新居園家に飛ばされている間も、時間は体感通りに進んでいたらしい。
青衣が食堂の時計を見ると、飛ばされる前より一時間ほど経過していた。
「戻ってきたら百年経ってました、とかじゃなくてよかったぁ」
自身のスマートフォンで日付も確認し、背中を丸めて安堵する。だが、千聡は渋い顔だ。
「全くよくないです。一時間も、食べ終わった皿を放置していただなんて」
険しい顔の彼が両手に持つのは、二人分のカレー皿だ。一時間放置されていたお皿には、カピカピに乾いたお米がへばりついている。
千聡は苦悶の表情で、ミイラ化した五穀米を見つめていた。
「家政夫としてあるまじき失敗を犯してしまいました。実に情けない……」
「いやあなた、護衛でしょ」
青衣はいつの間にか無断で転職していたらしい彼へ、冷ややかな目を向ける。
次いで彼の手からカレー皿をもぎ取り、シンクの洗い桶に入れた。水も注いでしばし待つことにする。
お米がふやけるまでやることもないので、青衣はトイレに寄ってから自室に戻った。恨めし気にシンクを睨む千聡は、この際放置する。
青衣がへっぴり腰で自室の白いドアを開けると――テレビ画面は消えており、ゲーム機も沈黙していた。電源コードを抜いたままだったので、呪いが解けると同時に電源が落ちたのだろう。
「あー、よかった……まだ何か映ってたら、絶対漏らしてた」
念のためトイレに寄ったが、杞憂に終わったらしい。青衣は胸を撫で下ろしながら、テレビとゲーム機の電源をつなぎ直した。
改めて『ボイアク』を起動すると、音声以外は全て気の抜けた、専門学生の卒業制作のようなオープニング画面が流れる。青衣は両手を上げて喝采した。
「やったー! このもっさい映像が愛しい!」
喜びながらもいそいそと、スマートフォンの通話アプリで木野に連絡を入れる。
数回のコールの後、彼とつながった。どうやら室内にいるらしく、ボサノバ調の洒落た音楽がかすかに聞こえる。
(ドゥンドゥン系じゃないんだ。意外過ぎる)
派手シャツに魅せられたチャラ男には、不似合いなBGMではなかろうか。
「木野さん、いま大丈夫?」
「全然イケますよー。青衣サマ、どしたんすか?」
「さっき預かったクソゲーのことで、ご報告です」
軽妙な彼の声に、含み笑いで青衣が続ける。無事に取り憑いていた霊を祓った、と報告を入れた。
まさか青衣が自力で解決するとは思っていなかったらしく、木野が大きく息を飲む気配があった。
「ハァッ!? それ、青衣サマが、除霊したってコトっすよね?」
「そうっすね。千聡にもいっぱい助けてもらったけど」
「いやいやいや、でもスゴいスゴい! 青衣サマ、やるじゃないっすか! スゴい! 天才! 才色兼備! マジあざーっす!」
「へへへ、どうもー」
大袈裟なまでの賞賛だが、今は素直に嬉しかった。青衣は木野に見えるわけでもないのに、長い髪を指に絡めてぺこりと会釈。
(たぶんパパとママも、喜んでもらうのが嬉しくて頑張るんだろうな。まあ、お金のためなのも絶対あるけど)
怖い・危ない・胡散臭いの三拍子が揃った職業ではあるが、青衣は両親がいつも全力で挑んでいた姿にほんのりと共感を覚えた。
その後、彼に簡単な経緯も説明した。
ゲームソフトは、新居園 唄子少女の持ち物だったこと。沼井青年は新居園家で家探し中に、家長の霊に殺されていたこと。
また、家長の霊を祓ったことで二人も成仏したことも。
「あ、じゃあ沼井さんが後生大事に持ってたソフトって、完全に別人の形見だったんすね」
木野が感心したような、呆れたような声を出す。やはり依頼人は、沼井の遺族だったらしい。
「うん。しかも唄子ちゃんもこっそり捨てようとしてたゲームだって」
「大事に持ち損ー! いやあ、迷惑かけちゃってすんません」
「いいよ、いいよ。ちょっと楽しいこともあったし」
青衣が笑って首を振る。
「なんっすか? あ、星形のピノが出たとか?」
「違うなぁ」
「じゃあハート型のピノが出たんすね!」
「なんでピノ縛りなの?」
木野はピノが食べたいのだろうか、と青衣は首を傾げた。
「さっき初めて、千聡の犬耳を触らせてもらったんだ。すっごい毛並みよかったよ」
極上のビロード感を思い出し、青衣はついやに下がる。小さい頃に一度お目にかかった時は、どれだけ頼んでも触らせてもらえなかったのだ。十何年越しのリベンジである。
彼女は木野も、軽いノリで「羨ましいっすねー」と流す程度だと思っていた。だが
「……えっ」
返された言葉は、低い声でのこの一言だけである。絶句、という表現がピッタリの低音ぶりだ。
予想外に深刻そうな反応だったため、青衣もにわかに慌てる。
「え? ひょっとして、触るの……まずかった? わたし、すっごい失礼かましてる? なんかセクハラとか、パワハラ案件だったり?」
焦る彼女に、木野は小声でしばらく唸った後、一転してカラリと笑った。
「あー……そうっすね……まあ、でも、ちーちゃんは嫌がってなかったんすよね?」
「あ、うん。ちゃんと許可取って触ったよ。で、柴犬をライバル視してるって教えてもらった」
青衣が今日一番の
「ファーッ! なんすかそれ!」
「おこがましいよねぇ」
「そこは一応、オレはノーコメントで。でもまあ、ちーちゃんが嫌がってなかったんなら、触っても全然オッケーっすね! でも、仲良くないと絶対怒られますんで、他の人狼サンにはお願いしない方がいいっすよ」
「あ、やっぱそうなんだ……ありがと、木野さん。以後気を付けます」
木野は除霊師としては微妙な腕前だが、調査や交渉事では大変有能だと聞いたことがある。合鍵を渡すぐらい両親も信頼している人物なので、このアドバイスも素直に受け取ることにした。
報酬については、青衣の両親にも報告を入れてから追って連絡するという業務連絡で、彼との通話は終了した。
終話ボタンを押すと同時に、千聡が半開きだったドアから顔をのぞかせる。どことなく不機嫌そうだ。青衣も首だけ振り返り、彼を見る。
「どうしたの、千聡?」
「どなたか、男性とお話なさっていましたよね?」
青衣は彼の心配性っぷりについ噴き出した。
「地獄耳か。デビルイヤーをお持ちか」
「残念ながら、私にはウルフイヤーしかございません」
すまし顔で答える彼の頭部からは、そのウルフイヤーが消えていた。青衣はちょっと勿体ないような気になった。言えば毒づかれるので、言わないが。
「電話の相手は木野さん。ちゃんと除霊したし、『ボイアク』は沼井君のものじゃなかったよーって報告しといたの」
「そうでしたか。お手数をおかけいたしました」
「ううん。おかげで木野さんにすっごいヨイショしてもらえたから――あ、そうそう」
体ごと彼の方へと向き直り、小さく頭を下げた。
「人狼のお耳って、あんまり触らない方がいいんだね。ごめんね?」
千聡のたれ目が、二度ほどパチクリと開閉した。ややあって、彼はほのかに微笑む。
「珍しく殊勝でいらっしゃいますね。木野さんに怒られましたか」
「怒られたってか、他の人のは触らない方がいいよって教えてもらった」
「そうですね。どうしても触りたい場合は、私のお耳で我慢なさってください。いつでも最高の手触りをお届けいたしますので」
「あ、うん……」
妙に強い圧に、青衣は若干のけぞりつつ曖昧に笑って流した。
青衣が、自己愛の強めな護衛にやや引いている、ちょうどその頃――
彼女との通話を終了した木野は、自宅で小難しい顔をしていた。先ほどまで耳に当てていたスマートフォンをにらみ、しばらくうめく。
「……人狼ってたしか……まず耳触らせないよな……え、ほんとに青衣サマ、触らせてもらえたの?」
そもそも彼らが狼の耳や尻尾を露出させてしまうのは、命の危機を覚えるほど追いつめられたり怒りで我を忘れたりといった、平静さを失った時だ。
人狼本人に一切余裕がない状況下であり、精神的な弱さの象徴でもある耳と尾を他人に触らせるわけがないのだ。
許されるのは親や兄弟、もしくは配偶者程度である。そして青衣は、初めて触ることを許されたと言っていたが――
「……うん、怖いから聞かなかったことにしよう。そうしよう」
深掘りすると、とんだ藪蛇になりそうである。
パリピな見た目に反してクレバーな木野は、そこで考えることを止めた。賢明な判断であろう。
青衣がこの事実を知るのは、もう少し先のことである。