その種族はたんに『魔王』と呼ばれていて、いち世代に一人しか生まれなかった。
あらゆる魔族はその人物を王としていただくことになっていたけれど、魔族というのは基本的に『力こそすべて』の野蛮な連中で、魔王はその力を味方に示したことがなかった。
何せ書類仕事ができるやつが一人もいないのだ。すべての事務作業が集まってきて圧殺されそうになっている魔王が前線に立つ機会はなく、そして魔王自身、前線に立ちたいとは思っていなかった。
傷つくのも傷つけられるのも怖いのだ。
そういうのが表情や動作ににじむせいだろう。魔族たちは彼を『魔王様』とは呼んだけれど、そこには敬意も畏怖もありはしない。
それを魔王はまったく気にしていないことがさらに『魔王軽視』に拍車をかけた。さらにさらに、魔王の打ち立てた方針もまた、彼を馬鹿にさせるには充分だった。
『戦争を終わらせよう。人類と共存共栄を目指そう』だなんて。
若気の至りだ。今ならもっと角の立たない言い回しもできる。けれど戴冠式の時に大勢の前でしてしまった
そんなこんなで魔王は共存共栄のために法整備をし、交渉を重ね、ようやく人類との和平寸前まで漕ぎ着けた。
魔族への根回しも終わって、あとは議会で各種族の代表に賛成をもらうだけだったのだが……
「一対九十九により、人類との和平は不成立となりました。……あなたの提唱した『議会制』による否決です。文句はありませんな? 魔王様」
……ああ、陰謀と悪辣さでは、年長者たちにはかなわない。
『みんなもなんだかんだ言いつつ心の底では平和を望んでいたんだ』なんて、どうして甘い夢を見てしまったのか。
ともあれ、否決は否決。
今度の三者会談には、戦争を続ける旨を持っていかなければならない。
「…………はあ」
とてつもない、憂鬱。
◆
聖女というのは人々の希望であり、戦う力のない者たちを救済する神の遣いとされている。
希望の光を額に宿して生まれたその少女は神殿で『聖女』としての教育をつけられて生きてきて、そうしてそのまま死んでいく。
聖女というのは人々の前で微笑んで、手を振って、癒して、そうして迷いや不安を受け止める存在だ。
姿を現さない神に代わって人類を守護する者。だからこそ、幼いころの聖女はとてもとても優しく育てられてきた。
「聖女さま、今日もおかわいらしいですね」「聖女さま、どうぞ人々をお救いください」「聖女さま、お菓子を持ってまいりました」「聖女さま、あなたのお示しになった奇跡に人々も感謝しております」
だから聖女は自分の素晴らしい役割を一生懸命にこなした。
誓ってさぼったことはない。努力をやめたことはない。
癒しの力を磨きに磨き、慰問弔問は常に欠かさず、寝る間も惜しんで戦地に向かい、血反吐を吐きながら癒しの秘術をかけ続けた。
人々は聖女に感謝し、涙を流してその少女を称えた。
ところが、魔族の攻勢が強まり、人類側はだんだんと劣勢に立たされ始めた。
そうなるとあちらこちらで聖女の手が必要になる。
ところが聖女は一人しかいない。どこもかしこも求める。でも、東と北に同時には存在できない。
取りこぼす人が出始めた。
最初は『しょうがないですよ』という慰めの言葉もあった。でも、取りこぼして助けられない人が増えていくごとに、そんな優しい言葉はだんだんと消えていってしまった。
「あいつはなぜ来ない! あいつさえ来れば父は助かった!」「俺たちの納めた金でぬくぬくと暮らしているはずなのに役立たずめ!」「命に優先順位をつけるのか!」「聖女なんだろう! 特別な力を持って生まれたんだから責任を果たせ!」
その結果として回ってきたのが、『和平』を望む魔王との会談の代表者だった。
誰も魔族の王が本心で和平を望んでいるだなんて思っていない。きっと人類をはめるための罠に違いないと見られている。
だから聖女が捧げられた。
いざとなれば聖女ごと見捨てて魔王に奇襲をかけるのだ。
囮役。それこそが聖女が最後にこなすべき尊い役割だと、そう言われた。なぜか、人々は聖女を恨んでいた。本当に理解が及ばない。
彼女は、疲れてしまった。
「……もう、いいのかな」
でも、ちょっとだけ安心していた。
好きでもない人たちのために寝ずにがんばり続ける日々が、これで終わるのだと思うと、気分はなんとなく晴れやかでさえあった。
◆
あまりにも人類が追い詰められたことによって、ついに女神が地上に降り立った。
神殿はその降臨にたいそう喜び、女神にどうにかして魔族を殲滅してくれないかと願った。
ところが女神は、地上の様子をずっと見ていたために、その提案には従えなかった。
なぜか?
「お前たち人類は何をしているのだ? 一丸となって敵にあたれば勝利はできたはず。それを、人同士で醜い争いばかりして、結果として、現状があるのだ。主神さまは大変お嘆きである。相手がいない時に人同士で争うのは、まあ、見逃そう。そこまで我々は人に期待していない。しかし、明確な『敵』が出てなお、足の引っ張り合い……特に神殿上層部はひどいものだ。神はあまねくすべてを見ていたのだぞ。お前たちの行いは醜すぎて、見るにたえぬ。私がここに降臨したのは、主神さまがこの世界を、というよりも、お前たち人類をこれ以上は庇護しないと決定したからだ。それでも私は━━」
なおも言い募ろうとした女神の言葉は、降臨の場にいた神官の金切り声にかき消された。
女神は捕らえられ、魔王との会談に送られることになる。
それはほとんど意味のない誰かの思いつきであり、正論を言われて怒ったえらい人からの意趣返しだった。
もう、神殿は神に仕える組織ではない。
降臨した神よりも、現世での権力のほうが大事だった。
この女神はメッセンジャーの役割をもった分霊だったから、見た目通り子供ぐらいの力しかなく、あっさり捕まった。
三者会談の場に向かう馬車の中で、見せ物の動物みたいに小さな檻に入れられた彼女は、嘆いた。
「愚かな」
『それでも私は、見捨てない』と言いたかった。
最後まで争う意思ある者を募って、きっとともに魔族をうち倒そうと呼びかけようと思った。
けれど、言葉の順番か、言い方を間違えた。
女神は幼く、そして正義感があった。もともと決闘と正義の女神なのだ。分霊になってもそのまっすぐな━━まっすぐすぎて、腐敗した人々にとって耳の痛い性格は、変わらない。
だから女神は、人類が最後の救いの手を自ら振り払ったと感じた。
失望と徒労感から出たため息は、ガタゴトと馬車が揺られる音に消されて、誰の耳にも届かない。
◆
広い広い砂しかない場所で、聖女と魔王と女神は顔を合わせた。
彼らの周囲には人類と魔族の軍勢が大規模に展開していて、この会談のすぐあと、いや、途中からでもきっと、交戦を始めるであろう雰囲気があった。
びょうびょうと吹く風があたりの音をかき消して、中央で急拵えのテーブルを挟み見つめ合う三者は、世界全体から隔絶しているようだった。
三者三様に疲れ果てた顔をした者たちは、互いの表情に自分と近しいものを感じ取って、笑う。
魔王が投げやりに切り出した。
「我らは合議により、和平を否決した。戦争は続く。きっと、どちらかが滅ぶまで」
聖女は疲労と晴れやかさが同居する笑みを浮かべて、うなずいた。
「滅ぶのはおそらく、人類なのでしょうね」
女神は机の上にあごを乗せるようにして、何も乗っていないその場所を見ていた。
そこには和平を結ぶための書類が乗るはずだった。
「正義は失われた。人を滅ぼすのは、人自身の愚かさである」
魔王と聖女はおどろいたように、その小さく美しい少女を見た。
そして、魔王がふと思いついたように、述べた。
「ねぇ、逃げちゃわない?」
極限の徒労感が彼の口をついて出たのだ。
聖女は「まあ」とおどろいたあと、微笑む。
「素晴らしい思いつきだと思います」
女神はこれまで超然とした無表情だった顔に、にんまりとした子供っぽい笑顔を浮かべた。
「それも、よかろう」
三人は互いを見て笑い、そして━━
その場から、あとかたもなく消え失せる。
あとには会談中の三者が唐突に消えたことに戸惑う大軍勢だけが残された。
◆
両陣営の代表と言える三者が唐突に消え去ったことで、人と魔の最終決戦となるであろう戦いは回避された。
和平決裂の瞬間に魔王の号令で飛び出すはずだった魔族軍は機を逃し、逆に魔王を脅威視し『こいつだけはなんとしても聖女に抑えさせて殺す』と息巻いていた人の軍もまた、『隠れ潜んだ魔王』への警戒のために手を出せなかった。
「貴様ら、魔王様に何をした!?」
魔族の軍から言葉が飛ぶ。
「貴様らこそ、聖女と女神様をどこへ隠した!」
人の軍からも叫び声が飛ぶ。
そのあと始まったのは聞くに堪えないののしりあいだった。お互いに根拠のない差別発言を繰り返し、よく知りもしない相手を偏見だけで悪者と決めつけて罵詈雑言を吐く。
言い回しをいかにも高尚そうに取り繕ってはいるものの、それはほとんどの中身のない、子供の口喧嘩にも劣るものであった。
そのまま言い争いはヒートアップし、確かに険悪な空気が流れ、武器ががちゃがちゃと鳴り、互いに互いを殺意を込めてにらみあったが……
戦いは、起こらなかった。
「ふん! 弱々しい人間どもめが! そこまで言うならば、口だけではないことを証明してみせよ!」
「そちらこそ吠え声ばかりの魔族めが! 神の加護をおそれぬならばかかってこい!」
……魔族は魔王を軽視していた。
人族は聖女を差し出し、女神を捨てた。
そうして、いざそれらの存在がすっかり消え去ってしまうと、彼らの胸中に言いようのない不安がよぎったのだ。
しかも……
(女神の権能がいかようなものかもわからん。魔王様はどこへ連れ去られた? それは誰の仕業なのだ?)
(魔王が聖女と女神を遠くに連れ去り、自分はこのあたりにひそんでいるかもしれない)
互いに、目の前で自分たちの代表者が消えたのは、『敵方の罠』だと思っていた。
……こうして一昼夜のののしり合いののち、互いの軍勢は、相手の臆病さをさんざん馬鹿にするようなことを言いながら軍を退くことになった。
自領に戻っても、魔王も、女神も聖女もいない。
三人は今…………
◆
……『霊峰』と呼ぶしかない、大陸中央からはるか北の山があった。
そこの周囲はすさまじい雪が降り積もる極寒にして峻険な山々なのだけれど、その一帯だけは暖かく、花々さえも咲き誇っていた。
「これなるは、勇敢なる士のために用意された館だ」
女神の案内によって招かれた魔王と聖女は、その『館』を見る。
神の用意した建物なのだからどれほど豪壮なものなのかと思いきや、そこはなんの変哲もない、一つの家族が暮らすだけでいっぱいというような家だ。
ただし不思議な力は働いているようで、ほのかに光り、古いもの特有の『歴史の重厚さ』は感じられるのに、見た目はまるで新築、木製のようでいてツヤツヤした壁面は大理石のようでもある、なんとも不可思議なものだった。
確かに『神なるもの』ではありそうだけれど……
「なんというか、勇敢なる士のために用意されたというには……」
魔王は言い淀む。
「狭そうですね」
聖女がにっこりとして言う。
神を相手にしてあんまりな物言いなので魔王は慌てて聖女を見るけれど、聖女はにこにこしたまま、『何か問題でも?』と言いたげに首をかしげるだけだった。
女神はその建物の扉の前で振り返り、二人を見る。
七色に輝く不思議な瞳が、眠たげに二人を見上げ、問いかけた。
「━━さて、ここからどうしよう」
「は?」
魔王が思わず呆気にとられると、聖女が「うーん」と悩ましげに唸る。
「その場のノリで全部捨てちゃいましたからねぇ。どうしましょう」
「……君たち、ずいぶん、なんていうか、イメージと違うね」
「あら? 魔王様だって、もっと苛烈で恐ろしいお方だとばかり。こんなくたびれた中間管理職のような人だなんて、想像もしていませんでしたわ」
「聖女、君、あんがい口が悪いね!?」
「『聖女』のわたくしをお望みですか?」
その瞬間に聖女の美しい面相によぎったのは、濃い疲れだった。
魔王はため息をつき、「いや」と首を振る。
「そういうのは、僕もこりごりだ。……僕はね、たぶん、魔王というものに向いていない。そういうものに生まれついたから仕方なくやってきたけど、本当は、こういう場所で、作物でも育てながら生きていく方が、よほど向いていると思っているよ」
「わたくしも、生まれついて聖女だったのでそれ以外に道はないと思っておりましたが……助けたい人と、助けたくない人は、います。人間なので」
「我が体は、人類最後の決戦のために遣わされた分霊なれど……人類は我が手を振り払った。ならばあとは、好きにするがよかろう」
「つまり僕たちは、三人とも、肩書きに向いてないってわけか」
魔王が笑うと、二人も力が抜けたように笑った。
「しばらく、何も考えずに、ただ暮らしてみませんか?」
つられて浮かべた笑顔がひかないまま、聖女はそう提案した。
女神は「よかろう」と言い、魔王もうなずくことで同意する。
「では、これからわたくしたちは、家族ということで」
「……どうしてそう飛躍するのかな?」
「だって、きっと、これは、家族というカタチでしょう? 同じところで何の目的もなく、ただ生きていくだけの他人なんて、悲しいですよ。であれば、家族の方がいい。その方がきっと、楽しい気がします」
言われてみればそうかもしれないと思える発言だった。
けれど、魔王は『家族』をよく知らない。
思い描こうとしても、『それ』はなんだかとてもおぼろげで、うまく像を結んでくれないのだ。
聖女もどうやら、わかっていないで言っている様子だった。
女神は……考えるまでもないだろう。彼女はきっと、人間だの、魔族だのの『家族』なんていうものを知らない。たとえ知識で知っていても、体験したことはないはずだ。
だから魔王は笑みを深めた。
「いいね。やってみよう」
「では、あなたは『お父さん』で」
「ええ? 僕はそんな年齢じゃあないけどなあ。これでも魔族の中ではだいぶ若いよ。君ぐらいの娘はさすがにもてあます」
「では、わたくしが『お母さん』をやります。見た目は、似たようなものですから」
「私はいかにする?」
二人の視線がずっと下に降りて、自分たちの腰ぐらいの高さにある女神の頭にそそがれた。
虹色の瞳を持つ少女は無表情だったが、その銀に輝く長すぎる髪をきらめかせて、二人の言葉をじっと待っている様子だった。
「「『娘』」」
魔王と聖女の声が重なる。
そして、笑い声に変わった。
女神は「む」と声を上げる。
「私は神であるぞ。神と言えば、母であろう」
「いやあ、そう言われても。ねぇ、お母さん」
「そうですねぇ、お父さん」
「「娘で」」
二人の声がまた重なって、また笑い声に変化する。
女神は「むう」と今度は不満を声ににじませたけれど……
「わかった。娘役をやろう」
二人が引き下がらないと理解したのか、それとも神なりの論理があったのか、不承不承という様子で承諾した。
のどけき霊峰の一角、勇士の館にて、『家族』の暮らしはこうして始まる。
誰一人として『家族』を知らないまま、種族さえも違う三人で始めた、あまりにも穴だらけの、幸せな暮らし。
◆
「魔王様はまだ見つからんのかァッ!?」
魔族四公とは『不死公』『悪魔公』『異形公』『精霊公』を指す。
その中で魔王軍の次席、すなわち実質的な支配者と呼べる存在は『不死公』であろう。
真っ白い肌に真っ赤な瞳の夜の支配者、すなわちヴァンパイア。
すべての不死者たちの王にして魔王軍全体を動かす元帥。それこそが不死公と呼ばれる美しき壮年の男性であった。
平時は穏やかで底知れぬ雰囲気を宿したこの男は今、『魔王の不在』という事態を前に醜く騒ぎ散らし、配下どもに当たり散らすほど我を失うありさまだった。
魔王が、恐ろしいから。
戦闘能力を恐れている?
否である。今代の魔王が戦っている姿など誰も見たことがない。いや、幼いころには腕試しを披露する機会もあったが、王の力を見るため用意された、大人しい低位の魔物にさえおびえてしまって手出しできないありさまだった。
それは平和な時代の人間が見れば『優しさ』と評価される在り方だったかもしれない。しかしこの時代の魔族にとっては『臆病』『惰弱』以外の何者でもなく、それゆえに魔王は『戦う力なし』と言われていた。
では、その知謀を恐れている?
それもまた否だった。そもそも魔王が知謀を発揮したことなどない。
かの存在は魔族を統べる王に産まれていながら、戦略、戦術において敵軍を陥れたことは一度もないのだ。
かの者がやっていたことは兵站の管理だとか武装の管理だとか、低位魔族の損耗計上だとか、あるいは人間との交渉、手紙のやりとりなどという臆病なまねさえしていた。
それで魔族側に死者が減ったことはすべての魔族が認識しているけれど、そもそも死を恐れ回避しようとするなどという有様はあまりにも情けないため、そんなものを恐れる魔族は『魔族』と見なされない。
その魔王の采配によって死を逃れた魔族からさえ『臆病者』と呼ばれるかの存在の知謀など、どこに恐るべき要素があろうか?
ゆえに、不死公が恐れているのは、ただ一つ。
「あの魔王は、【王権】をまだ二つ残しているのだぞ……!」
魔王がなぜ産まれた時から魔王なのかといえば、それは両の瞳に【王権】を宿しているからだ。
使い切りの絶対命令権。すべての魔族が強制的に従ってしまう『魔族のはじまりから存在する、すべての魔族の魂に刻まれた契約』。
あの王が『王権を以て命ずる』と述べるだけで、瞳の一つにつき一度きりだが、あらゆる魔族がその命令に従うのだ。
……失敗した。
あの魔王が情けない臆病者だとわかった時点で殺しておくべきだったのだ。不死公たる自分こそが魔族の王として立つべきだったのだ。
しかし情けない魔王だからこそ四公はみな『王権』を自分のために使わせようと懐柔を試みた。
そうして懐柔を試みるうちにあの王は成長してしまった。
力も知謀も恐るるに足らず。しかし、魔王の基礎性能は四公であろうが侮り難い。一瞬で殺すことは難しい。
そして一瞬あれば【王権】の発動が叶う。……暗殺者を差し向けようともその背後に何がいるのかを察して、『背後』もろとも死を命じられるかもしれない。そのぐらいの知能は身につけてしまったはずだ。
魔族の中で上り詰めた地位にある四公は、失敗を恐れて誰も魔王に手出しできなくなっていた。
そもそも、ほとんど傀儡なのだし、【王権】を使う気配もないから、手出しをする理由がなかった。他のことで忙しかった……
さまざまな言い訳が浮かぶけれど、こうして消息を絶たれてしまえば、いつどこで気まぐれに【王権】を行使されるか不安でたまらない……!
「やはり殺しておくべきだった……!」
魔族四公筆頭『不死公』は、己の侮りを後悔していた。
◆
「うわ、すごい。本当に植えたとたんに芽が出るんだ」
霊峰には小さな畑が用意されていた。
短い畝が四つあるだけのそこは、年貢を納めた上で食っていかねばならないとするとあまりにも頼りない広さだけれど、『家族』三人がつつましやかに生活するだけならば充分な広さがあった。
まして神の恩寵を受けている土である。撒いた種はすぐさま芽吹き、病害はなく、味も大きさも素晴らしいものが実るとされていた。
ここは『勇士の館』。ここに招かれるのは特別な存在であり、そのような存在を飢えさせ、苦労させるようなことはありえてはならない神の庭。
ただしここには期限があるらしい。何せ神はこの世界をすでに見捨てた。この庭が恩寵を受けていられるのも、神の力の残滓が尽きるその時までだ。結界がないあたりも、神が『そっぽを向いた』影響らしい。
まあしかし、と魔王は思う。
「そもそも僕らに食糧なんていらないんだけどね」
魔王は『機能』だった。
魔族というものの方向性を定めるべしと存在する『はじまりの契約』の擬人化。二つの瞳に一つずつ【王権】を宿す生き物。
……ああ、本当の本当に平和を望むなら、魔族を相手に『戦うな』と【王権】を以て命じればよかったんだ。
それをしなかったのは……
「痛いのは、嫌だしなあ」
【王権】はその黄金の瞳に一つずつ宿る機能であり、一回使い切りだ。
一度命じれば片目が、二度命じたならもう片方の目が潰れる。
目が潰れるだなんて恐ろしいじゃあないか。どれほど痛いのか想像もつかない。
魔王は痛いのも苦しいのも嫌いだった。まして片目を失って二度と光が戻らないなどと、想像するだけで立ちくらみがする。
……それに、ただ『戦うな』と命じたところで、戦いが終わらないのは充分に理解していた。
戦いには常に『相手』がいる。
魔王が魔族に戦いを禁じたところで、そこから始まるのはただの蹂躙だ。戦う力を持ったままの人による、戦う力を失った魔族の蹂躙。共存共栄にはならない。
けっきょくのところ、平和は信頼がなくては成り立たないのだ。
心の底から根拠を必要とせず相手を信じることができれば理想。打算と利益に基づいた信頼を相互に獲得できれば最上といったところ。
まあ、聖女と女神の口ぶりだと、そもそも『和平』自体が砂で建てた塔のようなものだったらしいけれど。
魔王はもちろん魔族の滅びも望んでいない。
彼らがいいヤツだとは思わないけれど、自分が王として治めることになってしまった種族なのだ。その絶滅を願うほど薄情ではない。
……いや、むしろ。
薄情だからこそ、絶滅までは望まない。
けっきょく、痛みも苦しみも、価値がある相手のためにしか捧げられないのだ。
魔族のために痛いのも、魔族のために苦しいのも、ましてや片目を失ったり、命を失ったりするのも、イヤだった。
殺したいほど憎くない。あたりたいほど怒れない。滅びられるのも面倒くさい。なんていうか、恨みとか怒りとかを向けられるのが、げんなりする。そもそも、命をそんな気軽に奪っていいとも思えないし。
ようするに。
「……ああ、僕は、自分の臣下たる者たちのことなんか、どうでもよかったのか」
畝に種を埋めながら笑ってしまう。
思い返してみても『惜しい誰か』の顔を思い浮かべることができない。
たった一人で発生する『魔王』という種族には、命懸けで守りたい相手も、殺してやりたいほど憎い相手もいなかった。ただそれだけの話。
白い手を黒土まみれにしながら畑を世話していく。
最初に埋めた種は魔王がすべての畝に等間隔に種を埋め終えるころには芽吹いており、女神の話では二日か三日で立派な実をつけるらしい。
「お父さん、ご飯ですよ」
聖女の声がして、長身の青年はしゃがみこんでいた体勢から立ち上がり、腰をとんとん叩いてから「うー」と伸びをした。
見上げた空は、この場所の上空だけ清々しい青空が広がり、あたたかな陽光が差し込んでいる。
深い深い雪の山、分厚い分厚い灰色の雲の中にぽっかり空いた円。ここだけ別な世界のような錯覚を覚えてしまう。
けれどここは、『この世界』の一部なのだ。
神が見捨てた世界は閉じてしまった。
タイムリミットつきの楽園で、家族を知らない三人は、家族ごっこに興じ続ける。
誰も正解を知らない遊びは、世界の片隅でひっそりと続いていた。
◆
小競り合いは続く。
大規模な戦いこそ恐れたように控えられたけれど、魔族と人間とがその悪感情から発展した戦いに興じることはよく起こった。
昼に布陣してののしりあって戦って、日が暮れるとどちらからともなく撤退して、『こちらが勝った。相手は臆病にも逃げ帰った!』と大騒ぎ。
一度たりとも『敗戦』はなくなっていた。お互いにだ。両方とも決定的な敗北がないから勝利だと騒いで、しかし得るものもないから祝勝会を積み重ねていく。
酒と食べ物が毎日のように豪勢に振る舞われて、けれど世界にはそこまでの余裕がない。
軍人や軍人を名乗るだけの乱暴者は『徴発』という理由で村々から食べ物や家畜、それに女子供までを連れ去って行き、味方による味方への被害がだんだんと無視できなくなってきた。
けれどそれは分厚く高い城壁に守られた都で暮らす人たちにとってはどうでもいいことだった。
本当はどうでもいいはずがない。家畜や畑がそうやって場当たり的に荒らされて、管理すべき人が消えていき、民衆の不満が高まっている。後にどのようなことを引き起こすのか予想できないほど能力の低い者は、都の首脳たちの中にはいなかった。
ただしそれは『きちんと向き合う気があれば』の話。
首脳にとって恐ろしいのは、戦う力もない民衆の不満ではなかった。
彼らが頭を悩ますのは、『もっと決定的な勝利を!』と大きな戦いを望む軍人たちへの対応だった。
「聖女はどこへ消えたのだ」
白亜の王城で毎日行われている会議は、けっきょくのところ、毎日そういう話題に行きつく。
怪我人が前線復帰できない。
死傷者が増えている。大きな戦いがないにもかかわらずだ!
「愚かな軍部め……! なぜああも我慢が利かない!? 今は大戦に備えて力を溜め込む時だというのに、くだらない小競り合いで兵を離脱させ! 毎日の宴会で兵站を失い! しかも死傷者に報償を払えだと!? ふざけているのか! 勝手に戦って勝手に死んでいるくせに!」
首脳が命じた戦いは、聖女と女神が消えてから、一度たりともなかった。
だからこそ軍人たちは焦れて勝手に戦っていると、そう思われていた。
けれどこういった小競り合いは実のところ、前々から常に起こっていたし、その頻度も変わっていない。
正義の名のもとに異種族への暴力が許された環境で、我慢などしてはいられない。
特に、相手が『異種族』──『滅ぼしてもいい敵』の場合は。
だって、みんな誰でも、『悪』を探しているものなのだから。
いくら殴っても、いくら叩いても、いくら──殺しても。誰も何も言わない。それどころか褒めてもらえる。そのうえ、気持ちがよくって、後々になって『俺は、あんなにも悪いやつらを、こんなにもいっぱい殺したんだぞ』なんて自慢できる、『武勇伝』は、誰もが求めてやまないものだ。
そこに残酷な真実があるかどうかなんて、考えないし、どうでもいい。
むしろ、残酷な真実なんてものを考えさせようとするやつは、自分たち『正義』に歯向かう『悪いやつ』だ。だから、『悪』への加害なんか好き放題にしてもいいし、止められるいわれがあるわけがない。そう思っている人々が、我慢するわけがなかった。
では今までなぜ問題にならなかったかと言えば、それは聖女のお陰だった。
聖女の癒しの力は、死んでさえいなければあらゆる者を快復させる。
そうして癒された人々は何事もなかったかのように軍務に復帰していた。
軍の現場司令官は『小競り合いで傷つきました』などと馬鹿正直に首脳へ報告しなかった。
だってそれは命令無視で、そんな報告をすれば自分の立場がおびやかされるかもしれないじゃないか。なぜ兵卒どもが勝手にしたことで自分がおしかりを受け、悪くすれば出世への道を閉ざされないといけないのかわからない。
それに軍人は一人の怪我人も死人もないのだ。兵数は変わらない。ならば報告の義務だってないはずだ━━
兵卒には兵卒の論理もあった。
目の前には魔族軍がいて、連中はこちらを『惰弱』だとか『臆病』だとかののしってくる。
こういう舐めたことを言う相手には多少手を出してもいいだろう。なぁに、今までだって手出しして無事に済んでいた。魔族どもの兵数は減っているのにだ! ということは、連中は弱い。どれ、いっちょナマイキな連中に立場をわからせてやりますか!
……しかし、魔族は弱くない。
数こそ人が上回っているけれど、一体一体が人より強い。
それでも今まで無事だったのだから大丈夫だろうと思った。
大丈夫じゃなかった。
聖女が替えの利かない人材なのだとわからされながら、死んでいく。
その時に彼らは決まって『聖女さえいれば』と思うのだけれど……
それは謝罪でも後悔でもない。
『聖女のやつめ、どうしていない! てめぇがいれば、俺たちは無事にすんだのに!』
『聖女に選ばれたんだから、その責任を果たせ!』
『くそ、お前のせいで俺たちは、死んでいくんだ』
最初から自分たちを救わなかった者と、途中まで自分たちを救っていた者。追い詰められた人がそのどちらを恨むかといえば、『途中まで自分を救っていた者』なのだった。
怨嗟の声は幾重にも広がり、聖女をさっさと連れて来いという叫びになって、『聖女を連れ戻すこともできない無能な連中』として国家の首脳たちへの訴えになった。
兵士たちの剣や槍は、いつのまにかそのきっさきを敵の方から味方の方へと変えている。
その殺意と怨嗟は国中、大陸中にうずまいているけれど……
◆
霊峰にある勇士の館には、今日も静謐があった。
鳥のさえずる声ぐらいはする。たまに吹き抜ける柔らかい風の音はある。
火をくべたたきぎが燃えて、たまにバチっと弾ける。かまどの上の鍋がぐつぐつと音を立てている。
まな板の上に置かれた食材に包丁を押し付ければ、ことん、と刃がまな板を叩いた。
『お父さんは畑のお世話。お母さんは家のお世話』
たぶん国の人が聞けば『今はそういう時代じゃあないよ』と言われるだろう。お父さんもお母さんも畑の世話をするし、お父さんは兵士になる。そのうち戻ってこなくなって、お母さんが全部やるようになる。そういう時代。
けれど聖女は物語の中でしか家族を知らない。
すべては生まれつき額にある桃色の石のせいだった。
聖女として生まれた彼女はすぐに両親から引き離されて、神殿の中で隔離されて育てられた。
友達はたくさんいた。
神殿で自分を世話してくれた恩人たち。
神殿でともに育った高位神官の娘たち。
彼女たちは友人だった。間違いなく心を許したことがある。
でも。
『どうしてアンタがいるのにお兄ちゃんは死ななきゃいけなかったの!?』
『私の息子を助けてください、聖女様……! どうか、どうか!』
『人一人助けられなくって何が聖女よ!』
『なぜ行ってくださらないのです!?』
『『なんのために、ここまであなたと親しくしてきたと思っているのですか!』』
聖女は一人しかいなくて、戦場はいくつもあった。
聖女は無限の生命力と瞬間的な移動力がある謎の存在ではなく、人間でしかなかった。
戦争が激化するにつれ手が回らなくなることが増えた。応えてあげたかった。でも、不可能はある。
知っていても救えない。知らないものは当然救えない。
だというのに、助からなかった者たちの近縁者たちは、みんなみんな聖女の怠慢が原因なのだと怒る。
……そうでもないとやりきれないのはわかりつつ。
『やりきれないから』で悪し様に言われるのは納得がいかない。
それに比べて、お父さんと娘はといえば……
『お母さん、大丈夫かい? なんだか包丁の扱いがおぼついていないけれど』
料理を担当すると言った時に、腕前を見てもらった。
そうしたら、そんなふうに言われてしまったのを思い出して、聖女は思わず、笑う。
できます、と意地になって言えば、彼はおろおろしながら背後で見守ってくれた。女神はどこかあきらめた表情でぼんやりしていた。
そうして出来上がった料理の感想は━━
『……僕はほら、たいていの毒は効かないから』
『神には限度がある。この分霊はさほど丈夫ではないのだ』
『まあ、そのうち慣れればいいんじゃないかな』
『死にはしないので止めぬ』
すごい、なんにも期待されていない。
だから聖女は今日も料理を続ける。
彼女が知っている『家族』は、お母さんが料理をするものだから。
でも、それ以上に、もう、これが『自分のしたいこと』だから。
失敗まみれで期待されなくて、それどころかフォローされて慰められる。
完璧を求められない、普通の人生。
たぶんこれが、『聖女』のままでは得られなかったものなのだと、彼女はとっくに確信している。
◆
不安はどうにか誤魔化さないといけない。
不満はどこかへ向けなければならない。
たとえば魔族四公は考えた。
あの魔王が姿を消して、どうするか?
すでに結構な時間が経っている。だからもう、何もしないのかもしれない。あるいはあの時に、女神か、もしくは聖女の力で死んだのかもしれない。
それでも死体を確認するまで魔族は不安でたまらなかった。【王権】は命令たった一つで魔族が積み上げたものすべてを壊すこともできる力だ。
それまでの苦心も苦労も、喜びも怒りも、すべてたった一言で『おじゃん』。
積み上げたものを崩されるのは、許せることではない。
自分が誰よりも努力しているのは自分が一番知っている。その自分の尊い努力を無にしてしまうような相手がどこかに潜伏しているのなんて、落ち着いていられるわけがない。
ならば、探さねばならない。
人の相手などしている場合ではない。探さねば。なんとしても魔王を探さねば。その死体を見つけねば。生きていれば殺さねば。
最初からそうすればよかったという後悔ばかりが募る。
こうして魔族は魔王殺害を至上目標においた。
一方で人の首脳は考えた。
自分たちがこんなに毎日を不安で忙しくしているのはなぜか。兵士や民から不満が上がるのはなぜか。
すべて聖女のせいだ。
聖女が消えなければこうはならなかった。たとえばはっきりと死んでいてくれれば、もういない聖女を探せなどと言われることはなかったはずだ。
噴出し続ける愚民からの不満が、足元をぐらぐらと揺らし続ける。
誰かが生贄となってその荒ぶる不満を鎮めなければ、連中はきっと権力の座に就く尊い自分たちに不遜な恨みをぶつけようとするだろう。
なんてひどい、理性のない、理解力のない連中なのか!
どれほど自分たちが民に尽くしてきたかをまったく理解していない。今の暮らしが誰のおかげであるのかを理解していない。
これほど尊い自分たちの中から、あの無能で恩知らずな連中を鎮めるためだけに生贄を出せというのか? 冗談じゃない!
生贄となるべきは、聖女だ。
公開処刑が必要だ。愚か者どもの意識を逸らすためのパフォーマンスが必要だ。
生きていれば捕らえて殺そう。死んでいればその死体を辱めよう。そうすることで冷静になった愚か者どもは、きっと思い出す。恩を思い出す。尊い者に尽くす喜びと、それに逆らった時にどれほど恐ろしい目に遭うかを思い出す。
だから、探さねばならない。
人類の、意思決定をする者たちにとって最上の命令は『聖女捜索』になった。
こうして。
人と魔との、一時的な和平は締結される。
魔王と聖女を殺すため、生きとし生けるものたちは、手を結んだ。
◆
「すごい、料理になってる」
「……もしかして失礼なことを言ってます?」
食卓で潰れたふかしイモを頬張る魔王はサッと視線を逸らした。
本日のメニューは潰れふかしイモだ。
この料理はとにかく根気が必要で、まずはイモを茹でる。すごく茹でる。
イモというのは案外茹で上がらない。火加減を維持しながら茹でる。火のそばということもあって、その作業は汗をにじませながらする大変なことだった。
次に皮を剥く。あつあつのイモの皮を剥くのだ。
熱くないとうまく剥けないから、火傷しそうなのをこらえて剥いていくことになる。
茹でる前に剥けというのは却下だ。聖女には食べ物を粗末にする趣味はない。剥いた皮の方が実より重いなんていう不条理を避ける使命がある。
そして潰す。ものすごく潰す。
ダマが消え去るまで潰す。すべての固形物を消し去らんと気合を込めて潰す。力仕事だ。『お母さんの仕事』のイメージと違う。
だからお話の中に出てくる『お母さん』はたいてい恰幅がよかったのかと納得してしまう。この作業は腕力ではできない。うまく体重をかけることがコツで、軽くて小さめの聖女からすればとても大変だった。
そうして出来上がったのが潰れふかしイモ。
以前にふかしたイモの皮を剥くのが面倒すぎてぐしゃぐしゃに潰して皮を口の中で取り除きながら食べたことから生まれたメニューである。
スプーンいっぱいに潰れふかしイモを乗っけて大口を開けて頬張る女神は、無表情ではあるが満足そうだった。
虹色の綺麗な瞳がこころなしかキラキラしている気がするし、そもそも、普段の料理はあんなにほっぺたがパンパンにふくらむまで口に入れない。つまり成功だ。聖女はグッと拳を握りしめた。
「いやしかし、うん、比較的とてもおいしいよ」
「うむ。比較的とてもおいしい」
「あの、気になる一言を入れないといけない決まりでも?」
「自分の力量を冷静に見極められた料理だと思う」
「うむ。今日の『お母さん』は冷静であったな」
「いつも狂乱してるみたいに言わないで?」
「まあ、ゆっくり覚えていけばいいよ」
「そうだな。期限はあれども時間はある。神の尺度からすれば、人の一生など短いものだ」
「最後にフォローしないで?」
とはいえ聖女はこれまでそれなりにいいものを食べたこともある。
だから自分の料理が『料理』と呼べるレベルにないこともわかってはいるのだ。
現場に出るようになってからは、時間がなくて屋根のある場所で寝ることもなく、いわゆる軍用食ばかりになっていた。しかし幼いころには精一杯の『おもてなし』をされたし、テーブルマナーなども覚えさせられたことがある。
まあ、貴族との会食などしている暇があるなら現場に出た方がより多くの命を救えると思ったので、テーブルマナーが役立ったことはなかったけれど。
これからはきっと、時間もあるのだろう。
「そのうち、昔食べた宮廷料理も再現してみせます。鳥ぐらいは、とれるようなので」
「「肉の取り扱いはやめておいた方がいい」」
「なんでですか!」
そりゃあもちろん、新鮮なうちに羽をむしったり、内臓をとったり、血抜きしたりとやることが複雑で多いからだ。
そして失敗した時の危険性が野菜や穀物の比ではない。
この『勇士の館』あたりにある野菜は火さえ通せばとりあず大丈夫なものばかりだが、鳥はどうにも野生なのだし、魔王は大丈夫でも女神は体調を崩すだろう。何せこの女神、体の頑強さは本当に見た目相応、子供なみなのだから。
「まあ、僕が見本を見せようか……」
「ええ!? 料理ができるんですか!? 魔王なのに!?」
「確かに僕は他の魔族と違って魔力さえあれば生きていけるけれど……それでもほら、人間の偉い人との会談に備えて、テーブルマナーを覚えようとしていたからね。かといって人間の料理なんていう『惰弱』なものを作ってくれる人もいなかったし、結果として一通りこなせるよ」
「そんな馬鹿な……」
「いやそこまで言うこと?」
「女神から提案なのだが、お母さんはお父さんに料理を習うところから始めるべきだと思う。これは神託である」
「こんな神託がありえていいんですか?」
「まあ神託ならしょうがないからそういうことにしようか。僕も次から料理場に立っていいかな?」
「調理場はお母さんの戦場なんですよ……」
「今は普通の戦場だって男女関係なく立つじゃないか……」
「……わかりました。神託ならしょうがない……」
聖女はしぶしぶ承諾した。
こうして第二勢力が戦場に降り立ち、家族の兵站事情はすさまじい勢いでの改善を見せることになる。
いくつもの日が経過して、家族ごっこはそれでも続いている。
目的のない遊びはいつの間にか骨身になじんでいて、まるで最初からこうだったのではないかというぐらい、自分の基礎になりつつあった。
神の力はいずれ消え、この楽園は雪に閉ざされるだろう。けれどそれはどうにも聖女が死んだずっとあとのようだし、魔王もたぶん、そこまで人から外れた寿命ではないだろうなとなんとなくわかっている。
唯一の不安だった女神も、今の分霊にはほとんど権能が残っていないようで、人なみの寿命で死んでしまう。あるいはもっと短いのだとか。
だからタイムリミットはあっても、わりと長い。
ゆっくりこの生活を楽しむことができる。
そう思っていた。
◆
人と魔は足並みをそろえて魔王および聖女の捜索に入った。
女神を探すことにさほど力が入れられていなかったのは、あの女神にそれほどの力がないとみなされていたからだ。
実際、ただの大人が集団でかかればやすやすと取り押さえられる女神など、【王権】や種族特徴としての基礎能力を持つ魔王や、死んでさえいなければあらゆる人を癒す聖女より優先順位が低い。
しかし一点だけ警戒されていたのは、あの時の『フッと消えた現象』だ。
大人数に見守られる中央で三人は一瞬にして掻き消えた。
これが女神の力ならば見つけても逃亡される可能性がある。そこだけは警戒され、『基本的に女神は探さないが、もしも三人、あるいは女神と誰かがいっしょにいた場合、まずは女神を殺す』ということになった。
ネタばらしをしてしまえばこの方針に意味はない。
分霊でしかない女神はただの一度奇跡を行使しただけでもはや力を失っていた。
そのようなことを知らない人々は謎の現象がもう一度起こるものとして準備を進めた。できれば遭遇しないように。遭遇したらすぐさま念入りに殺すように。
そういった方針の共有がかなうぐらいに人と魔の足並みはそろっていた。競い合うように捜索を続けることで捜索効率も高かった。
保身のために合理的となった人々は表面上力を合わせて捜索活動をしていた。
もちろん魔族が先に魔王を確保し、その死を確かめるか殺すことができれば、あとは『聖女探し』に必死な人類の背後を突くだけだし……
逆に人が聖女の処刑を終えてしまえば、魔族の隙を狙った総攻撃をするつもりだった。
けれどこの時だけは協調し……
ある人が、見つけた。
めったに人の近寄らぬ霊峰。一年通して吹雪が続くその土地に、本当に久々の晴れ間が差した。
そうして、遠くの山の上にある、不自然な雲の切れ間が発見された。
それはあまりにも神の奇跡めいていた。
だから魔族と人は軍勢を率いて霊峰へと進んだ。
……そこに聖女や魔王がいる確固たる証拠はないはずなのに、捜索するすべての人たちが、まるで『そこに自分たちの前から消え失せたすべてがいる』と確信しているかのような行動だった。
それは仕方ないことだろう。
彼らが本当に欲していたのは『区切り』だ。
あの時、消えてしまった聖女や魔王はもう死んでいるかもしれない。
でも生きていたら嫌だからこうして探している。
言ってしまえば、『いなかった』と発表できる何かがあればよく、不自然すぎる……神なる雲の切れ間を『捜索した』という実績がほしかった。
人は『聖女は死んでいた』と言えればそれでいい。
適当な平民女の死体でも飾れば愚かな民を納得させることはできるだろう。
魔族が欲しいのは安心だ。
あの魔王が【王権】を使うとは思っていない。けれど万が一が怖すぎるから必死になっている。自分に『魔王はもう死んだ』と言い聞かせることができるだけの努力さえできたなら、もう生きているか死んでいるかわからないものに怯える生活を終わることができる。
かたちのない物を求めて、決死の雪山行軍が始まる。
命を懸けるほどの確信は何もなかった。きっと、命令している者が自分でこの猛吹雪の雪山に入らなければならないなら、この行軍は始まらなかっただろう。
誰よりも尊い自分の生命と安寧のため、権力者たちは兵を送り込む。
神はもう、この世界から視線を外していた。
◆
『あなたを生み出したのは、事後処理です。あなたはあの世界の終焉を見届けることになります』
決闘と正義の女神から分けられたこの存在は、己の発生理由についてそのように聞いていた。
『管理のためのリソースも無限ではありません。あなたはあの世界で祈りを捧げられ力を手にし神となってもいいし、渡した一度きりの権能を使って人を救ってもいい。魔族の味方となってもいいし、何もしなくとも構わない』
『それは、自由ということか?』
『いいえ、興味がないということです。もはや私は、あの世界に興味を抱けない。あなたが興味を抱いたならば、それでもいい。あの世界は失敗です。小さいまま熟れてしまった。大きさも形も最低基準に満たない。
発生したばかりの少女に主神の言い様はよくわからなかった。
ただし、とにかく好きにしていい、こうして説明をする時間も割きたくない、という気配だけは感じた。
『ただ捨てるわけにはいかんのか』
少女は問うた。
すると自分を発生させた存在は、舌打ちでもしかねないほど面倒そうに、こう応じた。
『ですから、捨てるのですよ。もしもそこであなたがまたこの領域にのぼるほどの存在になれれば、望外の喜びです』
それが最後の会話となって、少女は世界に降臨した。
神の『望外』など起こりうるかはわからない。
ようするに自分はなんらかのトラブルか、あるいは神が生きていくうえでどうしても避けられない事情で生まれてしまった何かであり、だからこの世界に廃棄処分されたのだと、最近そんなふうに理解した。
だってあれは、『お母さん』の態度ではなかったから。
どうやら『お母さん』はもっと接触が多くて、暑苦しくて、なんでもかんでも話しかけてきて、くだらない言葉をたくさん重ねて……
優しく抱きしめてくれる存在らしいと、最近、知ったから。
でも、ちょっとは子離れしてほしい。
「私は神であるぞ」
「違います。わたくしたちの娘です。ねえ、お父さん」
「うーん、まあ、そうだね。神らしいことも、魔王らしいことも、聖女らしいことも、僕らはここに来てから全然してないから」
「この庭に案内したのは私だ」
「では、神さまはそこでおしまいで、あとはわたくしたちの娘になるだけですね」
こいつ全然退かないな……と抱きついてくる聖女を片手で押し退ける。
けれど、まったくかなわない。
それはこの体に体のサイズなりの力しか残っていないからか、それとも……
このままでいいと、思っているからか。
◆
数多の犠牲を出して雪山をのぼり続けた果てで、人々にとってこの霊峰の『神なる雲間の下』までたどりつくことは、『気の進まない任務』から『犠牲者の弔いのための使命』に変化していった。
魔物や魔族、人が誰かを殺したわけではなかった。ただ、雪山という大自然が彼らの生命を奪っていったのだ。
人というのは捨てたものじゃない。他者の命を背負ってやる気を出せるのだから。
尊い絆の力によってようやく霊峰をのぼり、その場所がはっきりと肉眼で捉えられるようになった時、人々はその土地が本当に神の奇跡によるものだと確信した。
深い吹雪の中にあって花が咲き乱れ、分厚い灰色の雲間から差し込む光がぽかぽかと照らしている。
雪中で凍えながら見ていると非現実的すぎて幻かと思う。幻でもいい。あそこにたどりつきさえすれば、凍傷で死んでいった部下たちが、雪山で滑落していった上司が、飢えで動かなくなった同僚が、報われるのだ。
魔王を殺す。
聖女を殺す。
すべての元凶である女神を殺す。
人というのは捨てたもんじゃない。他者の命を背負ってやる気を出せるのだから。
けれどそういう心の機能に反比例してあまりに非合理で、他者にとっては不条理だ。
ここまで来た彼らは、雪山の雪が深いのも、断崖絶壁が切り立っているのも、食糧がなくなったことさえ、女神による悪辣な攻撃だと思い込んでいた。
思い込まないとやっていられなかった。つらいことに挑むには明確な目的が必要で、その目的が『女神、魔王、聖女の殺害』になって、彼らの心を支えていたのだから。
「堕ちた女神を殺し、同胞の死に弔いを」
雪崩を恐れた小さな声。びょうびょうと吹き荒ぶ吹雪にかき消されそうな小声はしかし、仲間たちの耳にはっきりと届いた。
彼らの目は使命に燃えており、幾多の苦難を乗り越えた果て、人間も魔族もなく、一つの生命体のような連帯感が生まれていたのだ。
人はみな、主人公になれる。
誰かを仇敵に仕立て上げて。
ちょうどいいところに、悪役がいた。
つまりはたったそれだけの話。
◆
「食卓もずいぶん豪華になりましたね」
「なんでお母さんが胸を張っているのだ」
「まあ、いいじゃないか。彼女も料理とか、したよ。その……潰したり……」
テーブルは確かに古びて見えるのにその表面はいつもピカピカで、木製のような質感なのにささくれの一つもありはしない。
お父さんとお母さんが並べたのは鳥の丸焼きとつぶしたふかしイモ。あとは鳥の骨でダシをとった野菜のスープ。
ほかほかと湯気をあげるのは今日のお昼ご飯だ。大して世話もいらない畑なものだから、こうやって時間をかけてゆったり料理をすることができる。
変わり映えのない日々はもうずいぶん長いこと続いているような気がした。もしかしたら生まれた時からこうだったのかもしれないという気持ちさえわいてくる。
おかしな話だった。三人とも共通点がまったくないというのに、こんなにも家族になれるのだから。
「もう、どうしてあなたはそんなに、ほっぺたをパンパンにふくらませて物を食べるんですか」
聖女が微笑みながら女神の口元をぬぐった。
スプーンを逆手に持ってつぶれふかしイモをほおばるこの娘は、食事という行為がへたくそなのだ。
注意しても膝の上に乗せて手をとって実演させてみても、じれったそうにしてこの食べ方に戻ってしまう。
女神は虹色の瞳を細める。それはほとんど表情に変わりのないこの少女が、精一杯に『不機嫌』を表現した顔だった。
「別によいではないか。食べられているのだから、それで」
「けれどそのような食べ方では、お食事に失礼ですよ」
「イモは釜茹でにされたうえ無惨につぶされ、鳥は内臓を抜かれ火葬された。死んだ者は失礼などと感じぬ」
「作った人への礼儀です」
「私は神だ」
「そしてわたくしは、あなたのお母さんです」
「……ああ言えばこう言う」
「あなたこそ」
「つまり似た者同士なんだね……」
魔王の発言が少女二人の視線を集めた。
ひょろりと背の高い青年は「ごめんなさい」と体を小さく丸める。
「意義を感じぬことはできん」
女神はかたくなだった。
聖女と魔王は顔を見合わせて困った息をつく。
「……まあ、確かに、意義を感じないことをするのは難しい」
魔王は肩をすくめる。
聖女も微笑んで何か言葉を探したあとで、「そうですね」と仕方なさそうに肯定した。
肯定して、「けれど」と接続する。
「それがお父さんの料理なら、わたくしは礼節を尽くす意義を感じます」
「ああ、まあ、君が潰したイモなら、たしかに、そういう感じだ。残したりするのは、もったいなく思うかな」
「あなたはどうですか? 我々の仕事ぶりに対して、どう思います?」
聖女の桃色の瞳が向けられて、女神は「うー」とうなった。
「ずるい」
「『するい』と感じてくださるということは、あなたも、わたくしたちのことを好きでいてくれているんですね」
「そういう話題展開はよろしくない。これは神託である」
「神託なら仕方ないです。……まあ、マナーは守った方が単純に食べやすいと思うんですけど。『ずるい』と思ってくれただけで、よしとしましょうか。でもほっぺたがパンパンになるまで口に詰め込むのは、喉に詰まるかもしれないから危ないとは思いますよ」
「むう」
女神は逆手に持っていたスプーンを順手に持ち直す。
そして、肘をいっぱいに横に開いて、つぶれふかしイモをすくって、ぎこちなく口に運んだ。
イモが口に入り切らずにボロボロとテーブルにこぼれる。
女神はほっぺたをイモでいっぱいにしながら、テーブルに落ちたイモをじろりと見下ろした。
「落ちる」
「肘を動かしすぎです。もっと手首を使って」
「ごめん、一言いい?」
「はい?」
「なんだ?」
「そうしてると、本当に親子って感じがするんだ。なんとなくだけど」
魔王の中の『親子』は、このようになごやかなものではない。
だから、ここで彼が語った『親子』は、かつて聖女の中にあった、物語の知識……聖女の目指した『親子』だった。
「僕はどうかな、うまく『お父さん』をできてるだろうか」
すると、聖女も女神も首をひねってしまった。
「よくわかりません」
「よくわからん」
「いや本当にそっくりになってきたな君たち! ……僕はそっくりになれないや」
「三人ともそっくりである必要はないんじゃないでしょうか」
「そういうものなのかな」
「ええ。三人ともそっくりな親子は見たことがないです。だいたい、娘さんがいる家庭ではお父さんが非そっくりです」
「『非そっくり』……じゃあ、お父さんはどうやって家族だって証明すればいいんだろう」
「わたくしたちが『お父さん』と思っていれば、それでいいのでは?」
魔王はなんだかその発言にびっくりしてしまって、言葉も思考も止まってしまった。
「……そんなんでいいの?」
「ええ。きっとそんなんでよろしいのではないかと。ねぇ、この人はお父さんですよね」
「であるな。魔王というよりは、最近とみに、お父さんという感じだ」
「あなたは最近すごく娘さんという感じですもんね」
「私は神だ」
「じゃあ神様にお肉をとりわけますね」
「うむ」
魔王は笑って見ていた。
そして、やっぱり、思う。
『お母さんと娘さん』だと。
そう思えばそうなるなら、自分はこの二人が親子であることを間違いなくそう思う。
家族ごっこは、それを真実だと思えば、真実になる。
他に何もいらない、楽園での穏やかな日々。
◆
この陽だまりの中で、きっと生涯を終えるのだろう。
それは三人全員が言葉にせず、心の中でさえはっきりと意識せず、なんとなく感じていることだった。
ここはあまりにも世界と隔絶していた。ここもまた世界の一部であることを忘れそうなほどに。
魔王は王であり、聖女は人類の希望であり、女神なんかは、そのまま、神だ。
きっとこれら立場にある自分たちは『未来』のことも考えないといけないんだろうなあとはみんな思っていた。思っていたけれど、『そういえばそうだなあ』なんていう、気楽な気持ちだった。
このままでは神に見放された世界はきっと滅ぶのだろう。
この楽園さえ永遠ではない。いずれは雪に閉ざされる。花は枯れ、作物は凍え、三人で過ごした家も朽ち果てるのだろう。
それは自分たちが一生を過ごしたあとの話。
逆に言えば、この神の恩寵を受けた場所でさえも『自分たちの一生』のぶんしかもたない。
世界の他の場所は、もっと早く、なんらかのよくない影響が出るんだろうなあ、なんて。わざわざそんな質問を女神にしたりはしないけれど、魔王も聖女も思っていた。
そのうえで、どうでもよかった。
身勝手だと怒られるだろうか。惰弱だと責められるだろうか。
この『家族ごっこ』を始めてみて、仲間というのがいかに大事かがわかった。仲間のために命を懸けて自分という存在のすべてを費やし、そうして生まれたリソースを仲間の仲間のために、あるいは仲間の子孫のために使って、どうにかこうにか『未来』を切り開いていく━━そういうのがきっと、『絆の力』なのだろう。
だからこそ、すべて、どうでもいい。
ここにいる三人には、ここにしか仲間がいない。
大事な人がこの楽園にすべていて、このあとには誰もいない。
世界は自分たちに尽くさせようとしたけれど、世界が自分たちのためにいったい何をしてくれたというのか。目を閉じて過去を振り返っても、ここにいる人以外には、誰一人として『死んでほしくない人』を思いつくことができない人生。それはちょっと、『神に見放された世界を救おう』という目標を叶えようと奮戦するには足りない。
たぶん、どうしようもないなあ、なんて。
そう思いながら、魔王は作物の世話をして陽光を見上げる。
家の前の庭では聖女と女神が追いかけっこをしている。
女神が逃げる。聖女が抱きしめる。また女神が逃げる。その繰り返し。ルールも何もあったもんじゃない『遊び』未満の、ただ笑い声が上がるだけの睦みあいだった。
また聖女が女神をつかまえて、女神が逃げ出して。
女神がぱたんと倒れて、聖女が慌てて近寄っていく。
石にでもつまづいてしまったのだろうか。
まあ、聖女がいる限り大きな怪我もないとは思うけれど、それでも痛いものは痛い。野菜を抜くのをやめて、白い手に黒土をまみれさせたまま、強引にズボンで拭いながら早足で転んだ女神のもとへと向かった。
先にたどりついた聖女が女神のそばにしゃがみこんで、その小さな体を膝の上に乗せた。
「どうしました?」なんて頭を撫でて、その手にはすでに桃色の力がまとわれている。骨が折れてもどれほど血が流れても、欠損だって治してしまうその力。
その力が、ふっと、消えた。
遅れて近寄った魔王は笑いながら「どうしたんだい?」とたずねる。聖女が力を切った。だったら治療は終わっている。実際に目にしたわけではないけれど、そういうものだという知識はある。
だからいつまでも女神を膝の上に乗せたまま固まっている彼女のそばに来て、彼女が困ったように、笑う以外にどうしたらいいかわからないみたいに見上げてくるので、もう一度「どうしたんたい?」と問いかけた。
「あの、おかしいんです。あの、力が、えっと」
「出ない?」
「いえ。あの」
信じられない事態に直面して混乱している様子だった。
魔王は聖女の横にしゃがみこんで、彼女の肩に手を置き、「ゆっくりでいいよ」と述べてから、聖女の背に隠れて見えなかった女神の様子に目をやった。
あおむけで膝の上に乗せられている小さな彼女は、その胸に矢を突き立てたまま、ぐったりしていた。
そこからの自分の動きはどこか、他人事のようだった。
ゆったりした動作で立ち上がりながら、高速で魔力を練っていく。
あっというまに自分たちを囲む半円状の結界が幾重にも形成されてから、『そうか、自分は敵襲を感じ取ったのか』だなんて遅れて気づくぐらいだった。
ちょうど結界の形成が終わった一瞬あと、陽だまりの外から矢がたくさん射かけられた。
すべてが結界に弾かれて、短い草の生えた地面に、収穫したばかりの作物に、陽だまりの中の小さな世界に、戦争の景色をもたらした。
「魔王、聖女、覚悟!」
四方から武装した人たちが襲い来る。
聖女は幾度も桃色の力を発して、女神の治療を試みている。
魔王はまだその意識が現実に追いついていない。
けれど体は自然と動いていた。
━━彼は生き物を殺したことがない。
争いというものが苦手なのだ。その昔、自分が発生したばかりのころ、非常に低位の、人間の子供でさえも倒せるような魔物の相手をさせられたことがある。
それはいわゆる『戦い』の手腕を見ようというものではなかった。今代の魔王がどれほど絶望的な破壊を撒き散らせるのか、実際に生き物を使ってその威力試しをしようというものだった。
魔物はまだ産まれたばかりのオオカミだった。ただの獣が魔族の魔力にあてられて凶暴になり強くなり魔物となる。そして魔物同士の子は産まれた時から魔物である。そういう事情で産まれた二世以降の魔物。ほんの小さな、ふわふわした四つ足の生き物。
殺せなかった。
なぜ命を奪わないといけないのかわからない。なぜ、王としての威を示すのにあんないたいけなものを殺さねばならないのかわからない。
だから拒否した。
けれど『なぜ殺さないのか』と見守る魔族諸侯には言われた。
『なぜ殺さないのか』!? なぜ『殺す』ことに理由がいらないくせに、『殺さない』ことに理由がいるのか!
理解が及ばない。では、この魔王の力がお前たちに向いた時、お前たちは黙って受け入れるというのか?
試してみようか、と魔王は思った。
一方で、魔王は彼らの死を背負いたくなかった。こんな連中、こんな、弱い生き物を引きずり出して、その死を願う、なんの共感も理解もできない連中の命など、背負いたくはなかった。
だから、オオカミを抱き上げて、こう宣言したのだ。
『戦争を終わらせよう。人類と共存共栄を目指そう』
『何かを殺すことに理由がいらない世界を終わらせたい』
嘲笑と罵倒があった。
そして魔族四公がうち一人は、口元に酷薄な笑みを浮かべたまま、こう言った。
『よろしいでしょう』
そして、腕の中でオオカミが爆ぜた。
四公がうち一人『不死公』は、すでにオオカミに血を仕込んでいたのだろう。それは万が一魔王が殺されかけた時のための措置だったのかもしれないけれど、腕の中から安心しきったぬくもりを消し去ることに使われた。
それでも魔王は冷めた気持ちだったのだ。
血まみれにされながらも、無常を噛み締めるだけだった。爆ぜて死んだオオカミを『かわいそうに』と思った。けれど、報復しようなんていうまねはしなかった。そこまで入れ込んではいなかった。
だから、今、魔王自身がおどろいている。
「【王権を以て命ずる】」
襲撃者の中に魔族がいることを見てとった。
人の軍勢とまるで深い絆で結ばれた兄弟のように肩を並べて、剣をかついでこちらに攻め寄せる魔族を見た。
どうして、お前たちが協力しているんだ?
お前たちは人との和平などという惰弱なことはできないのではなかったのか?
どうして、あの時、否決したというのに。
どうして今、そうやって肩を並べて━━
この子を、殺した?
「【
誰にとっても想定外。
あの惰弱な魔王が、無差別に命を奪うような王命を発するなどと想像できる者は、この世に一人もいなかった。魔王自身さえ、ふくめて。
口をついて命令が出たあと、右目がばちゅんと爆ぜた。
涙のように血を垂らしながら、頭が弾けて消えた魔族たちを、残った左目でながめる。
なんの感情も起こらなかった。
ひたすら虚しくて、こんなモノの血がそのあたりにあるのを汚いと思うだけだった。
「魔王ォォォォ!」
唐突なことにおどろいたのだろう、生き残った人間の兵たちは、足を止めてしまっていた。
それでも感情は止まらないようで、怒りと憎悪に満ちた目が、周囲から魔王に突き刺さっていた。
魔王は率直な感想を述べる。
「理解ができない。今、死んだのは魔族だ。お前たちが長い間争っていた仇敵だ。和平締結を否決し、お前たちを惰弱とののしり、皆殺しにすると息巻いていた連中だ。だというのに、お前たちは怒るのか」
「それでもっ……! 種族が違っても! そいつらは、ともに困難に立ち向かった仲間だった! 一つの目的を持って肩を並べ、苦境を越えた仲間だったんだ!」
「それで、お前たちは仲間のような顔をするのか」
「そうだ!」
「仲間が殺されたことに怒り、僕たちに剣を向け続けるのか」
「そうだ!!」
「なるほど」
魔王はつぶやき、
「では、『それ』を僕がやってもいいんだな」
ぐしゃり、と応答していた兵が潰れた。
まるで頭上から巨人の足でも振り下ろされたような死に様だった。
暖かな陽だまりの中の空気が凍りつく。
魔王は右目があった場所から血をこぼし、淡々と問う。
「
歩いていく。
固まって足を止めている兵のそばまで行き、その肩に手を乗せる。
「
「あ、いや」
返事が来ない。
魔王は言葉をしゃべれない『それ』を潰して、次の者に同じ問いを投げた。
けれど魔王の問いに答える者は現れなかった。
最後の一人が地面のシミになるまで、現れなかったのだ。
「……聖女」
呼びかける。
聖女はまだ女神を膝の上に抱いたまま、回復を試みていた。
けれど、できなかった。彼女の力でもできなかった。
死者をよみがえらせることはできない。
「僕は、『魔王』かな」
聖女は力を込めていた手をぱたりと落として、彼を見上げて、言った。
「この子を弔いましょう、お父さん」
「……ああ、そうしよう。お母さん」
楽園は血を嫌がるように縮まり、ほんの少しだけ狭くなっていた。
だというのに、こんなにも広く思えるのは、なぜなのだろう。
◆
人の社会に少しずつ入ってきていた魔族たちが、唐突に死んだ。
ある者は会話中に、またある者は歩行中に……
食事をし、眠り、愛をささやいている、その最中に、唐突に頭が弾けて死んだ。
『
その王命は魔族の悉くを殺し尽くした。上は四公から下は木端魔族まで。
ただしその現象が『魔族だけが死んだもの』だとわかるのには数週間の時間を必要とした。
最初、人類はこれを『攻撃』だと思った。そもそも【王権】なんていうものは秘されていて知らなかったから、次に頭が弾けるのは自分かもしれないとたいそうおびえた。
そうやって調査していく中で『魔物・魔獣は生きているけれど、魔族ばかりが大量に死んだらしい』ということがわかってきて……
「連中は女神様の怒りに触れたのだ」
そういうことになった。
まさか魔王に『命さえも自由にできるほどの命令権』があるとは思えなかったし、思えたとしたって魔王がわざわざ自分に仕える者たちを皆殺しにする理由があるはずがないと考えたのだ。
だからこれは女神の加護になり、人々は自分たちが神に愛された種族だと改めて信じた。
魔族どもの姿がすっかりなくなって、飛び散った肉の掃除も終わるころ、人類は盛大にこの『勝利』を祝い、女神に信仰を捧げ、お祭りを始めた。
そのお祭りが終わったあと、誰かが首脳につぶやいた。
「そういえば、聖女と魔王を探しに行かせた部隊が帰還しておりませぬな」
「あの深く険しい雪山のどこかで全滅してしまったのだろう」
もはや人を害する魔族はおらず、戦争は終わったのだ。
今さら、あんな厳しい場所に人をやってまで、生きてるか死んでるかもわからない聖女を探す理由など思いつかなかった。
だから『神なる雲の切れ間の下』へと向かった部隊は、全員が戦死とされて、その最期に何があったかを確かめようという者もいなかった。
◆
「僕らは神をどうやって弔えばいいのだろう。魔族には死者を弔う風習はない。ただ燃やしてしまうだけだ」
「わたくしの知る方法は、祈りを捧げ、地に埋葬するというものです。埋められた死者は世界の一部になり、また新たな生命として循環すると言われています」
「神に仕える君たちがその方法をとるならば、そちらの方がいいのだろう」
女神のなきがらは埋められることになった。
胸に突き刺さっていた矢は抜かれ、穴の空いた衣服は綺麗なものに替えられた。
美しい虹色の瞳は閉じられて、二度と開かれることはない。
魔王はその魔法で穴を掘ることもできたけれど、聖女と二人、道具を使って穴を掘った。
その作業もまた弔いのための儀式だと思ったからだ。
「僕らはなんのために死者を弔うのだろう」
夕暮れ時が差し迫って長い影が足元には伸びている。
二人で汗水垂らしながら掘った穴はすでに充分な深さと広さがあって、けれど、二人はその穴の横に女神を置いたまま、そこから作業を進めることができないで立ち尽くしていた。
こんな、小さな穴におさまりきってしまう体。
聖女によって傷をふさがれた少女はただ眠っているだけのようだった。そのうち目覚めるのかなと思ってしまう。聖女もだから癒しの力を向けてみるけれど、やはり少女のなきがらへ向けられた力はすうっと消え失せてしまって、なんの作用ももたらさなかった。
「弔われた死者は喜ぶのだろうか」
魔王はつぶやいていた。
それは沈黙に耐えきれない彼の心があげる悲鳴だ。
聖女は答えない。
ただ、横たわる少女に癒しの力を向け続ける。
「……区切り」
ぼそりというかすれた声は、誰のものなのか。
それが聖女のものだと気付くのに、しばしの時間が必要だった。
「あきらめきれないものを、あきらめるために、きっとこうして、儀式をするのでしょうね」
聖女はつぶやいて、魔王を見た。
お父さんは、お母さんを見た。
「死者はどう思うのかな」
「死者は何も思わないのでしょう」
「それでは、死者のためにできることはないのかな」
「死者は何も感じないのでしょう」
「弔いは、生きている僕らのためだけのものなのか」
女神が死んだとわかった直後、心と思考が切り離された。
『
自分の心はなぜ、あんなにも残酷に人の命を奪ったのだろう。
それはきっと……
「……僕は、あいつらが生きていることが我慢できなかったんだな。だからあの
「区切りはつきましたか?」
「うん、きっと、今の君よりは」
あれは報復ではなかった。
たとえそうだったとして、報復に相当されるあの行為のあとには、何も感じなかった。気持ちよくもない。ただ、面倒な死に方をしてくれて、この庭が汚れてしまったなと、嫌な気持ちになっただけだ。
けれど……
「僕はあれで、この子のためにできることをやったような気になれた。君は……どうかな。君はもう、できる限りをやったように思うけれど」
「……わたくしが、何をしてあげられたというのですか。癒しの力も役立たなかった、このわたくしが」
「抱きしめて、癒そうとしてあげた。僕の行動はすぐに『切り替えた』ものだった。この子の死を前提とした敵の殲滅だった。けれど君は、その子の生存の可能性に今もすがっている」
「……それは、『できる限り』をやったことになるのですか?」
「もしも奇跡が起こってその子が息を吹き返したなら、きっと、君の行為のお陰だっただろう」
「けれど、生き返らない」
「結果はそうだ。それでも、神の生命はわからない。だから君があきらめなかったことがその子のためになる運命だってあったかもしれない。あの時点では……早々に切り替えるのが『できる限り』とは限らなかった。……っていうのは、詭弁かな」
「……」
「僕が君の『お母さん』を保証するよ。君は娘のためによくやったって、保証する」
そこでようやく、聖女は微笑んだ。
「あなたに保証されたなら、きっと、言う通りなんだと思います」
「そうか。よかった」
「…………『区切り』をつけましょう」
「……そうだね。そうしよう」
穴の中にそっとなきがらを横たえる。
無言で静かに、いたわるように、寒い夜に毛布でもかけるように、土をかぶせていく。
足から順番に。
腰、腹、胸。
顔に土をかぶせる時にちょっとだけ止まった。「僕がやろうか」と魔王が言う。聖女は黙って、土をかけた。だからあとは、二人でやった。
すっかり埋まってしまうと、またその前で立ち尽くした。
そうして二人、顔を見合わせて、笑った。見つめる相手に安らいでほしくて、笑った。
魔王が最初に口を開いた。
「さて、ここからどうしようか」
聖女は一瞬泣きそうな顔になったけれど、奥歯を食いしばった。
「その場のノリで全部捨てちゃいましたからね。どうしましょう」
「……君がよければ、もう少し、お母さんを続けてみないかな」
「あなたがお父さんを続けるなら」
「うん、そうしよう。ただ暮らそう。家族で。この子のそばで。君がそれでいいなら、そうしてほしい」
「それ以上のことなんか、思いつきませんよ」
世界の果て。雲の切れ間の下。楽園で家族ごっこが再び始まる。
陽だまり、狭い畑。鳥たちのさえずりに古びた家。
来た時とほとんど変わらないその場所に、新しい施設が一つ。
『我らの娘、ここに眠る』
それを神とは記さない。
だって彼女は、娘だったのだから。
◆
外敵を失った人々はしばらく平和に暮らしたけれど、そのうちに仕事を失った兵たちや、家族を失った者たちの不満が国へと向かった。
聖女を放逐した無能な首脳どもに反旗をひるがえした人々によって国は滅び、思いつく限りの苦しみを味わわされて首脳たちは死んでいった。
そうしてできあがった国は最初こそまとまったけれど、次第に意見がわかれ、一つの国ではなくなっていった。
争い、食い合い、分裂し、人は増えていく。
世界は次第に広くなっていき、数百年もしたあと、北方の雪深い霊峰もついに人の勢力圏がそのふもとまで及ぶようになった。
しかし、その山にはもう、人が目指すほどの理由はない。
その山は、今。
◆
彼らの陽だまりはもう、雪に閉ざされてしまった。
花も野菜もあの家も、すべてすべて、重苦しい灰色の雲の下に。
ひっそりと生きていた夫婦ももういない。彼らは娘の横で眠りについている。
墓穴は二つ。すでに朽ちて読み取れない墓標は、いったいどちらの手によるものか。
その世界はすでに神の視線の外にあり、加護は消え失せていた。
けれど、神はたまたま、視界の端で虹色にきらめくものを見つけて、この場所に降り立った。
神が降臨する時に灰色の雲はひとりでに道を開け、地表を閉ざしていた雪はみずから覆い隠していた場所をつまびらかにした。
美しい虹色の瞳を持つ女神が見れば、そこにはありし日のその場所の光景が映る。
家族を知らない、種族も違う三人の家族ごっこ。
なんの変哲もない日々がただひたすらに続き、そうしてゆっくりと終わっていく。
「なるほど」
降り立った存在は納得した。
この世界に見えた虹色のきらめきの理由がわかったからだ。
それは神格のきらめきだった。
人々から祈りを捧げられ、神としての格を備えた者のきらめき……
死した『娘』は、『両親』から毎日、祈りを捧げられていた。
その安らかな眠りを願われていた。
欠かさず続けられたその礼拝は、『娘』に一柱の神としての格を与えたのだ。
降り立った存在は問いかける。
「この世界はあなたのものです。その威をもって、好きに振る舞う権利があなたにはある。あなたを分けた身として、その力の奮い方ぐらいは教えましょう。さあ、この世界をどうします?」
しばらく、びょうびょうと豪雪が吹き付ける音だけが響き続ける。
降り立った存在は、美しい顔に微笑を浮かべた。
「……欲のない子。止めるわけがないでしょう。あなたがあなたの力で叶える、あなたの願いなのだから」
存在が消え、あたりはまた雪に閉ざされる。
そうして……
また、月日が流れた。
◆
たとえば穏やかな田舎村に、おっとりしているけれど時々すごいことを言うお母さんと、気弱だけれどやる時はやるお父さんと、生意気盛りでちょっとだけ小賢しいけれどとてもかわいい娘さんがいたとして、それを『奇跡』だと思う人はいないだろう。
そういう家族なんかどこにでもありふれている。
そんなものが神の願いと権能によって生み出されたなどと言われても多くの人は反応に困る。
そもそも、本人たちだって、自分たちが望まれてそうなったなどとは知らない。
ただ出会った瞬間に懐かしくて、そのまま結婚してかわいい娘が産まれたと、そんな程度の話でしかない。
欲のない子、と誰かが言った。
けれど、本当にそうだろうか、と『娘』は思っていた。
望んだように生まれて、望んだように幸福を得る。
これのどこが『欲のないこと』だというのだろう。
奇跡の果て、楽園での祈りの果て、なんの変哲もない人生がここにある。
王はおらず、聖女もおらず、神でさえなく、ただの家族として彼らはあった。
これが家族ごっこの終わり。
夕暮れ時だ。遊びは終わって、家に帰ろう。
お父さんとお母さんが、そこにいるから。