「うむ、まずはこの陣を出ねばな」
光忠がそう言って幕を出るとすぐ、袁尚の使いの兵が慌ただしく駆けてきた。
「光忠殿、今すぐ五百の兵を率いて溝尾殿の救援に向かわれよ、溝尾殿に傷ひとつ負わせてはならぬ、と袁尚殿が仰せです」
「なんと」
「溝尾様からの要請とのこと」
「承知いたした。すぐに向かいます、とお伝え願う」
使いの兵は伝言を受けると来た道を駆け戻っていった。
「政近がうまくやったようだな」
兵の姿が闇に消えるのを確認して、秀満が口を開いた。
「貴殿の入れ知恵か?」
光忠の問いかけにこくりと頷く。
「さて、次はどういたす?」
「まずは溝尾殿と連絡を取る。だが事をおおっぴらにしては蘭丸殿の警戒を招く。用心せねば」
「蘭丸殿、どうやら矢文の効果があったようだ」
信澄が自慢気に溝尾から送られてきた書を見せびらかす。
書には、明智の一族として旧交を暖めるべく、酒を酌み交わそう、と書かれてあった。
溝尾茂朝は信長より明智姓を名乗ることを許され、明智茂朝とも呼ばれていた。
「これで余計な戦は避けられたな」
信澄は自分の策がうまくいったことでかなりの上機嫌であった。
「うまく行き過ぎでは?」
蘭丸が疑問を投げかけても全く聞く耳持たず、浮き足立っていた。
「なに、溝尾殿は話せば解る御仁よ。さて早めに会う段取りをつけなくてはな」
「ここは戦場、慎重に慎重を期すぐらいが良いのでは?」
信長からの受け売りである。如何なる時も冷静さを欠かさず、よく物事を考え、常に相手の上を行け、と教えられた。
今の信澄が溝尾の手のひらで転がされているような、そんな危うさを感じていたのである。
「思いがけず心配性よな」
信澄が大口を開けて高笑いしながら、蘭丸の背中を叩く。
「なに心配いらん。それどころか罠ならば、溝尾殿の首、引っこ抜いてきてやるわ」
「承諾しかねますな。信忠様に状況を説明し、援護を仰ぎ、対談は互いに陣頭で。せめてこのくらいの配慮はせねば」
信澄の顔が強ばる。喜びに浸っている所をいちいち煩い奴よ、と水を差された気分になったが、信長の寵童であることを考えれば、刃向かった場合、良いことはない。
「わかったわかった。蘭丸殿の申す通りにいたそう」
以前の欣喜雀躍とした様子はどこへやら、げんなりとした態度で蘭丸の提言を渋々と受け入れて、文を書き始めた。
溝尾には戦場であるゆえ陣頭でと記して送り、信忠へは溝尾と対話することになったことを書き記した。
「会談は戦場であるゆえ陣頭で、だそうだ。信澄殿にしては慎重よな」
溝尾は藤田に文を読んで聞かせ、思いの他用心深いことを皮肉った。
「であるならば、信澄殿を暗殺するのは難しいですな」
藤田は内心ほっとしていた。いくら敵味方でもこの世界で出会った数少ない知人である。
殺すのはおろか、戦うことにも躊躇いがあった。だが溝尾の言葉は藤田の一時の安堵を瞬く間にぶち壊した。
「暗殺できぬならば不意を突けば良い。のこのこと陣頭に出てくるのだから、暗殺よりも容易よ」
溝尾の目が冷たく光る。
そして会談の日がくる。両軍が対峙し、陣前に信澄と溝尾が出てきた。
「懐かしゅうござるな、信澄殿」
「茂朝殿も息災な様子、何よりである」
互いに裏がないかと窺いながら挨拶を交わす。