その邸宅は、とある高級住宅街の最北端にポツンと建てられていた。カーテンが取り外された窓は全て締め切られており、無人となって久しい。
陽の差さない薄暗い廊下を、黒い巻き毛が特徴的なスーツ姿の男性が歩いている。たれ目に泣きボクロのある、柔らかな髪も含めてどこか色気や甘さを漂わせた男性だ。
空き家のため玄関にも廊下にも何も置かれていないが、邸宅内は清潔だった。定期的に清掃が入っているのだろう。廊下の突き当りにたどり着いた男性は、そこから更に左右へ伸びる通路を見比べる。
無表情のまま高い鼻を、クンクンと動かした。そして、何かを嗅ぎ付けたらしく、わずかに目を大きくする。表情も少しだけ和らいだ。
「……こっちか」
低く呟いた彼は左に曲がり、そこから二番目のドアをノックもせずに開けた。
「お嬢さん、首尾はいかがでしょうか?」
男性は中を覗き込み、書斎らしき部屋の真ん中で腰を抜かしている女性へ声をかけた。お嬢さんと呼ばれた妙齢の女性が、真っ赤に泣きはらした切れ長の目で振り返る。髪も肌も色素が薄く、どこか儚げな印象を与える女性だ。
「ちっ、
が、泣き声はなんとも情けない。しゃくり上げるのに合わせて、途中で鼻もプピーッと鳴っている。鼻の中に吹き戻しでも装着しているのだろうか。
座り込んで泣きじゃくるお嬢さんこと
「そう易々と諦めてはいけません。ほら、もう少し頑張りましょう。幽霊と小粋なトークをする、とあんなに意気込まれていたじゃないですか。そのために『徹子の部屋』もご覧になっていたのでしょう?」
「むーりー! だって徹子さん、幽霊とトークなんてしてなかったもーん!」
やんわりと突き放された青衣が、声を張って駄々をこねた。薄茶色の長い髪が乱れるのもお構いなしだ。
「それはそうでしょう。もしもトークをされていたら、BPOの審査入りは確定です。そもそも徹子さんは、魔女っぽいですけれど霊能者ではありませんから」
青衣は呆れ顔の千聡をじっとりと見上げ、両腕を伸ばした。
「……千聡、抱っこ。歩けない、わたし。腰、抜けた」
千聡が虚無の表情で、一つため息をつく。
「お嬢さん、あなたは一体おいくつですか」
「めでたく二十歳になりましたが、今の精神年齢は五歳ですぅー! いいから抱っこしてくれや!」
千聡は開き直る彼女に呆れた視線を向けつつも、素直に歩み寄った。そして腰を落とし、青衣のペンシルスカートが捲り上がらないよう気をつけつつ、横抱きにして再度立ち上がる。次いで、書斎の壁際で所在なさげに立つ、薄らぼんやりとした人影を見た。
「こうしてお邪魔したにもかかわらず、お話もままならなかったようで大変申し訳ありませんでした」
ぼやけた人影――この邸宅に住み着く地縛霊へそう謝ると、彼は慌てたように半透明の首を振った。
「いえ! 僕の方こそなんか、その、すみません……お嬢さんを怖がらせてしまって……やっぱり目玉が取れかけてるのが、あの、よくなかったんですかね?」
落ち込みうなだれる彼の右目は、デロンと眼窩から垂れ下がっていた。それに後頭部からも血が滴っている。
幽霊は基本的に、死亡時の姿のまま出現する。
強盗に後頭部をぶん殴られて死んだここの家主も、その無慈悲な法則から漏れずに、目玉の親父の生成途中のような有様となっているのだ。
ただビジュアルは多少気味が悪いものの、彼は話の分かる心優しい霊だった。そのため駆け出し霊能者の特訓相手として、このように駆り出されることもしばしばあるのだ。
千聡はそんなフレンドリー地縛霊の声も聞きたくないとばかりに、自分へしがみつく青衣をちらりと見た。
「安心してください。たとえ目玉が揃っていても、お嬢さんはおそらく絶叫なさっているでしょう。それに私どもは、あなたの姿も見慣れておりますので。どうかお気になさらず」
「ありがとうございます……あの、お嬢さん」
ぺこりと頭を下げ、地縛霊は恐る恐る青衣へ声をかけた。彼女の背中がビクつく。
「……はい」
ややあって。地縛霊よりも死者じみた弱々しい声で、どうにか青衣が応じた。返事をしてくれたことに、地縛霊がほっと笑う。
「修行、頑張ってくださいね。僕でよければいつでも、練習相手になりますから」
「……っす」
おそらく青衣は「ありがとうございます」と言ったつもりなのだろうが。もはや声帯が瀕死過ぎて、語尾しか残らなかった。
千聡は白け顔で、カッスカスの声帯の持ち主に視線を落とす。
「『っす』とは何ですか。あなたは柔道部員ですか」
「……違うっす、押忍」
「どうしてちょっと気に入っているんですか」
千聡は呆れ顔で彼女を抱え直し、地縛霊へ挨拶をしてから部屋を出た。そして長い廊下を引き返して、片腕で器用にドアを開けて邸宅も後にした。
邸宅の門の前には、数人の大人が立っていた。仕立てのいいスーツを着た壮年の男女と、彼らを守るように周囲を囲む屈強な男性たちだ。
真ん中の男女がまず、玄関から出て来る千聡たちに気付いた。次いで彼が青衣を抱っこしていることにも気付き、どちらも露骨に肩を落とす。
ようやく千聡の胸板から顔を離した青衣も、二人のガッカリ顔に気付いた。平素であれば涼しげに見える小顔を歪める。
「パパ、ママ、ごめん……」
先ほどよりかは若干息を吹き返した声に、残念オーラを漂わせていた彼女の両親もぎこちなく笑った。
「……まあ、うん、そうだね……ほら、最初は青衣も、一人で中に入って行けなかったからね……今日は入れた、わけだし……まあ、少しずつでも進歩出来てるとも、うん……」
モニョモニョと父がフォローを入れるものの、その程度の進歩で全く満足してなさそうな声と笑顔である。
そしてフォローされた当人もまた、今回の結果に満足出来ていなかったので、また涙ぐんだ。
「腰抜けちゃっ、てぇっ、ごめんっ、ううぅ……誠にすいませぇぇぇん!」
「ジョイマンのような詫び口上になっておりますよ、お嬢さん」
彼女を抱える千聡だけが、場違い過ぎるフリーダム所感を述べた。青衣の父母を囲む護衛たちが「そういうことは、今言わなくていいから」と、ちょっとだけ怖い顔になっている。
ジョイマンの高木――もとい青衣は、先祖代々除霊師として活躍する
本人の霊力も非常に高く、彼女が生まれた時には親戚一同大喜びしたものだ。
が、それも数年の喜びであった。
幼稚園に上がる頃には、彼女がずば抜けて怖がりだということも発覚したのだ。
当時はトイレはおろか、「皮のブツブツが怖い」と鶏肉が食べられないレベルであったという。