「竜也! コラ! 起きろ竜也!」
「ん? んん~……あと五分……」
「それしか言えねーのかアンタは!」
パーンッ
「ドワッフ!?」
福与が俺の耳元で、大きな風船をパーンさせた。
「痛い痛い痛い! 鼓膜が痛い! これは流石にやりすぎだぞ福与! 良い子が真似したらどーすんだ!?」
「大丈夫、その子が本当に良い子なら、こんなこと真似しないはずだから」
「悪いことしてるって自覚はあるんだな!?」
直接的な暴力は振るわなくなった代わりに、最近は間接的な暴力を振るうようになってきた。
まあ、俺が自力で朝起きられないのが悪いと言われたらそれまでなのだが、それにしたってもうちょっと優しくしてくれたっていいだろうに。
冴子みたいに、キスして起こしてくれとは言わないが……。
「さあ、さっさと着替えなよ。アタシの朝練に遅れるだろ」
「へいへい」
師匠が死んだあの日から約一ヶ月が過ぎた。
あの日以来、冴子は朝、俺を起こしに来てくれなくなった。
その代わりまた福与が起こしに来るようになったのだが、例によって起こし方がアレなので、俺は毎日平穏とは真逆の朝を迎えている。
俺は食パンを齧りながら福与と二人で、今はもう誰ともすれ違うことのなくなった廊下を、玄関に向かって歩いた。
あの後、俺は親父から師匠の生い立ちを聞いた。
師匠の親父さんは桜紋会の立ち上げメンバーの一人で、俺のじいちゃんの右腕とも呼べる存在だったそうだ。
だが師匠がまだ幼い頃、師匠の親父さんは、他の組との抗争中にじいちゃんのことを庇って死んだ。
その時既にお袋さんも病気で亡くしていた師匠は、以降、夜田家で育てられることになる。
師匠と俺の親父は年も近かったせいもあり、兄弟同然に暮らしていたらしい。
じいちゃんは親父には会長としての心得を、師匠には夜叉としての技術を、それぞれ授けた。
そして師匠は高校を卒業すると同時に、独りで麻雀の武者修行の旅に出た。
「桜紋会にもしものことがあったら、必ず戻る」
とだけ言い残して。
それから数十年後。
風の噂でじいちゃんが病に倒れたと聞きつけた師匠は、桜紋会に戻って来た。
そして俺と出会った。
改めて振り返ってみても、なかなかに壮絶な人生だ。
師匠のあの悪鬼を彷彿とさせる麻雀の強さは、麻雀に人生の全てを賭したからこその結果だったのだろう。
「……重いな」
「ん? 何か言ったかい?」
「いや、何でもねー」
「……」
福与は何か言いたげだったが、俺は気付かないフリをして玄関に向かった。
すると玄関の前に、兄貴が立っていた。
雰囲気から察するに、俺を待っていたのだろう。
てことは、今夜もか……。
「竜也」
「言わなくてもわかるよ兄貴。今夜もなんだろ?」
「……そうだ。頼むぞ、お前だけが頼りだ」
「へいへい、光栄ですね」
「……竜也」
福与が心配そうな眼で、俺を見ている。
「心配すんな福与。俺は敗けねーよ。俺には、師匠がついてるからな」
俺は自分の胸を、親指で指しながら言った。
「……そうだね」
今夜も桜紋会で賭場が立つ。
俺は今、
師匠の死は、瞬く間にここら一帯に広まった。
今まで師匠に辛酸を舐めさせられてきた他の組は、ここぞとばかりに桜紋会に麻雀の勝負を挑んできた。
だが夜叉の名を引き継いだ俺は、それらをことごとく返り討ちにした。
燕返しも百発百中で決まり、相手の待ち牌もピンポイントで読めた。
自分でも不思議な感覚だったが、それはまるで、師匠が俺に乗り移ったかのようだった。
いや、実際そうなのかもしれない。
何故なら俺は今、まったく悲しくないからだ。
常に俺のすぐ側で、師匠が見守ってくれているかのように感じるのだ。
もちろんそれが、ある種の現実逃避なのは自覚している。
でも今の俺には、師匠の死を真正面から受け止めるだけの余裕は、いろんな意味でなかった。
あるいは師匠の死の実感から目を背けるために、俺は麻雀に没頭しているのかもしれない。
「寒ッ!」
すっかり冬の色が濃くなった通学路を、俺と福与は歩いていた。
「男のクセに軟弱だねえ。アタシは別に寒くないけど」
「お前みたいに筋肉の毛皮を着てる人間と一緒にしないでくれ」
「アンタの毛皮も剥いでやろうか?」
「ヒィッ」
背筋が一層寒くなった。
「……竜也」
「ん?」
「そろそろ何とかしなよ、冴子のこと」
「……」
「アンタ冴子の彼氏だろ?」
「……そうだな」
あれから冴子は、露骨に俺のことを避けるようになった。
放課後も毎日用事があると言って俺より先に帰ってしまうし、前述のとおり、朝も起こしに来てくれなくなった。
クラスにいる時も、ろくに目も合わせてくれない。
まあ、無理もないけどな。
神経が図太い福与と違って、冴子はか弱い女の子だ。
あんなトラウマレベルの経験をして、普通にしてろってほうが無理がある。
多分俺と接するとあの日のことがフラッシュバックしてしまうから、俺のことを避けてるんだろう。
でも福与の言う通り、そろそろ俺も、冴子と向き合わなくちゃいけないよな。
たとえどんな結果になろうとも、今のままでいるよりはずっとマシなはずだ。
「何度も言うけど、もしも冴子を悲しませるような真似をしたら、アタシがアンタの尻子玉を握り潰すから、覚悟しときな」
「河童かお前は!? ……最善は尽くすよ」
「結果を出さなきゃ意味ないよ。それは麻雀も同じだろ?」
「……まあな」
暗に麻雀と同じくらい、冴子のことも考えろと言われている気がして、胸が痛んだ。
正直この一ヶ月は三代目夜叉としての責務を果たすことに必死で、冴子のことまで頭が回っていなかったのも事実だ。
俺は冴子の彼氏なのに。
冴子が苦しんでいる時に、一番側で支えてあげなきゃいけない立場なのに。
「話してみるよ。今日の放課後、冴子と」
「……しっかりやんなよ」
「ああ」
「じゃ、アタシは朝練行くから」
「おう」
朝練に向かう福与の背中は、何故か少しだけ小さく見えた。
「冴子、今日は一緒に帰らないか?」
「! 竜也君……」
放課後、今日もそそくさと独りで帰ろうとしている冴子に、俺は急いで声を掛けた。
「……ダメか?」
「…………ううん、いいよ。一緒に帰ろ」
冴子は一瞬考え込むような仕草をしたが、すぐに笑顔になり、そう言った。
「そっか! じゃあ行くか」
「うん」
ただ、冴子のその笑顔は、俺に言いようのない不安を抱かせた。
「……冴子」
「ん? なあに、竜也君」
俺と冴子は俺達が初めてキスをした、人気のない裏通りを歩いていた。
まだ時刻は四時ぐらいだが、既に辺りの景色は夕陽に紅く照らされている。
そういえば冴子と初めてキスをした時も、こんな射すような夕陽だった。
……師匠が死んだあの日も。
「……ごめんな」
「……」
「あの日は本当に、怖い思いをさせたよな。本当にごめん」
「……ううん。謝らなきゃいけないのは私のほうだよ。私が無理矢理ついて行きたいなんて言ったから」
「そんなことはねーよ! 冴子が一緒に来てくれて、俺はすっごく心強かったし!」
「……」
「でも、結果的に冴子をあんな目に遭わせることになっちまったのは、俺の責任だ! 本当にすまなかった!」
俺は平身低頭して謝った。
「竜也君、お願いだから頭を上げて。私はもう、気にしてないから」
「そ、そうか」
冴子の言葉に、俺は少しだけホッとして、顔を上げた。
「……でもごめんね」
「?」
「やっぱり私は、竜也君とは付き合えないよ」
「え」
俺は後頭部を、鈍器で殴られた様な感覚がした。
今、竜也君とは付き合えないって言ったか?
そんな……。
「……なんで」
「勘違いしないでね。竜也君のことが嫌いになったとか、危険な目に遭うのが怖いとか、そういうのが理由じゃないの」
「じゃ、じゃあなんで!?」
それ以外に、どんな理由があるってんだよ……。
「……やっぱり私じゃ、敵わないなって、実感しちゃったの」
「敵わない?」
誰に?
「……福ちゃんに」
「福与?」
「あの時、竜也君は私を相棒に指名してくれたけど、私は怖くて動けなかった」
「!」
「でも福ちゃんは、自分から相棒に名乗り出た。福ちゃんのそんな勇ましい姿を見て、私の中で何かが、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じたの」
「そんなッ! そんなことで冴子が引け目を感じる必要はねーよ! 福与はほら、普段から荒事に慣れてるから、動じてなかっただけだって」
「そんなわけないじゃない! 福ちゃんだって普通の女の子なんだよ! 竜也君も本当は気付いてるんでしょ? あの時、福ちゃんがずっと震えてたこと」
「! それは……」
確かにあの時、福与の肩は、小刻みに震えていた。
「それなのに福ちゃんは、恐怖に打ち勝って前に出たの。……なんでだと思う?」
「……」
「……私より、竜也君に対する想いが強かったからだよ」
「!」
「だから私には、竜也君の側にいる資格はない。その資格があるのは……福ちゃんだけなの」
「……冴子」
「それに前にも言ったでしょ? 竜也君が本当に好きなのは、福ちゃんなんだよ」
「いや! それは――」
「福ちゃんと麻雀してる時の竜也君、とっても楽しそうだったよ」
「っ!」
「正に共に背中を預け合う、人生の相棒って感じだった」
「相棒」
ドクンッ
!?
冴子のその言葉を聞いた瞬間、俺の心臓が大きく跳ねた。
そしてその鼓動はどんどんテンポを上げていき、俺の全身に高温の血液を巡らせた。
俺の頭の中には、福与の顔が浮かんでいた。
何かにつけて俺に暴力を振るう福与。
一生懸命テニスに打ち込む福与。
とても友達想いの福与。
意外と涙もろい福与。
――そしてあの日、俺の相棒として一緒に牌を握った福与。
そうだったのか。
俺は福与のことを……。
「自分で言うのもなんだけどね、竜也君が私のことを好きって言ってくれてるのは、噓じゃないと思うの」
「……」
「ただ、福ちゃんへの想いのほうが大きいってだけで」
「……冴子」
「だからね、私は竜也君への想いも、竜也君からの想いも、両方福ちゃんに敗けてるの」
「冴子、それは……。っ!」
俺は冴子の顔を見てハッとした。
冴子はいつの間にか、大粒の涙を流しながら微笑んでいた。
「福ちゃんと幸せになってね、竜也君。女の子にここまで言わせたんだから、男を見せなかったら、怒るよ、私」
「冴子、俺は……」
「今までありがとう、竜也君」
「冴子!」
「……大好き
「!」
「さよなら」
「冴子ッ!」
冴子は涙を横に流しながら、夕陽を背に走り去っていった。
俺は涙でぼやけた視界で、冴子の背中を見送っていた。
――こうして俺の初恋は、初冬の黄昏と共に、終わりを告げた。
「……堕理雄」
「……沙魔美」
「また泣いていたわよ、あなた」
「……そうか」
悲しい。
とても悲しい夢だった。
青春なんてありきたりな言葉では言い表せない、胸が締めつけられる夢だった。
……本音を言うと、俺は今まで冴子さんに対して、少しだけ嫌悪感があった。
実状はどうあれ、俺の母親から俺の父親を奪ったとも取れる状況になっているのだから、誰でも俺の立場だったら、似たような気持ちになるのではないだろうか。
でも、今日の夢を見て、その考えが少し変わった。
親父とお袋と冴子さんのことに関して言えば、誰が悪いわけでも、誰に責任があるわけでもないのだ。
そもそも男女の問題に、絶対的な善悪など存在しないのかもしれない。
誰が悪かったわけでもない。
強いて言うなら、巡り合わせが悪かった。
ただ、それだけだ。
「ねえ堕理雄」
「ん? 何だ」
「私を見て、何か言うことがあるんじゃない?」
「え? 何かって……あれ!? なんでお前、亀甲縛りで縛られてんだ!?」
「フフフ、たまには堕理雄の気持ちを理解するために、自分を亀甲縛ってみるのも、アリかなって思って」
「すまん、お前の言ってることが一ミリも理解できない」
「嗚呼、でもこれ、もがけばもがく程縄が食い込んで、とってもクるわね……。私の中の、新しい扉が開いちゃいそう……」
「……」
顔を赤らめながら悶える沙魔美を見ていると、俺の中でも新しい扉が開きかけたが、俺はそれを必死に抑えた(抑えられたとは言ってない)。