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第9話

「だが」


 再び信長が声を発する。


「せっかく出会えた舅殿と戦うというのは気が引ける。どうであろう?条件を飲めば考えぬでもないが」


「条件とは?」


「舅殿が儂の天下布武に手を貸してくれることよ」


 信長は道三が劉備から鞍替えするならば、劉備の逃避行を見逃してやろうという。


 道三にとっては不利益のない話であるし、自身がこの世界に来たのは信長の力になりたかったと、死の間際に強く思ったからであった。


 しかし道三は即決できずにいた。


 道三の瞼の奥に劉備の姿が浮かびあがる。

まだ仕官して間もないのに、道三は劉備に惹かれていた。


 容貌は皇族どころか、むしろうだつのあがらない風体なのだが、手を差し伸べたいと思わせる不思議な魅力に溢れ、それが道三の心を捕らえていた。


(らしくない……)


 道三は自答した。己自身、裏切りや謀略でのし上がった男である。


 冷徹で、鋭い毒牙で噛みついたら骨の髄まで喰らいつくす。そこから蝮の異名がついたくらいなのに、劉備のことを思う今の自分にはその頃の影は消え失せていた。


 いわば牙を抜かれた老蛇であった。


「舅殿?」


 信長は思い悩み押し黙る道三をしばし静観し、声をかけた。


「交渉は失敗じゃな……」


 道三はぽつりと呟いた。


 できることなら劉備と信長に手を組んでもらいたかった。


 だが、今信長が劉備側に寝返ったところで、対曹操の勝算はない。むしろ死地へ追い込むことになってしまう。


 劉備と信長の間で揺れている道三にそんなことはできない。かといって、このままでは劉備が危険である。


「信長殿、儂は劉備をなんとしても逃がすぞ」


 道三は立ち上がった。


「ならば致し方なし」


 道三の宣言を受け、信長も覚悟を決めた。


「では、戦場でまみえよう」


 そう言うと道三は幕を出、信長の陣を後にした。


「半兵衛、戦略を変更する。これより劉備軍攻撃に移る。全軍に進軍指示を出せ」


 信長の後方で様子をうかがっていた半兵衛にそう告げると、信長は帰蝶の幕へ向かい、半兵衛はすぐさま将兵に指示を伝えに行動した。


「濃よ……すまぬ」


 信長は帰蝶の幕に入るなり、呟くような小声で謝った。


「殿?どうなさったのです?」


 信長は事の顛末を帰蝶に話した。


「殿」


 居住まいを正した帰蝶の発した言葉は、意に反して威厳に満ち、力強かった。


「あなた様はこの世界に参って腑抜けたのではございませんか?以前のあなた様ならば、『蝮ごと焼き尽くせ』と命じるでしょう」


 帰蝶は信長のしょぼくれたような態度を見て、奮起させるための言葉を放った。


 信長は呆気に取られた。普段は決して見せない強い態度は新鮮で驚きを隠せない。


「私のことなど気になさらず、あなた様が天下布武へ向かう道をお進みください」


「……うむ。有り難い」


 信長は帰蝶に背中を押され、改めて意を決した。



 利政こと道三は、来た時の倍の速さで劉備の下へと急いでいた。


 平野に吹きすさぶ寒風など気にしている余裕はない。劉備をなんとしても逃がすと決心した。


 だが信長と曹操、二人の覇王に挟まれてはとても逃げ切れるものではない。


 ただでさえ兵力は乏しく、士気も芳しくない。さらに劉備の片腕である関羽がいないのだ。

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