王修は申し訳なさそうな態度で小さく縮まった。
「残った青州の軍勢をまとめ、殿に送り届けようと行軍した次第で。黄河の氾濫がなければもっと早くに到着したのですが……」
「そうか。ご苦労であった。慣れぬことをして疲れたであろう。後は引き継ぐ故、今日はゆっくり休まれよ」
袁譚は怒りを静め、王修をいたわった。
礼を尽くしてようやく口説き落とした賢人であるし、彼の得意とするところは軍勢を率いることではなく、民衆を慰撫し、国を豊かにするべく導くことである。
その彼が不得手な軍旅を行ってまで、袁譚に兵を届けようとしたのだ。怒り心頭でも王修には八つ当たりなどできない。
王修もそのことを感じとって、涙を流して袁譚に礼をした。
「まさか曹操が青州に進軍してくるとはな。しかし松永久秀も口だけであったな。あれだけ大言壮語しておきながら」
「曹操もですが、織田信長という者の軍勢が主力であったと聞きます。松永とも顔見知りであった様子」
「ふむ……織田信長か。覚えておこう」
袁譚は軍を合流させると、官渡の帰路を急いだ。黄河を下るのは容易いが、上るのは簡単ではない。
船は近くの漁村に預け、陸路をひたすら西へと向かった。
「利政よ、おるか?」
数日ぶりに許攸が姿を現した。
今日は酔っている感もなく、機嫌もすこぶる良さそうである。
「おぉ、許攸殿。久しぶりですな」
豪雨でも強風でも構わず、足繁く通っていた道三は機嫌の良い許攸に内心苛つきながらも、表情は笑顔を取り繕っていた。
「早速だが利政。我らが曹操へ降る日も近いぞ」
「ほう。なにやら有用な情報を仕入れましたかな?」
「しっ、声を落とせ」
許攸は先日の自身の振るまいを忘れたかのように利政をたしなめると、左右を落ち着きなくきょろきょろと見回した。
「利政、耳を貸せい」
小声でぼそっととつぶやく。
道三は許攸の口元に耳を持っていった。
「袁紹軍の兵糧が烏巣へ集結する。これを失えば、大軍の袁紹は戦線を維持できないほどの打撃を受ける。どうじゃ?良い土産であろう」
道三の耳元から離れた許攸は下卑た笑みを浮かべた。
「それはすごい。しかし信用してよいのかのう」
道三は驚きながらもしっかり裏を取ろうと疑って見せた。
「うむ。今朝早くに袁尚と袁煕の軍が出立したに気づいたか?」
「そういえば、鎧や馬の嘶きで騒がしかったのう」
「それよ。袁紹の指示で兵糧を烏巣へ運び込みに向かうのだと、袁尚の部下が囁いておったわ」
許攸は興奮を隠しきれず、細い目を思いっきり見開いて、早口で話した。
この態度を見て、道三も演技ではないと、ようやく感じとり、
「では……いよいよか?」
と、声をさらにひそめて反応した。
許攸はこくりと頷く。
「手はずはどうなっておる?」
「細かい事はこれからじゃ。袁尚と袁煕の軍が戻った時が寝返る好機よ」
気持ちが高ぶっていてもさすがに参謀である。機を読むに敏感で、策をうまく為すための冷静さは保っていた。
「それにこれだけの陣容だ。すでにあらゆる間者が入り込んでおる。無論曹操の間者も
な」
道三は背筋を冷たくした。この許攸という男はしたたかさも持ち合わせていた。
傲慢、強欲でなければ一角の軍師として名を為せる男ではないかと思わせるところが垣間見えた。