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第36話

「して茂朝殿、袁尚などという小僧を捨てて、信長様に再び仕えぬか?」


「誘いはありがたいが、信長のような残虐な男に仕えるつもりは毛頭ござらん。そなたらこそ信長から離れ、我らと行動を共にせよ」


「戯けたことを。袁尚などでは先があるまい。滅びが間近に見えている家に仕えるほどお人好しではないわ」


「であるか。ならば我らは敵。だが旧知の君らと戦うのは忍びない。このまま引き返せば見逃そう」


「我らも任務なのでな。明日までは休戦とするゆえ、よくよく考えよ」



 互いの主義主張が噛み合わず、話は平行線を辿り、信澄はこれ以上話すことを止めてしまった。


「では。全軍引き返すぞ」


 信澄が撤退を命じた。対談では得るものは何もなく、信澄の説得にも溝尾が応じる様子は一切ない。


 このことも気の短い信澄を苛立たせ、対談の時間を縮めさせた。


「今だ!かかれ!」


 この期を逃すまいと、溝尾が攻撃の命令を下す。


 事前に命を受けていた溝尾軍の行動は凄まじく早く、予期していなかった信澄軍に襲いかかる。


「な!?茂朝!」


 態勢を整える間もなく、信澄軍がなぎ倒されていく。


 兵は倒れ、あるいは逃亡し、気づくと信澄の周りに十数人の衛兵しか残っていない。


「おのれ、茂朝!」


 信澄はあまりの無念さに唇を強く噛み締めた。端から一筋の血が滴り落ちる。


 信澄はそれを舌なめずりすると、襲いくる溝尾軍を鬼神の如く睨みつけ、両手でなければ持てないほどの重そうな槍を片手で振り回す。


 髪は怒髪天とばかりに逆立ち、鬼のような形相した信澄の気迫に溝尾軍の兵は金縛りにあったように足を止める。


「たかが一人の武士だ。恐れるな、数人でかかれ」


 怯える兵の後方から溝尾の激が飛ぶ。


 それを受けて三人の兵が勇敢にも信澄に斬りかかっていく。


 だが鈍い衝突音とともに三人の兵はくの字に折れ曲がり、束になって吹き飛ばされていた。


 この光景を眼前で見た兵は腰が抜け、失禁する者もいるほどであった。


 信澄はそれらの戦意を失った兵らをも躊躇せずに払い飛ばし、叩き潰しながらゆっくりと前進していった。


「遠巻きに囲め、弓で射よ!」


 溝尾は恐れをなして信澄に近づかない兵らに次の指示を出した。


 兵らは信澄の動向を伺いつつ、散開してゆく。


 信澄の視線が左右する度に、兵らは歩みを止め震える。


「並河!」


 溝尾の呼ぶ声に「おう」と返事をした騎馬が一騎。


 騎射を得意としているのか、馬上で矢をつがえ、信澄へと突進していく。


「易家か」


 信澄は狙いを並河へと絞り、彼が近寄るのを待った。


 ひゅんと風を切る音が信澄の耳に聞こえると同時に、右肩に鋭い痛みが走る。


 だが今の信澄はこの程度では怯まなかった。それどころか、負傷した右手で槍を引きずりながら並河に向かって走り出した。


 並河も弓を投げ捨て、刀を抜き、馬を駆けさせる。


 射程に入ったのを確認した信澄は前のめりに、投擲するように倒れ込む。


 遠心力のついた槍が、轟音を響かせ、並河の頭上に躍り掛かる。


 槍の柄が馬の脳天を叩き潰し、馬は泡を吹いて息絶えた。


 穂先は馬上の並河を見事に捉え、受け止めた刀ごと胴まで真っ二つに切り裂いていた。


「今が好機ぞ、倒れている信澄を討て」

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