「はあ、はあ、はあ」
その男は人目につかなそうな藪の中を必死に逃げていた。
供の者は十人に満たず、皆傷だらけでぼろぼろの格好である。
「殿、ここを抜ければ我らの地ですぞ」
失意の中、殿と呼ばれた男は側近の言葉に反応もせず、自問し続けていた。
(なぜだ。天意は我らにあったはず。なぜこうなった)
「どこだ!」
「こっちに逃げたのを見たぞ」
「隈無く探せ」
一団を追いかけている集団の声が近くで聞こえる。
「殿、こちらへ」
供の囁きに従い後を追う。
「あっちだ!」
わずかな音から所在がばれ、この辺の地理に熟した追跡者たちが遠巻きに取り囲み、逃げ道をふさぐように藪に身を隠した。
「おのれ、農民ども!手負いとはいえ儂の力を見くびるな」
「殿!逃げるのがまず先です。さあ」
殿と呼ばれる漢は激昂し、腰の刀を抜いた。それを兵らはたしなめ、逃げるよう促す。男は舌打ちをし、兵に続こうと振り返った。
その時。
「……くっ」
腹部を焼けるような痛みが襲う。見れば刀の先が刺さり、その刀を伝って血液が滴り落ちている。
「貴様!」
側近が手に持つ刀で、殿と呼ばれる男を刺した兵を一刀に切り捨てた。
だが争う声や斬られた男の呻き声が追っ手に居場所を告げる。
生ぬるい風とともに殺気が周囲を取り巻く。
「ここまでか……」
先ほどの刺し傷は殿と呼ばれる男の精神力をも完全に奪い取った。
他の兵らも気持ちが折れたが、それでも殿を中心に円陣を組んだ。
殺気の輪が縮まる。
すると突如一斉に藪から何本もの鋭く尖った竹槍が飛び出してきた。
竹槍はなんら躊躇うこともなく、兵らの腹部や腰や腿などを貫き、円陣はいとも容易く崩れる。
「儂が腹を切るまで持ちこたえよ。奴らに殺されては武士の名折れ」
そう言うと、脇差しを取り出し、甲冑を外し、自身の腹を切り裂いた。
「殿!介錯いたします」
「頼む、魔王を、信長様を、討つのが我に与えられた運命であったのだな」
側近は泣きながらも刀を殿の首目掛け振り下ろした。
首はごろっと重力に引かれて落ち、生気を失った体も崩れ落ちた。
「光秀様。私もすぐ参りますぞ」