景吾に痛覚は存在している。遺伝子を操る能力を持っているので、無痛なのかと勘違いされがちだが、十分に痛い。特に自分の遺伝子を操作させ、顔を作り替える時など激痛だ。しかしその能力のおかげで、さまざまな病を未然に防ぎ、老化することもなく、長生きできた。
だが、今回は違う。本気で死にかけている。いや、体の機能はほぼすべて停止に向かっているのが、景吾には分かった。
「痛いのね」
問いかけられて、景吾は返事をしたが血の味ばかり感じる。おかしいな、と思ったが視線だけをそちらへ向けた。そこにいるのは、ワンピースを着た女性と傷ついた青年。ジーンズは破れ、腕は大やけどをしている。
「景吾、痛いのね」
「そ、うだね……」
「初めて、痛いのね」
「そんな……」
ことはない、と言いたくても言えなかった。彼女の言う痛みがなんなのか、理解してしまったからだ。目の前の女性は、龍神の巫女を母に持つ、龍神の生まれ変わりだと言われた娘だ。龍神など信じていなかったが、景吾の目には彼女の瞳が爬虫類のソレと同じように見える。光の加減か、それとも。遺伝子操作をすることができる景吾にとって、龍神などただの言い伝えだと思っていたが、違うのだろうか。
「もう、死ぬのね」
「は、はは……」
もう死ぬのか。景吾の意識の中で、死が浮かんでくるが、あまりはっきりとはしない。死ぬ前に脳内のドーパミンが幻覚でも見せているのか、それとも自分の本能が、生きたいと言っているのか。
「さようなら、景吾」
「な、つき」
「龍神様の言うとおりだったでしょう」
龍神様。遠い昔、戦時中に見た死体の浮かぶ川。あの場にも龍神様はいたのだろうか。そして、彼女の中にもいるというのか。遺伝子には何もなかった。では、遺伝子ではない何かが、あるのか。遺伝子では分からないことがあるはずがないのだ。すべては遺伝子に刻まれていて、遺伝子さえ問題がなければ、多くの問題を解決できる。
「
青年は、彼女の手を取って歩き出した。ここには戻らない、という強い意志が伝わってくる。
景吾が天を見上げれば、龍のような雲が浮かんでいた。こんな雲を見たことがない、と思う。そこへ別の青年が2人やってきた。
「なんだ、ここにいたのか」
「今日は倒れてるんだね、珍しい」
2人の青年は、景吾を見つめて微笑む。この2人がこんな風に笑うことはなかった。こんな風に笑えないようにしたのは、景吾だったからだ。2人に汚い仕事をさせて、納得させて、それを他の【子供達】にも教えさせる。二重、三重、と苦しいことをさせてきたはずなのに。
「
「なんですか、景吾」
「君は……」
「一緒に逝きますか?」
初めて、彼に手を差し伸べられる。この時代になってやっと、景吾は手を差し伸べてくれる人に出会えたのだ。座敷牢にいた頃の子どもは、もういない。しかし、景吾はその手を握れなかった。
「千晶くん、時間だよ」
「そっか。じゃあ、景吾、お先に」
ジャリ、ジャリ、と足音が遠のいていく。2人分の足音は、景吾の耳にとてもよく響いていた。皆、この場を離れていくが、寂しさはない。子どもはいつか成長し、巣立つ。それを理解できただけのこと。
「千晶、わたしと、君は……」
もういない人に話しかけても、返事など来ることはない。景吾はまた血を吐いて、どうにか自分の傷を癒そうとしたが難しかった。遺伝子の操作はできても、その操作によって増やすことはできない。つまり、大怪我を負った場合など、適切な治療がなされればそれを増幅させることが可能だが、ない場合はできないのだ。
彼の能力の特性を理解して、何もないこの場に呼び寄せたことに感心する。ここで景吾は干からびるだけしかないだろう。最期の迎える瞬間まで、遺伝子は生き続けるが、傷を癒すチャンスは限りなく低い。
空を見上げて、自分が今までしてきたことを考える。
最初は、兄を殺したこと。景吾が父からもらった少々難しい、その年齢には合わない本を兄が羨んで破ったからだ。兄は読めもしないのに、自分よりも後から生まれた存在に物が与えられるのが許せなかった。そんな子どもの嫉妬。嫉妬は子どもの手を動かし、本を引き裂く。景吾は今でもあの時のことを覚えていた。引き裂かれる本の音。絶望を初めて知った幼い自分。醜悪な兄の顔。だから、そんな顔がなくなればいい、と思ったのだ。兄の体を巡る遺伝子に、なくなってしまえと思ったのだ。だから兄の体が上半身を中心に吹き飛んだ。
その後、あの部屋がどうなったのかは分からない。空襲で燃えてしまったのもあって、あの頃のものは、景吾が手にした父の金くらいしかなかったのだ。
だが、あの時の金がなければ、ここに【子供達】を集めることもできなかった。だから、あの金は手にするべくして手に入れた金。自分がもらって当然のものだ、と景吾は信じて疑わない。
傷口から血が流れた。ご丁寧に抗凝固剤まで撃ち込まれたのだろう。そのあたりは、自分のクローンとして作った
その知的さ、景吾のことを理解している様子。すべてを総合的に考えて、相手は千晶だろうと思った。
「さすが、千晶だ……」
遺伝子操作をしたとしても、抗凝固剤の量が多ければ血液の変化が完了する前に効果が出てしまう。致命傷までいけば、遺伝子操作が間に合わない。それを理解して、幸一郎に抗凝固剤を渡したのは千晶だ。誰に渡しても希望はあったかもしれないが、確実な結末を得るためには、幸一郎が適任だろう。
しかし読みは外れたというよりも、外された。感情を与えないようにしていたのに、あの子は立派に感情を持ち、自ら判断して行動もできた。つまり、成長したのである。素晴らしい成長だ、と思ったが成長とは、自分のもとを離れていくことであって、創造主に牙をむくことではない。しっかりと牙をむかれてしまって、かなりの痛手だ。
「僕と同じにしたのになぁ……」
無口で感情表現に乏しく、不安症で潔癖に近い。そんな自分の特徴だけを遺伝子操作したはずなのに、環境で変化するものなのか。もうすぐ死ぬという今頃に、研究の成果を見ることができて、景吾は複雑だ。笑うと血飛沫が飛ぶ。
「そうか、同じだから……同じだから、千晶を」
答えとは必ずしも真っすぐな場所にはなかった。景吾は【子供達】のリーダーである千晶を信頼していた。つまりそれは、幸一郎もそうであるということ。だから、信頼している千晶の提案を、幸一郎は裏切らない。それが分かると、景吾は笑った。また血飛沫が飛んで、ひどい痛みが胸に走ったが、嬉しかった。
研究は、失敗していない。
それが分かったからよかったのだ。同じ遺伝子を持つ者が、同じ行動をとる。つまりクローンが同じ人間になっていくことができる。それでいい、これでよかった。幸一郎との結末は、静かにではあったがついていたのかもしれない。