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11:心理的無痛分娩法とも呼ぶそうな

 青衣は周囲を見渡しながら、千聡にひしと抱き着く。なお、未だに殺虫剤を片手に持ったままである。お気に入りのぬいぐるみのように、それも強く握りしめていた。

「ねえ、どこ、ここ? ここ、どこ? わたし、誰?」

 千聡は上ずった声を紡ぐ彼女の頭を撫でながら、もう片方の手でスマートフォンを操作する。血色に染まっていた画面は、元通りになっていた。


 ウェブブラウザを閉じ、代わりに地図アプリを起動させるが――GPSが全く機能せず、現在地は分からなかった。

「ここがどこなのかは、あいにく不明ですね。ただあなたは鹿路 青衣様で、お間違いないかと。見慣れたアホ――可憐な泣き顔でいらっしゃいますし」

「アホと言ったな、おのれ」

 庇護欲をくすぐる怯え顔から一転し、青衣の目つきは凶悪なものになった。声もドスが効いており、確かにVシネマのチンピラの趣はある。


 千聡は取って付けたような笑顔で、小首を傾けた。

「いえいえ。とっても可愛らしい泣き顔でいらっしゃいますね、So Cute でございます」

「うわっ。発音いいなぁ、しゃらくさい」

 予想外に流暢な英語だったため、青衣は憤慨混じりに目を剥いた。この男には虫以外に苦手分野がないのだろうか。


 が、突然の英語のお陰で、青衣も少しだけ冷静さを取り戻せた。千聡に抱き着いたまま、改めて辺りを見渡す。

 そこは悲しいかな、なんとなーく見覚えのある廃墟だった。先ほどまで、テレビ画面越しに見ていた気がするのだ。

「ここって、どう考えても……新居園さんのお宅だよね」

 呟く青衣に、千聡もこくりと頷き返す。

「そのようですね。ここで全く無関係の幽霊屋敷に飛ばされたとあっては、もはや打つ手がありません」

「それは……たしかにそう。うん、せめて新居園さん家であれ」


 消極的すぎる願いを口にする青衣の頭を撫でたまま、千聡は自分たちの足元を見た。食堂から強制移動させられたため、お互いスリッパ履きのままである。彼はひっそりと眉をしかめる。

「……せめて靴も、一緒に転移して下さればよかったのに。なんとも気が利かない」

 そう恨めし気に言いながら、砂埃と虫の死骸だらけの廊下をねめつけた。今度は青衣が、彼の背中を撫でてなだめる。

「まあまあ。この際、スリッパがあるだけマシと思おうよ」


 青衣は柔らかい声でそう言いながら、持っていた殺虫剤を掲げる。

「ほら、これもあるし。もし生きてる虫がいたら退治したげるから」

「お嬢さ――」

 しかめっ面を緩めた千聡だったが、すぐに顔と言わず全身を強張らせた。そして青衣を誰かから隠すように、ギュウと抱きしめる。


「ん? 千聡、どうしたの?」

「死者の匂いがします。こちらへ近づいて来ているようです」

「ひぇっ!」

 驚く青衣に、千聡の硬い声がすぐさま答えた。幽霊接近のお知らせに、青衣の体もたちまち固まる。彼女の脳裏によぎるのは、妨害者と呼んでいた血まみれの霊の姿だ。

 千聡にしがみつく腕と言わず、青衣の全身が震え出した。膝にも力が入らず、小汚い床にしゃがみ込んでしまいそうだ。


 それでも千聡の足を引っ張ってはいけない、とへっぴり腰のまま彼の背後に回り込んだ時、青衣の耳にも足音が聞こえて来た。ヒタヒタヒタ、と静かで落ち着いた歩調だ。

 しかしこの状況下において、ヒタヒタ音は余計に怖い。どうせなら陽気なタップを踏んでくれた方が、恐怖心も半減したかもしれない。

(ううん、それはそれで怖い!)

 青衣が無益なことを考えながら、千聡の大きな背中越しに足音のする方向を見る。彼女は既に半泣きだ。


 幸いにして、現れたのは妨害者なる悪霊ではなかった。セーラー服を着た、眼鏡の少女がこちらへと歩いて来ていた。

 ゲーム画面ではアニメ絵にデフォルトされていたものの、彼女にも見覚えがある。

「……もしかして、ウタコちゃん?」

 青衣がか細い声で呼びかけるのと、眼鏡の少女が二人を見つけてギョッとするのはほぼ同時だった。


 ゲーム中は冷静沈着かつ笑顔を維持していたウタコが、思い切りのけぞる。

「はぁっ!? なんで、あんたたちがここにいるのよ!」

「ひぎゃあぁぁぁぁーっ!」

 青衣の汚い高音が、ウタコの叱りつけるような声に被さった。それは、ウタコに怒られてビビったわけではない。

 彼女の腹部から、ダクダクと血が流れていることに気付いてしまったためだ。ゲーム画面では胸から上しか映っていなかったため、まさか腹から中身がまろび出ているとは思わなかった。


「ハッ、ハラワタがっ……ハ、ラワッ、ワッ、ワ……ワギャン!」

「これはいけません。お嬢さんが恐怖のあまり、バンダイナムコの三頭身怪獣になってしまう」

 言葉の割に全く慌てた様子もなく、千聡は青衣のかっ開いた目を手で覆った。


「はいお嬢さん。大丈夫ですから、落ち着いて。目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をなさって下さい」

 千聡はもう片方の腕で彼女の背中を支えながら、静かな声でそっと耳打ちする。青衣は目隠しされたまま、不器用に呼吸を繰り返した。

「ヒッ、ヒッ……フーッ」

「若干ラマーズ法のような気がしなくもないですが、とりあえず続けましょう。ついでに楽しいことでも考えて下さい」

「た、たの、しいこと……グ、グリーン・デイ……」

 青衣がふっくらした桜色の唇を震わせ、途切れ途切れに呟く。


 それは、アメリカのロックバンドの方なのか。それともイタリア人ギャングのスタンドの方なのか。そもそも彼らは楽しいことなのだろうか――しばし千聡は黙考した。

 しかし相手は青衣である。深く考えない方がいいだろう、と結論付ける。

「……まあ、そうですね。ではグリーン・デイに、意識を集中なさって下さい」

「ううう……燃えるごみは月・水・金……」

「おや、やはりチョコラータの方でしたか」


 ウタコは二人のやり取りを、腹からコンニチハしている大腸を撫でながら冷ややかに見ていた。

「あんたらって……バカップルだよね?」

「いいえ、現状は清く正しい主従関係です」

「ええぇ……嘘だぁ……」

 キリリと即答する千聡に、ウタコは思い切り疑惑の目を向けた。含みのある言い方だったので、余計に怪しいと思ったのだろう。

 千聡の視線は、ウタコの顔から大腸へと移る。


「ところで。あなたもこの事件の被害者でいらっしゃったのですね、新居園 唄子さん」

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