「だが」
再び信長が声を発する。
「せっかく出会えた舅殿と戦うというのは気が引ける。どうであろう?条件を飲めば考えぬでもないが」
「条件とは?」
「舅殿が儂の天下布武に手を貸してくれることよ」
信長は道三が劉備から鞍替えするならば、劉備の逃避行を見逃してやろうという。
道三にとっては不利益のない話であるし、自身がこの世界に来たのは信長の力になりたかったと、死の間際に強く思ったからであった。
しかし道三は即決できずにいた。
道三の瞼の奥に劉備の姿が浮かびあがる。
まだ仕官して間もないのに、道三は劉備に惹かれていた。
容貌は皇族どころか、むしろうだつのあがらない風体なのだが、手を差し伸べたいと思わせる不思議な魅力に溢れ、それが道三の心を捕らえていた。
(らしくない……)
道三は自答した。己自身、裏切りや謀略でのし上がった男である。
冷徹で、鋭い毒牙で噛みついたら骨の髄まで喰らいつくす。そこから蝮の異名がついたくらいなのに、劉備のことを思う今の自分にはその頃の影は消え失せていた。
いわば牙を抜かれた老蛇であった。
「舅殿?」
信長は思い悩み押し黙る道三をしばし静観し、声をかけた。
「交渉は失敗じゃな……」
道三はぽつりと呟いた。
できることなら劉備と信長に手を組んでもらいたかった。
だが、今信長が劉備側に寝返ったところで、対曹操の勝算はない。むしろ死地へ追い込むことになってしまう。
劉備と信長の間で揺れている道三にそんなことはできない。かといって、このままでは劉備が危険である。
「信長殿、儂は劉備をなんとしても逃がすぞ」
道三は立ち上がった。
「ならば致し方なし」
道三の宣言を受け、信長も覚悟を決めた。
「では、戦場でまみえよう」
そう言うと道三は幕を出、信長の陣を後にした。
「半兵衛、戦略を変更する。これより劉備軍攻撃に移る。全軍に進軍指示を出せ」
信長の後方で様子をうかがっていた半兵衛にそう告げると、信長は帰蝶の幕へ向かい、半兵衛はすぐさま将兵に指示を伝えに行動した。
「濃よ……すまぬ」
信長は帰蝶の幕に入るなり、呟くような小声で謝った。
「殿?どうなさったのです?」
信長は事の顛末を帰蝶に話した。
「殿」
居住まいを正した帰蝶の発した言葉は、意に反して威厳に満ち、力強かった。
「あなた様はこの世界に参って腑抜けたのではございませんか?以前のあなた様ならば、『蝮ごと焼き尽くせ』と命じるでしょう」
帰蝶は信長のしょぼくれたような態度を見て、奮起させるための言葉を放った。
信長は呆気に取られた。普段は決して見せない強い態度は新鮮で驚きを隠せない。
「私のことなど気になさらず、あなた様が天下布武へ向かう道をお進みください」
「……うむ。有り難い」
信長は帰蝶に背中を押され、改めて意を決した。
利政こと道三は、来た時の倍の速さで劉備の下へと急いでいた。
平野に吹きすさぶ寒風など気にしている余裕はない。劉備をなんとしても逃がすと決心した。
だが信長と曹操、二人の覇王に挟まれてはとても逃げ切れるものではない。
ただでさえ兵力は乏しく、士気も芳しくない。さらに劉備の片腕である関羽がいないのだ。