「軍旗をたたみ、盾を構えよ」
河の中ほどまで進んだ信長は、小さく短く命じた。兵らは前方と上方に木製の盾を並べ、船を進めた。
ここまで来ると、対岸の軍の騒ぎ声が聞こえてくる。戸惑いの声や驚きの声、味方だと叫ぶ声や敵だと叫ぶ声。混乱している様子が手に取るように伝わってくる。
「信長様、袁紹軍の旗です」
護衛をしている兵が信長にこっそりと呟く。
「やはり敵か」
誰に話すでもなくささやくと、
「我らは松永軍の残党である。味方の軍ならば救助願う」
と、声を張り上げた。
どよめきが対岸に広がる。
「松永の敗残兵か。受け入れよ」
袁譚が兵らに指示すると、手に持つ武器を投げ捨て、河岸に駆け出した。
「お待ちを」
袁譚の後ろから王修の声がする。
「しっかり確認してからでも遅くありません。ご覧くだされ、松永の残党と申しますが軍旗どころか白旗すら掲げておりませぬ。船中からわずかながら殺気も感じられまする」
王修は両膝を地につけ懇願した。しかしその声は虚しく響くにとどまった。
駆け出した兵の勢いは止まらず、わずかな兵が留まるのみであった。
「よし、かかった。船を寄せ攻撃せよ」
信長の号令に兵らは盾を投げ捨て、急いで船を漕ぎ出した。信長の指示は袁譚軍にも聞こえていた。
「て、敵だぁ」
味方だと思っていた部隊が敵だと知り、袁譚軍は慌て惑い、方々の体で河岸から自陣へ逃げだした。
信長軍は抵抗もなく次々と上陸し、袁譚軍を追う。
「弓じゃ、矢を放て」
たまらず袁譚が攻撃の指示を出す。だが逃げ切れていない味方にも被害がでるのを恐れた兵らは矢を放てない。
「ええい」
袁譚は躊躇する兵から弓を奪い取り、矢が尽きるまで射た。
「ふん。袁紹軍は兵力に勝るのみか」
信長は鼻で笑うと、逃げる袁譚軍を追いかけ、そのまま陣へ突撃した。
すぐに大将らしき絢爛な鎧を纏った男を見つけると、馬を寄せ、首に剣先をあてがった。
「おぬしがこの軍の大将であるな?兵どもに武器を捨て、降伏するよう命じよ」
袁譚はなすすべなく、手に持つ弓を落とし、両手を上にあげ降伏の意を示した。
「武器を捨てよ。降伏じゃ」
袁譚が命じるまでもなく、大多数の袁譚軍はいたるところで膝を屈していた。
「さてまずおぬしの名を尋ねよう」
信長はそういって袁譚を見下した。
「袁家の嫡男、袁譚」
「ほう、これはとんでもない大物が釣れたものよ。なぜこのような場所にいる?官渡では一進一退の攻防が続いていると聞くが?」
「それを打破するための物資や兵をかき集めに来たのだ」
「ふっ。青州はすでに我が降した。得るものはなかったであろう?」
「貴様が織田信長という男であったか」
「いかにも」
袁譚はそれを聞くと、気が狂ったかのように笑った。
「なにがおかしい?」
「いや、松永を破ったのは貴様であろう?その松永を嘲笑った儂がいとも簡単に奴と同じ道を歩んだものよと、面白く感じただけである」
「ふふ、袁家の跡取りの割には、いやに諦めが早いではないか」
「こうなってはやむを得まい。それに嫡男とはいえ、跡取りと決まっているわけではないのだ。むしろ儂が死ぬことで、相続もすんなりといくことであろう」
信長は袁譚の言葉を聞いて、目を吊り上げた。
「なるほどな。乱世に生きる男としては足りないな。他を蹴落としてでもという覇気に欠ける」