蘭丸の頬に一筋の切り傷が刻まれる。
溝尾が三本目の矢をつがえると、にわかに溝尾軍が騒がしくなりだした。
「裏切り者だ!」
「味方ではないのか!」
などの叫び声が聞こえる。
「何が起きた!」
溝尾は現状を把握すべく、騒がしい方を向き呼び掛ける。
だが、兵たちは混乱しており、誰一人状況を告げる者はない。
やがて溝尾軍を追う兵らの軍旗が見え、溝尾は目を疑った。
その部隊は袁尚旗を掲げ、あるいは桔梗紋を掲げていた。そして逃げ惑う兵らの間を割って、二人の武者が姿を現す。
溝尾はその両名の顔をよく覚えていた。
「光忠殿、秀満殿!」
光忠は日頃の鬱憤を晴らすかのように、鬼神の如く暴れまくり、秀満はその後方を守りながら追走している。
「味方の軍に何をするか!」
溝尾は額に血管が浮き出、顔を真っ赤にし激怒した。
「茂朝殿、儂は袁尚を見限り信長公につくことに致した。貴殿もそうせよ」
「馬鹿な。信長が我らを許すと思うのか!謀叛のかどで打ち首にされに行くようなものではないか」
「いえ、私は許されましたぞ。さあ溝尾殿も」
光忠と秀満は溝尾兵を散々に追い回し、蘭丸と信澄を救出した。
「ええい、藤田は何をしておるか!藤田に軍を回せと伝えよ」
溝尾が近くの兵を怒鳴りつけた。
だがこの兵は向かったかと思うと矢傷を負いながら駆け戻り、
「藤田殿も寝返った模様」
と、痛みに耐えながら伝えると、そのまま息を引き取った。
「当てが外れましたな。藤田殿は我らの側につくと快諾致しましたぞ」
秀満は藤田が後陣に配されていると聞き、すかさず使者を送り内応の約を取り付けていた。
「溝尾殿。おとなしく降りなされ。そして全てを話してもらいますぞ」
「くくく……」
秀満の説得に溝尾は小さくくぐもり笑った。
「何がおかしい!」
光忠が突っかかる。
「殿の策は破れたか。秀満、やはり殿の仰る通りであったか」
「何っ!?」
溝尾の冷たい目が秀満を見つめる。
「殿だと?」
光秀の存在することを知らない家臣たちは一同に驚愕の表情を浮かべる。
そんな周囲の顔を見渡すが、気にも止めずに溝尾が話し続けた。
「殿は、我らはこの時代にいてはならぬ存在。速やかに排除せねばならぬ、と。そして、その役目を秀満に頼もうとしたが、彼では優しすぎてできぬであろう。信長に心酔しているようならばもろとも討て、と命じられた」
「私を討てと?」
「左様。そして藤田らを集めたのもまとめて曹操にでも討ってもらうつもりであったからよ。歴史上袁尚は曹操に勝てぬからな」
「我らはこの時代にいてならぬ、それは同感である。だがそれで殿自身は呂蒙を名乗り、生き延びようというのか」
「呂蒙の名を天下に知らしめれば、後に続くと仰せだ」
「詭弁を。我らがいなくなってからでは確認しようがあるまい」
「殿を疑うか!殿は信義にもとることはいたさぬであろう!さあ殿の命だ、各々自刃致せ。我らはこの世界に存在してはならんのだ」
討論は白熱し、溝尾は狂ったかのように目を血走らせ叫んだ。
「それは殿の言葉に相違ないか?」
光忠が秀満の脇まで前に出て問う。
「無論」
「なぜ……なぜ光秀様は我らに呂蒙の名を成す手助けをせよ、と命じられぬ!あの殿が我らに死ねと言うはずがなかろう!」
「逆よ。我らがいては呂蒙の名を成すどころか正体がばれかねん。さあわかったら殿に従え」
光忠は肩を落とし、両眼からは雫がこぼれ落ちていた。
「ならば、溝尾殿。そなたも同じであろう。我と刺し違えよ」
藤田が刀を抜き前へとじりじり進む。
「儂はまだ死ねぬ。貴様らのようにこの世界に散らばる者共を始末する役目を与えられているのだ」
藤田は刀を納めると、
「ならば殿に直接問おう」
と、言い残すと、南へ向けて駆け出した。
「お供致す」
政近と伊勢が藤田を追う。
「ちっ、殿の邪魔をするつもりか!」
溝尾も馬に飛び乗ると、全速力で藤田らを追った。
「溝尾を追わなくても良いのか?」
阿閉が秀満に近寄り問いかけた。
「良い。藤田殿らに任せよう。阿閉殿も光忠殿も追いたくば構わぬ」
阿閉は光忠をちらっと見るが、全く覇気が感じられず、ただただ下を向きしょげていた。
「私は光忠殿を連れて信忠殿の陣へ参る」
秀満は溝尾らが去った方を向いたまま頷いた。