世界の色は、いつも不思議な色をしている、と誰かが言っていた。逃亡を選ぶのは自由を知っているからであって、自由とは外の世界のこと。外の世界は、彼らにとって何を意味していたのか。
煙草に火を灯し、
本当の千晶は煙草が嫌いだ。いや、本当の千晶とは、両親を失ったあの日から心の奥に消えてしまった少年を指す。自分たちの最初の千晶、彼がいたから自分たちが生まれた。彼らは生まれた時から千晶の中にいて、千晶を守り、見続けてきた。少年は今でも膝を抱えて、心の奥底に沈んでいる。あれを無理矢理呼び起こすことはできないから、みんなで交代して【千晶】を演じた。だから気づいた時には、誰が本当の千晶なのか、誰にも分からなくなってしまう。自分達でも、分からなくなっていたのだ。
人の命は、花を枯らすようなこともあれば、銃弾で撃ち抜いて花びらが散っていくような時もある。美しい花は、どう考えてもいつか枯れてしまうし、残ることもない。残るのは景吾だけ。あの男の遺伝子を操作する能力だけが、花を花のまま、人を人のまま、長らえさせる。しかしそれは本当にそのままの花なのか。遺伝子を操作した後に残るものは、別物なのではないか。
「……寒いなぁ」
春に差し掛かっているというのに、日差しが出なければ寒いのだ。血の飛び散ったシャツ、破れたところもあるが、これはどうしようもない。このせいで寒いわけでもない。ただ、寒いと感じたから言っただけ。
「千晶、お前はこれからどうなりたい?」
問いかけて出てくる返事はない。それが、いつものことのはず。しかし今日は違った。少年が水面へ手を伸ばし、浮上し、顔を出す。その目は恨みがこもり、痛みと苦しみを語る。
「おいおい、千晶。もうどれだけ時間が経ったと思ってるんだ?」
両親が死んで十数年。名月が産まれて18年、少年は地獄だった。大事な家族を壊した存在との出会いは、20年ほどになるか。それを考えると、当時の少年はそのままなのだろう。ある意味、景吾と同じだ。成長しない存在。成長を自ら止め、心の奥深くに沈んでいる存在。しかし、それがやっと出てきた。
「お前の恨み言は聞き飽きたよ。もうどれだけ時間が経つと思う?」
宙に向かって話し続け、彼は自分の中にいる少年の慟哭を聞いた。耳が壊れるような叫び声と哀しみの記憶。分かっているさ、知らないわけがないだろう、と繰り返し、頭を振っても、その叫びは消えてくれない。
「お前は運が悪かっただけなんだよ、千晶」
そう言ったが、千晶の返事は違った。
「え?」
違うのだ。その返事は違っていて、聞いたことのない返事を彼がする。
「りゅう、じんさまの」
―――言うとおり。
返事は声ではなく、口の動きだけ。水面から上半身を出し、ずぶ濡れの少年が言った。
青年は近くに煙草が落ちていることに気づいた。まだ消されていない、紫煙の上がる煙草。誰かがその場に捨てたのかもしれないが、このままでは火事の危険性があると思い、踏んで消した。煙草の臭いは嫌いで、父を思い出す。商社マンとしてはエリートで、へき地にまで営業に行っていた人だ。何の手違いか、営業に行ったはずなのに女を連れて帰ってきた。
その女が妙な女だったのを覚えている。色々と言い訳をする父の横に、凛と座っているだけ。説明するでもなく、弁解するでもなく、その女はただジッとこちらを見ていた。まるでこちらの心を覗き見るように。気持ちが悪いと思ったのは自分だけではなく、母も同じである。だから、母は女をすぐに追い出すようにと父に言ったが、結局女は出て行かず、気づけば腹が大きくなった。家を追い出さなかった理由を知って、母は父をひどく罵り、ヒステリックに叫び声を上げていた。
叫び声、と思い出した時に、誰かが叫んでいたような気がしたが、思い出せない。子どもように高い声で、青年はあの声の主は誰だったのだろうか、と思う。しかし周囲を見ても、瓦礫と鬱蒼とした木々ばかり。どこだここは、と思いながら歩き出す。
歩き出しても、あまり実感がない。まるで、長い間眠っていた病人のような感覚だ。おかしいな、昨日は確か学校に行っていたはずなのに、と思う。時間はなんとなく太陽の感じから分かるが、日付は分からない。どうせ、いつものように両親に無理矢理連れられて、キャンプだのなんだのに来たんだろう。
歩いていくうちに、体の傷に気が付いた。どうして怪我をしているのか、分からない。痛みがひどくなってきて、理解ができない。痛みが頭を支配しそうになった時、道路に飛び出た。そしてちょうど車が来る。老夫婦の運転するプリウスは、彼を轢く前に止まることに成功したようだ。
「だ、大丈夫かい、君!怪我したの?どこの大学?」
どこの大学の意味が分からなかった。大学とは、自分の人生のまだまだ先にあるものだと思っていたからだ。父は常日頃、難関大学を突破して、いい会社に就職しろ、と言っていたはずだ。その大学のことだろうか。
「大学生だよね?キャンプでもしていたの?」
「だい、がくせい……?」
「そう。まあいいや、病院に行こう。この先はだいぶ長いから、我慢できるかな?救急車を呼べる距離じゃないんだよなぁ、田舎だから」
老いた夫はこのあたりのことを知っているのか、距離感も分かっているようだ。しかし青年には何も分からない。怪我をしている理由も思い出せないし、キャンプに来たという事実もない。誰かに連れて来られたのか、と思いながら、老夫婦に手助けされて、プリウスの後部座席に乗った。夫人が横に座って、簡単な手当てをしてくれる。
「あなた、お名前は?」
「……僕は、
「ちあき?季節の名前?」
「いえ、水晶。千の水晶です。石の」
「ああ、占いとかの、丸い?」
「そう」
それでちあきなのね、珍しい―――と夫人が微笑む。優しい老夫婦に支えられ、千晶はボーッと外を眺めた。森が続く山道、こんな場所、千晶は知らなかった。
「このあたりは物騒でね。山の奥には、政府の秘密の施設があるって噂で」
「あなた、こんな時に変な話しないでちょうだい。どうせ、ちょっと変わった人が、高齢になっても住んでいるだけでしょ。ほら、人気の番組があるじゃない。山の合間とかに住んでいるお宅を取材しに行く」
「あんなんじゃないよ。本当だって!ここの山は手前はいいキャンプ場なんだけど、奥地はとにかく奥まってて、謎の研究施設があるって、子どもの頃からの噂だったんだよなぁ!」
ハンドルを握りながら、夫は笑っていた。夫人は困ったように笑い、千晶を見る。千晶は視線だけを彼女に向けて、少しだけ理解ができた。自分のいる場所は、家ではなくて、もっと遠い場所なのだ、と。
「……運転、変わります」
「え?」
「運転、変わりますよ、お父さん」
その声を聞いて、夫は違和感を感じた。子どもの頃から、この山で出会った人間は、人間じゃないかもしれないから気をつけろ、と言われていたのだ。山には山の生き物がいる。それを連れて来てはいけない、拾ってはいけない、助けるな、と。その代わり、自分も助けてはもらえないから、十分に気をつけた山を歩け、と。
「……あなた、せっかく息子がそう言っているんだから、変わったら。あなたも年なんだし」
「そうですよ、お父さん。疲れたでしょう?」
「あ、ああ、そうだな……息子が、そう言うんだもんな……」
うちに息子はいたかな、と思った時には、息子との楽しい思い出が夫にはできていた。産まれた時の喜び、感動、初めて立ち上がって、キャッチボールが下手糞で、でも優しくて、いい青年に育った。
「そうだなぁ、千晶が言うんだもんな!」
数時間後、1台のプリウスはそのまま崖下に落ちていた。
黒煙が昇るのを、千晶は横目で見て、歩いていく―――