くんのルールを守ります」
「違うよ、奈雄。千晶がルールなんだ。千晶のルールじゃない」
子どもには少し難しかったかもしれない。しかし奈雄は聡明だった。すぐにその意味を理解し、頷く。ここは千晶がルール。それさえ守ればいい。簡単なことじゃないか、と彼は思う。お腹が空くこともなければ、打たれることもない。置いて行かれることもない。部屋だってもらえて、自由にできる。
「植物って、どれくらい買ってもらえますか?」
「好きなだけ。希少なものが欲しいなら、リストを作ってくれ。僕は詳しくないからね」
「あなたは、どんな人なんですか」
「僕は医者と同じだよ。そして、君たちと同じ【子供達】だ。そのうち能力も見せてあげよう」
「医者なんだ。じゃあ、手に入りにくい植物でも、買ってもらえますか?」
「いいよ、奈雄が欲しいなら。奈雄は何をしたいのかな?」
美しい線の細い青年の顔で、景吾は問いかける。奈雄は笑って言った。
「ノアの箱舟」
「いいねぇ、それは壮大な夢だ。僕もそれに一役買いたい」
「お願いします」
「ノアの箱舟かぁ、久しぶりに聞いたよ。僕はあれがとても好きなんだ。いつか作りたいって、昔思っていたなぁ」
じゃあ自分と似たような人間なんだ、と奈雄は景吾を見て思う。この男もきっと、と思ってそれを考えるのは無駄な時間だと感じたから、花瓶の花をもらって席を立つ。
「ああ、そうだ。紹介しよう。名月だ」
ドアの向こうから現れたのは少女だった。黒髪の綺麗な、大人しい子。でもどこを見ているのか、と言えば下ばかり見ている。
「千晶の妹だよ。名月が奈雄を見つけたんだ」
「僕を見つけた?」
「そう。名月は夢を見れるし、夢に入れる。夢で何でも知ることができるからね」
名月が視線を上げる。その目と視線が合った時、この目が自分を見ていたのか、と思うと。
ちょっと気味が悪いな、と奈雄は思った。