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第7幕:瀧乃千晶、28歳

ちあきという名前は、誰が付けたか知らないらしい。男にしては少し可愛らしい響きであるし、少しきれいすぎるような名前だが、千晶は割とその名前を気にっていた。同時に、妹との名前の違いを指摘されるのが嫌いだ。

瀧乃千晶はエリート商社マンである父と、専業主婦の母の間に生まれた、ごく一般的な男児だった。だった、というのはすでに一般的な世界を飛び抜けてしまっているので、過去形になっている。エリート商社マンである父は、日本全国、アジアからアメリカまでを飛び回る優秀さを持った人だった。そして何より顔がいい。スポーツマンタイプのスッキリしたシャープな顔立ちは、どこに行っても受けがいいのだ。千晶は鏡を眺めるとたまに父を思い出す。そして、母も同じく綺麗な人だった。大学生の時はコンテストか何かで優勝して、その顔と体型維持のために命を懸けているような女性だ。だから子どもは1人しか産まない、と父に宣言していたらしい。

一粒種とはよく言ったもので、千晶は望まれて産まれてきた。優秀な父と美しい母。父の稼ぎがいいので、金に困ることはなく、欲しいものは大体家になんでもある、という雰囲気だ。学校に行けば、女の子からの熱い視線と、男子からのスポーツの誘い。千晶は父親に似てスポーツも上手く、走れば早いし、投げれば遠くに投げられる。絵に描いたような、優秀な子だった。


ある年の冬、父がアメリカで事故に遭ったと連絡がきた。その時ばかりは冷や汗をかいたし、人生で初めての【女性のヒステリック】を体験する。家の中から空港まで、飛行機に乗ってアメリカへ到着して、病院で父の安否が確認できるまで、母はヒステリックに叫び続けていた。トラブルは女に過剰なストレスを与えるのだな、とまだ少年であったはずの千晶は学ぶことになる。その分、彼は淡々と冷静になれたし、母が話せないことを静かに、丁寧に、しっかりと説明できた。


冷静な千晶と怪我をした父、そしてヒステリックな母。母の様子を見て、千晶は母親や結婚というものに嫌悪が生まれる。妙な話だが、別に恋愛をするならば異性でなくてもいいのではないか、とまで思った。自分の気分を害することのない相手―――それこそが真の恋愛であり、愛であるような気がしてならない。

ヒステリックにアメリカの病院に話をする母が嫌で、千晶は常にうつむいて過ごした。アメリカの燦燦とした太陽も、清々しい異国の風も、うつむいていれば気にならない。だから常に下を見る。漂ってくるハンバーガーやチーズの臭いで何度か嘔吐し、碌な食事もできずに千晶は帰国する。


日本へ帰ってきた家族は、以前と同じような気がしたけれど、変わっていたのは父だった。あの人は、たまに妙なことを言うようになって、それでも仕事に行くので放っておいたら、どんどんおかしくなっていく。聞けば、アメリカの商談に行った時に、頭を強く打ったと言う。その前に、誰かと話をしたとかしないとか、なんとも言えない微妙なことも話す。

ついには東北への出張が決まり、そこで商談をしてきたかと思えば知らない女を連れてきた。黒髪の美しい女だったが、千晶も母も吐き気がするくらいに気味の悪い女だ。父はご利益があるとか、龍神様の巫女だからとか、わけの分からないことを繰り返し言って、その女を我が家に住まわせるのだった。


そして、気づいた時には女の腹が大きくなっていて、赤ん坊が生まれていた。それが妹の名月。中秋の名月から名前をとって、名月と言われたが、抱き上げる女の顔を見ていると別の意味があるんじゃないか、と思ってしまう。

しかし、地獄はそれからだ。母が赤ん坊が産まれたのを見て気が狂った。もともとヒステリックだった女性が、今度は悪魔のように怒鳴り散らし、物を壊し、暴れ回る。自然と千晶への世話はおろそかになり、何日も飲まず食わずの日々が続いた。腹が空いても、家の中にいるのは母と女と名月だけ。お腹が空いたと母に言っても、打たれるだけ。父は仕事に行って帰って来ない。そんな日々が続いて、気づいた時には名月以外の誰もいなくなっていた。


「これが、俺の話」

「ふーん。ねえ、アメリカってどんなところだった?」

「奈雄、やめてくれよ。テレビで見たままの国だよ。まあみんな背が高かったかな」

「それって子どもの頃だったからじゃない?」

千晶は、この屋敷に来て数年が経っていた。名月はすでに自分で何でも済ませることができる年齢になっていたし、自分も成人してる。いつも側にいてくれるのは、ここで自分の次に年齢が多い、小林奈雄こばやしなおだ。奈雄は女のような綺麗な顔立ちをしている男だ。その名の通り、まるで女の部分と男の部分を併せ持っているかのような奴である。

ここに来てすぐに、ボロボロの奈雄が来た。だから気が合って、千晶は奈雄と話すことが多くなる。

「ねえ、今の千晶くんはどの千晶くんなの?」

「いつもの千晶だよ。奈雄が好きな」

「ふーん。別の千晶くんも好きなんだけど」

「浮気に入るかなぁ?どうなんだろう」

「心は浮気?でも体は1つしかないしねぇ」

変なの、と奈雄が笑う。彼は笑うと妖艶で、男も女も惹きつける。自分はそんな奈雄に惹きつけられてしまったのか?と千晶は思ったが、まあいいか、とも思った。奈雄は【千晶】を理解してくれるし、不快にさせない。稀に喧嘩はするけれど、それは喧嘩というよりは、意見の違い。ブラックコーヒーがいいか、ミルクを入れるか、その程度の違いであって、砂糖の量で喧嘩をするようなものではない。

「千晶くんさぁ、ここに来てもう何年だっけ?」

「……詳しく覚えてないんだよな。景吾が連れて来てくれたから」

「僕もそうなんだよねぇ。でも不自由してないのって、不思議じゃない?」

ソファーの上に足を投げ出して、奈雄は言う。彼は少し態度が高飛車だ。過去に嫌なことがあって、自分自身を守るためにそうしている。だから千晶はその足を避けて座った。

「景吾が何でもくれるから」

「お金、どうしてると思う?」

「景吾は、戦前から続く医者の家系で、戦争で家族がみんな死んだから、遺産を独り占めできたんだって言っていた」

「それ!独り占めって言い方~、なんかやだなぁ、家族と仲が悪かったってことだよね?」

「そうだろ。景吾みたいなの、家にいたら気味が悪いよ」

嫌いだからそう言うのではなく、率直な意見。それは経験から来るものだ。千晶は家の中に他人がいて、その他人が妹を産んだという謎の過去がある。どうしてそういう流れになったのか、父が馬鹿だったのか、浮気や不倫というだけでは済まされないような、そんな話だった。ゴロリと寝返りを打って、奈雄は千晶を見た。

「ねえ、意地悪な千晶くんでしょ」

「すごいね、よくわかったね」

「まーねぇ。空気感?そんなもの」

「ふーん。僕たちはさ、あんまり干渉されたくないから、できるだけ分からないように入れ替わるんだけど」

「普通の人は分からないよ。僕だけかも~、愛の力?」

「愛、ねえ……」

それはどんな形をしているのか、千晶にはよく分からない。気づいた時には家族はみんないなくなって、名月しかいなくて、景吾に連れて来られただけだから。そして、年長者だから【子供達】をまとめるようにと言われている。時々景吾から嫌な仕事を押し付けられるのだが、それをしないことには前に進まないので、そんな時は戦うのが好きな千晶に変わってもらう。

「嫌いなんだ、愛」

「よく分からないだけだよ」

「僕はだーいっ嫌い!愛情なんて嘘っぱち!あはは!」


そう言いながら、奈雄は愛しそうに窓辺の観葉植物を撫でていた。

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