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18:即死効果の猫パンチ

 青衣に狙いを定めて走り込んできた新居園だったが、彼女を傷つける前に千聡によって阻まれる。錆びた包丁を構える新居園の両手は、がっしりと掴まれていた。

「悪霊の分際で、私のお嬢さんを傷付けようとはおこがましい」

 千聡の低く抑えられた声にも細められた瞳にも、ふつふつと煮えたぎるような殺意がみなぎっている。

 怒りの度合いが強すぎるためか、はたまた威嚇のためか。彼の頭部には、大きな狼の耳が現れている。


「逃げるな逃げるな行くな逃げるなここにいろ俺はお前たちを思って逃げるな行くな行くな逃げるな思って俺は」

 新居園は同じ言葉を繰り返しながらもがくが、千聡に掴まれた腕はぴくりとも動かない。目いっぱいに新居園がのけぞった瞬間、千聡が彼の両手を解放した。自分の勢いを殺せず、新居園はそのまま後ろにバランスを崩す。


 汚れた木床に尻もちをついた彼の頭部目掛け、千聡は一度腰を落として追撃する。長い脚を使い、一切軸のぶれない回し蹴りを浴びせた。

 蹴りによってあり得ない方向に首の曲がった新居園が、砂埃を上げて吹き飛んだ。千聡は倒れた彼へと近づきつつ、ちらりと後方の青衣へ視線を向けた。

「お嬢さん、お手数ですがあいつを消滅――」

「許さない許さない許さない許さない許さない許さない」

 だが千聡の言葉に、人外の挙動で上半身を起こした新居園の呪詛の言葉が被さる。


 彼は蛇のように体をうねらせながら再度千聡へと肉薄し、顎が外れんばかりに口を開く。そのまま、彼の腕に噛みついた。千聡が顔をしかめ、低くうなる。

「千聡!」

 青衣が見事にひっくり返った声で叫んだ。次いで自分が握りしめたままの、殺虫剤の存在をようやく思い出した。

 そして彼女はどういうわけか殺虫剤を構え、揉み合う悪霊と忠犬へと突撃する。

「千聡に何するの、バカ! 変態! クソ親父! どっか行け!」

 子供のような啖呵たんかを切りながら、殺虫剤を新居園の顔目がけて噴射した。噴射された白煙が新居園の顔に触れるやいなや、白い火花が飛び散った。


「ぎゃあああああああああああッ!」

 たちまち、新居園が怖気おぞけを覚えるような悲鳴を発した。丸焦げになり、目や鼻が残っているかも分からなかった彼の顔が、みるみるうちに溶け始める。

 とんでもないビビリ体質ではあるものの、青衣は除霊師一家の跡取り娘である。

 また気の小ささに反比例するかのように、除霊師としての才能も別格なのだ。彼女の両親すら、足元にも及ばないほどに。


 そんな天才除霊師様が使えば、市販の殺虫剤も立派な除霊グッズとなる。

 だがそうそうない光景のため、唄子と沼井はおろか、千聡もポカンと顔面がタール化する新居園を見守っていた。

 おまけにタール化の原因である青衣はといえば、

「うわっ、汚っ! 臭っ! こっち来ないでよ!」

こんな無慈悲な罵倒と共に、ふらつく新居園の腕を力の限りぶん殴った。傍から見れば、ヘロヘロの猫パンチである――が。


 殺虫剤の比でない火花が飛び散り、新居園の体は真っ白な炎に包まれる。腕を振り切った体勢のまま、青衣が目を剥く。

「わっ、なんか燃えた!」

 なんか燃えた、ではないだろう。

 炎に包まれた新居園は一度大きくよろめくと、床に膝をついた。そのまま背中を丸めて縮こまる。

「逃げるな逃げるなお願い見捨てないで俺を必要として俺を愛して逃げないでどうか俺を……」

 呪詛というよりもみっともない懇願の言葉を何度も繰り返し、そのまま彼の体は燃え尽きた。幸いにして、床には焦げ跡一つ残っていない。


 それを見守る青衣はいつの間にかポカン顔から、キメ顔でのファイティングポーズに代わっていた。そして大きく息を吸う。

「……やったか?」

「お嬢さん。その言葉はあまり縁起がよろしくないので、今後は控えるようにいたしましょう」

 噛まれていた部分をさすりながら、千聡が淡々とたしなめる。殺意百点満点だった先ほどまでと異なり、表情も薄いものに戻っていた。


 予想外の殺虫剤攻撃に唖然としていた幽霊コンビの体は、今も小刻みに震えていた。ただ表情だけは明るい。どちらも、涙目ながら笑っている。

「ふふっ、なにこれ……殺虫剤って……」

「あんなヒョロヒョロパンチで死んじゃうなんて……散々、僕らを殴ってたくせにダサ過ぎません?」

「ははっ、ざまあみろ!」

 唄子がそう吐き捨てると、二人は顔を見合わせて清々しく笑った。廃墟に似つかわしくない大爆笑である。


 が、新居園を退治した張本人としては、聞き捨てならぬ言葉がある。

「悪かったね、ヒョロヒョロパンチで」

 青衣がドスの利いた声で拗ねながら、二人へスプレーの噴射口を向ける。

 ギャッと、両者から短い悲鳴が上がった。抱き合うように怯え、二人は青衣にペコペコと頭を下げる。


「すみません、すみません! 調子に乗りました! もう本当に素晴らしいパンチでした!」

「お姉さんはマジ、あたしたちの恩人です、最高! 超美人! ほんとにありがとうございましたー!」

「はい、僕もそう思います! 最初会った時、絶対芸能人だと思いました!」

「なんか少女マンガ原作のラブコメ映画で、ヒロイン役してそう!」

 露骨なヨイショであるが、仏頂面の青衣の小鼻がひくひくと動く。


「ふん……まあ、別にいいけどね?」

 嬉しさが隠しきれぬフニャフニャ口調で、スプレー缶を体の脇に下ろした。ホッと、幽霊コンビが安堵の息を吐く。


 千聡はそんな三文芝居を、なんとも冷ややかな目で眺めていた。

「お嬢さんはラブコメ映画のヒロイン役よりも、深夜枠の少々尖ったシュール系コメディドラマの、主人公の姉役がお似合いかと存じます」

 ちろり、と青衣が彼を見上げる。

「分からんでもないけど。たぶん褒めてないよね、それ?」

 ジト目の彼女へ、千聡は微笑んで頷いた。青衣は無言で、千聡の脛を蹴とばす。

 それはパンチの勢いからお察しの通りの、ヒョロヒョロキックであった。

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