『只今電話に出る事ができません。ピーという発信音の後に――』
「クソッ! 兄貴にも繋がらない!」
「竜也君、とりあえずメッセージだけでも残しておいたら?」
「ああ、そうだな……」
俺は兄貴のPHSの留守電に、師匠がクリボッタ付近で
何故か桜紋会の事務所や親父と兄貴も、みんな連絡がつかず、やむなく俺と冴子の二人で、クリボッタへの道をひた走った。
頼むから、無事でいてくれよ、師匠。
「あれ? そんな慌ててどこ行くのさ二人共?」
「っ! 福与!」
「福ちゃん」
「? 何かあったのかい?」
運悪く、部活帰りの福与と会ってしまった。
……どうする。
俺の頭に一瞬、福与も一緒に来てくれるように頼むという選択肢が浮かんだ。
だがすぐに、その考えを振り払った。
本当は冴子も一緒に行かせたくはないのだ。
この先に待っているのは、『本物の闇』かもしれないから……。
何とか適当に誤魔化して、福与だけでもこの件から遠ざけなければ。
「い、いやー、別に何でもねーよ。なあ冴子?」
「え? う、うん……」
「……嘘だね」
「えっ!?」
何故バレた!?
「何年アンタと一緒にいると思ってんだい。アンタが嘘ついてる時の顔なんて、目をつぶっててもわかるよ」
「見えてないのに!?」
「……話してみなよ。何かマズいことが起きてるんだろ?」
「いや、それは……」
「竜也君、福ちゃんにも説明して、一緒に来てもらおうよ。今は一人でも多いほうが安心だし、どっちにしろ、こうなったら福ちゃんは絶対に引かないよ」
「ハハッ、流石冴子は、アタシのことよくわかってるじゃないか。さあ、観念して話しな」
「……」
しょうがないか。
正直、こうやって言い争ってる時間も惜しいくらいだ。
「……わかった、事情は話す。ただそれは、クリボッタっていうパチンコ屋に向かいながらにさせてくれ。とにかく急ぎの用なんだ」
「了解。すぐに行こう」
ハッ。
いちいち言動がイケメンなやつだ。
男だったら、さぞかしモテただろうに(今でもM男には引っ張りダコだが)。
不謹慎にも俺は、そんなことを考えていた。
「誰もいないね」
福与が呟いた通り、クリボッタの前は閑散としており、人っ子一人いない。
「アタシは店の裏の方を探す。竜也と冴子は店の店員に、怪しい男を見なかったか聞いといてくれ」
「オイ福与! 危ないから一人では行動するな!」
クリボッタに来る途中で、走りながら福与に事情を説明すると、
「わかった。アタシも一緒に師匠を探しに行くよ。来るなって言ったら、竜也の全身の骨を砕いて、タコみたいにしてやる」
と脅された。
「怖ぇよ! なんでお前は俺に対してだけ、そんな嗜虐的なんだよ! ……来るなとは言わないけど、くれぐれも無茶だけはしないでくれよ」
「はいよ。任せてくれよ、アタシは生まれてから一度も、無茶をしたことがないんだ」
「本当かよ!? 嘘クセーな!?」
と言った先からこれだ。
もしも店の裏に、握井達が隠れてたらどうするつもりなんだ。
「あ! 福ちゃん待って! ここに壊れたPHSがあるよ!」
「「え」」
冴子の駆け寄った先を見ると、見覚えのあるPHSが、壊れて道路脇に捨てられていた。
「……間違いない、これは師匠のだ」
てことは、やっぱり師匠は誰かに襲われて、どこかに連れて行かれたのか?
辺りを念入りに見渡すと、少し離れたところに、赤い跡が付いているのが見えた。
あれは!
近付いて見ると、確かにそれは血痕に違いなかった。
血痕は目の前の小さな交差点を、右に曲がった方向に続いている。
あっちは……。
「
鈍頼商店街は、今では全ての店舗が潰れて廃墟になってしまった商店街で、普段は人がほとんど寄り付かない、とても気味が悪い場所だ。
あそこなら後ろ暗いことをするのに、うってつけだろう。
「アタシは先に行ってるよ!」
「! 福与! 待てって!」
あのバカ! 一人で突っ走りやがって!
早速約束破ってるじゃねーか!
だから福与は連れてきたくなかったんだ……。
「待てよ! 福与!」
福与は俺の声を完全に無視して、息一つ乱れぬ綺麗なフォームで、鈍頼商店街の方にダッシュしていく。
流石はとっくにテニス部を引退しているにもかかわらず、未だに毎日部活に出ているだけはある。
帰宅部の俺とは、体力が違う。
「待っ……て……福……与」
呼吸するのさえ苦しくなっている俺を置いて、既に福与は豆粒程の大きさになっている。
「ゴヘッ!」
遂に俺は苦しさのあまり、その場に倒れ込んでしまった。
クソッ! こんなことなら、普段から少しだけでも運動をしておくんだった。
「大丈夫、竜也君!?」
「冴子……」
冴子が俺に追い付いて、俺を起こしてくれた。
「ありがとう冴子。まったく、福与のやつ、あれだけ無茶はするなって言ったのに」
「でも福ちゃん、あそこで何かの建物を、ドンドン叩いてるよ」
「え?」
冴子が指差した方に目を向けると、冴子が言った通り、福与がある建物のドアを思い切り叩いているのが見えた。
血痕はその建物に続いている。
あそこに師匠が拉致られてるのか!
あの建物は……
間違いない。
師匠はあそこだ。
「おっと動くなよそこのアベック。手を挙げてこっちを向け」
「「!」」
今時アベックって!?
後ろから鼻につく声が聞こえたので振り返ると、髪をぴっちりと七三分けにした、いかにもチンピラ風の男が、拳銃をこちらに向けて立っていた。
俺は冴子に目配せし、二人でゆっくり両手を上げた。
「……お前が握井か?」
「いいや、俺はただの握井さんの舎弟だ」
ということは、やはり師匠を襲った首謀者は握井なんだな。
「お前らは『夜叉』の仲間だな?」
「……弟子だ」
「へえ? 夜叉は弟子は取らないって聞いてたけどな。ま、どーでもいーか。って、うおっ!?」
「チィッ! 外したか」
いつの間にか福与が俺達のところに戻って来て、いきなり七三に跳び蹴りを浴びせたが、すんでのところで七三は福与の蹴りを躱した。
「あっぶねーな。最近の女子高生は、ヤクザに平気で跳び蹴りしてくんのかよ」
そう言うと七三は、拳銃を福与に向けた。
「……やれるもんならやってみなよ」
「へえ、肝も据わってんねえ」
「挑発するな福与! オイ七三!」
「七三!?」
「俺はどうなってもいい! だからこの二人には手を出すな!」
「! 竜也……」
「竜也君……」
「かー、かっこいーねー。カワイ子ちゃん二人のために、自らの命を差し出す王子様ってか? いやー、若いねー。オジサンにもあったなー、そういう頃」
「ふ! ふざけたこと言ってんじゃ――」
ドゴッ
「ぐあっ」
「でも、それを決めるのは俺じゃねーからなー」
「竜也!」
「竜也君!」
七三が俺の腹に、思い切り前蹴りを入れてきた。
「とりあえず三人共、雀荘の中に入ってもらおうか。あっ、鍵が閉まってて入れねーのか。ちょっと待ってろ」
七三は銃口を俺達に向けたまま、左手でPHSを操作して誰かにかけた。
「もしもし、俺です。やっぱり握井さんの言った通り、外に夜叉の仲間が来てました。今からそっちに連れてくんで、鍵開けてもらえますか?」
「よお竜也。俺に貸す金は持って来てくれたか?」
「師匠! 無事だっ――」
っ!!
師匠は雀荘の椅子に縛りつけられていた。
頭は鈍器の様なもので殴られたらしく、血で真っ赤に染まっている。
そして師匠の腹には――
深々と出刃包丁が突き刺さっていた。
「し、師匠ッ!!!」
「心配すんなよ竜也。急所は外れてる。こんなもん、唾付けときゃ治るって」
「そんな……そんなわけないだろ!! 今すぐ病院に――」
「オイそこの小僧、それ以上わめいたら、今すぐ夜叉を殺すぞ」
「!」
一番奥で椅子にふんぞり返っている、顔が傷だらけの男が冷たい声で言った。
師匠のPHS越しに聞いた声だ。
……こいつが握井か。
よく見ると、右耳も付いていない。
随分昔に、鋭利な刃物で切り取られた様に見える。
握井の周りには舎弟と思われる男が三人立っており、俺達の後ろには先程の七三と、その他に二人の男が、こちらに銃口を向けて立っている。
福与はそれでも堂々としたものだが、冴子はすっかり怯えて、顔が真っ青になってしまっている。
「……なんでこんなことをしたんだ」
「ん? 言ってる意味がわからんな」
「お前も代打ちなんだろ!? 師匠に麻雀で勝てないからって、暴力に訴えるなんて、勝負師として恥ずかしくないのかよ!」
「それは違うな小僧。勝負師として一番恥ずかしいのは、敗けたままでいることだ」
「なっ!?」
「逆に言えば、どんな手を使ってでも、相手をこの世から消せば、俺はそいつに勝ったことになる」
「ふ、ふざけんな!! そんなのは屁理屈だ!! お前は自分の敗けを認めたくないから、師匠を殺して、それを有耶無耶にしようとしてるだけだ!!」
「いや、そいつの言う通りだぜ竜也」
「! 師匠……」
「勝負師の世界は、文字通りの殺し合いの世界なんだ。『死んだほうが敗け』、これが鉄則だ。そういう意味じゃ、俺は弱かった。悔しいが、俺の敗けさ」
「そんな……そんなのって、あんまりじゃないか師匠……」
「師弟の感動的なシーンに水を差すようで悪いが、俺も暇じゃないんでな。小僧、お前には死んでもらう」
握井が右手を軽く上げて合図すると、握井のすぐ横にいる男が胸元から拳銃を取り出し、俺に向けた。
「クッ!」
「竜也!」
「竜也君!」
「ああそれと、後ろの女二人はヤク漬けにしてから、金持ちのジジイに売り払うから、用意しとけ」
「なにっ!?」
「……そんなことしてみな。舌噛んで死んでやる!」
「ヒッ……福ちゃん……私……」
「心配すんな冴子、冴子は絶対にアタシが守る」
「待ってくれ! 俺はどうなってもいい! だから二人のことは助けてくれ!!」
「ヒャッヒャッヒャ! またかよお前! お前それしか言えねーのか!」
七三が嫌味な笑い声を上げながら言った。
「黙れ」
「あ、す、すいません」
握井が凄むと、七三は一瞬で大人しくなった。
「……そうだな、いいことを思いついたぞ。小僧、お前は夜叉の弟子だそうだな」
「え? ……そうだけど」
師匠から聞いたのか……?
「ならお前が夜叉の代わりに、麻雀で俺と勝負しろ」
「は?」
「幸いここは雀荘だ。
「……そんな」
「当然俺が勝ったら、夜叉とお前は殺す。そして女二人は、この世の地獄に直行だ」
「……」
待ってくれよ。
俺が師匠の代わりに、麻雀で戦う?
正直今の俺は、師匠の足元にも及ばないのに?
握井は師匠程ではないにせよ、
そんなやつに、俺なんかが勝てるのか……?
しかも俺が敗けたら、みんなは……。
「よしわかった。それでいこう」
「っ! 師匠!?」
「竜也、お前も俺の弟子なら腹を括れ。どっちにしろ、それしかみんなが助かる道はねーんだ。大丈夫、お前は俺の自慢の弟子だ。こんな腰抜け野郎なんかにゃ、絶対敗けねーよ」
「……師匠」
「冴子ちゃんも福与ちゃんも、それでいいかい?」
「え……はい」
「アタシはそれで構わないよ」
「よし、勝負成立だ。頼んだぜ、竜也」
「……ああ」
……やってやる。
師匠に自慢の弟子だって言ってもらえたんだ。
師匠の顔に泥を塗るような真似だけは、死んでもできねえ。
「話はまとまったようだな。こっちから三人メンツを出したら、お前も納得しないだろうから、そっちの女二人の内、好きなほうを相棒に選べ」
「えっ?」
相棒を?
冴子か福与から?
俺は後ろを振り返り、冴子と福与の顔を見た。
冴子は相変わらず青白い顔をしており、半分涙目になっている。
福与も相変わらず好戦的な顔をしており、拳を強く握り締めている。
……正直、麻雀の腕は冴子のほうが圧倒的に上だ。
そもそも福与は麻雀には大して興味がないので、アガリ
できれば相棒は、冴子にお願いしたいが……。
「……冴子、頼めるか?」
「……」
「……冴子?」
「……ごめんなさい、竜也君」
「え?」
「さっきから私、ずっと震えが止まらないの……。きっと私じゃ、竜也君の足を引っ張っちゃうと思う……」
「そ、そうか」
そりゃそうだよな。
冴子は普通の女の子だ。
こんなこと、本来なら頼むこと自体、おかしなことなんだ。
「……アタシがやるよ、竜也」
「! ……福与」
「そんな顔すんなよ。実はアンタには黙ってたけど、アタシは麻雀五段なんだ」
「麻雀に段位はないけど……」
福与なりに気を遣ってくれているのか。
よく見ると福与の肩が、少しだけ震えている。
……そうだよな。
普段は強がってはいるけど、福与だって冴子と同じく、普通の女の子であることには変わりはない。
それでも福与は恐怖に敗けまいと、必死に自分を奮い立たせているんだ。
俺も、男を見せなきゃな。
「福与、頼む。俺に力を貸してくれ」
「ハハッ、しゃーないから、頼まれてやるよ」
「竜也君、福ちゃん……」
「少しだけ待っててくれ、冴子。必ず助けるから」
「……うん」
「これが終わったら、アタシが冴子にチューしてやるからな」
「フフフ、待ってるね、福ちゃん」
「竜也」
「……師匠」
「『全体を見ろ』よ」
「!」
『全体を見ろ』。
それは麻雀の稽古中に、いつも師匠から言われていたことだった。
目に見えるものだけを見るのではなく、目に見えない場全体の空気感や、運気の流れを読むことこそが、麻雀の極意だ、と。
「わかったよ、師匠。こんな勝負さっさと終わらせて、すぐ病院に連れてってやるからな」
「さっきも言ったろ、俺は大丈夫だ。今は目の前の勝負にだけ集中しろ」
「ああ」
「よし、卓につけ小僧。さっさと終わらせたいのは、俺も同じだ」
そんな余裕ぶっていられるのも、今の内だぞ握井。
お前は絶対に許さない。
師匠に代わって、俺が引導を渡してやる。
「勝負は
「!」
ナンデモアリというのは、つまり『イカサマ』もアリということだろう。
望むところだ。
今日こそ、師匠直伝の燕返しを見せてやる。
「お、クソガキ、お前の親からだ。精々頑張れよ」
七三が緊張感のない声で言った。
握井の相棒に七三が選ばれたのは少し意外だったが、多分麻雀ができるのが七三しかいなかったのだろう。
ただこいつは、手つきが明らかに素人だ。
その証拠に、指に麻雀ダコができていない。
こっちの相棒の福与も素人だから、条件は五分といったところか。
つまり、単純に俺と握井の実力勝負ってことだ。
俺の
そして最初の親は俺。
これはチャンスだ。
俺は牌山に
これを燕返しで上がれば、
俺はまだみんなが配牌を揃えている隙を縫い、覚悟を決めて燕返しを仕掛けた。
――が。
「残念だったな、小僧」
「なっ!?」
握井に俺の腕を掴まれ、俺は牌山を崩してしまった。
何故バレたんだ!?
俺の燕返しのスピードは、師匠にだって負けてないはずだ!
それが何故……。
「お前はワザを仕掛けようって気が出すぎなんだよ」
「!」
握井が俺の心を見透かしたように言った。
「確かに燕返しのスピードはなかなかのもんだったが、仕掛けるタイミングがわかってるなら、防ぐのは然程難しくない。夜叉の弟子だっていうから少しは期待してたんだが、期待外れだったな。夜叉の燕返しは、いつ仕掛けたのか、気配すら感じさせなかったぜ」
「……そんな」
やっぱり俺じゃダメだったのか。
俺じゃ、師匠の代わりは務まらないのか。
「竜也、顔を上げな」
「! ……福与」
「まだ勝負は始まったばっかだろ。アンタは師匠が唯一認めた男なんだ。自信を持ちなよ」
……フッ。
まさか福与に背中を押されるとはな。
「……ああ、そうだな。サンキュー、福与」
「後でチョコレートパフェ奢りね」
「わかったよ」
「イチャついてるとこ悪いがよ、今のはお前のチョンボ(※反則行為)だぜ? 早く罰金払えよ」
七三がいやらしい声で言ってきた。
「……ほらよ」
俺は三人に4000点ずつを支払った。
麻雀では親がチョンボをした場合は、全員に4000点ずつを支払うことになっている。
これで大分厳しくなった。
しかももう燕返しは使えない。
だが、師匠から教わったイカサマは他にもある。
必ず勝機はあるはずだ。
今はその時をジッと待つんだ。
――しかし、次の局。
「リーチだな」
握井がリーチをかけた時に、それは起こった。
「あれ?」
「ん? どうした福与」
「あ……いや、何でもない」
「?」
まあいい、今は握井のリーチに集中だ。
とはいえ、幸い握井の捨て牌にも、俺の手牌にも『
麻雀は自分が捨てた牌では上がれないことになっているので、南は俗に言う
とりあえず南を切って様子を見よう。
俺はそっと南を捨てた。
「ロン」
「え」
握井の口から、信じられない言葉が飛び出してきた。
こいつ自分の捨て牌を見てないのか!?
だが握井の捨て牌を見て、俺は愕然とした。
今さっきまで南があった場所に、今は『
そんなバカな!?
確かにあそこには、南があったはずだ!
「リーチ一発三色オモウラ、
開かれた握井の手牌の中には、確かに南が入っていた。
「はっははー! 流石は握井さん!」
「……なんで」
いや、そんなの決まっている。
握井がすり替えたんだ。
こいつ、『拾い』をやりやがったな。
拾いというのは、自分の手牌と捨て牌をすり替えるイカサマで、燕返し同様高度な技術が必要とされるが、その分効果は絶大だ。
何せ、今みたいに安全牌を当たり牌に変えることができるのだ。
その上他の人の捨て牌と自分の手牌を交換すれば、他の人よりも圧倒的に早く、
おそらく福与が「あれ?」と言った時は、福与の捨て牌とすり替えたのだろう。
これはマズいぞ。
これでもう、安全牌は一つもないようなものだ。
何かないか……、何か手は……。
だが、何も糸口が見出せないまま、無情にも勝負は最終局を迎えてしまった。
俺も何とかイカサマを駆使して奮闘はしたものの、俺と握井の点差は31000点も離れてしまっている。
俺が勝つためには、上がり点が32000点の
その上最後の親は七三だ。
麻雀は親が連チャンする限り勝負は続くが、七三は上がらずにこの局を
つまりチャンスはこの局しかない。
神にも祈る想いで配牌を開けたが、役満はおろか、倍満すら難しい牌姿だった。
俺は暗い地獄に下ろされた、一本の蜘蛛の糸を登る様な気持ちで、手役を高めていった。
しかし、残り三巡となったところでも、俺の手牌は倍満にすら届いていなかった。
……クソ、ダメか。
ゴメン師匠。
やっぱり俺は、師匠みたいにはなれないよ……。
「竜也」
「……師匠」
「さっきも言っただろ。『全体を見ろ』」
「!」
……師匠。
師匠はこんな俺でも、まだ期待してくれてるってのか。
…………。
パンッ
「うおっ!? 何だよクソガキ! ビックリさせんなよ」
「悪いな。ちょっと気合を入れただけだ」
俺は自分の頬を、思い切り両手で叩いた。
そうだ、まだ勝負は終わってない。
見ろ。
全体を見ろ。
何かまだ、見落としてることがあるはずなんだ。
「竜也」
「福与?」
福与は唇を真一文字に引き結んで、力強い瞳で俺を見つめていた。
ありがとう福与。
俺は今度こそ、諦めないよ。
何としてでも、絶対にこの勝負に勝ってみせる。
その時だった。
俺の頭の中に、一瞬閃光が走り、ある考えが形を成した。
……もしかして。
いや、きっとそうだ。
もうこれしか、逆転の手はない!
俺は腹から声を出して言った。
「リーチ!」
「なにいっ!?」
「……ホウ」
マヌケな声を上げた七三とは対照的に、握井は至って冷静だった。
そりゃそうだろう。
役満なんてそうそう出るものじゃない。
仮に俺の手が倍満だとしても、残り三巡安全牌を切っていればいいだけだ。
福与が手配を捨てた後握井の番になったが、この時、握井は初めて少しだけ笑った。
「ククク、最後の最後で多少は楽しくなってきたじゃないか。何とか倍満を聴牌したか? だが残念だな。俺の手牌にはお前の捨て牌がたっぷり残っている。もちろんお前が『拾い』をしないように、俺は常に見張っているぞ。拾えるものなら拾ってみろ」
「グダグダうるせーな。あんたの番だろ。さっさと切れよ」
「……ハッ。まあその減らず口もあと三巡だ。精々今の内に吠えておけ」
握井は手牌から、俺の捨て牌にもある東を抜き出して捨てた。
「ロン」
「は?」
今度は握井がマヌケな声を上げる番だった。
それもそうだろう。
ロンと言ったのは、
「こ、小娘……お前まさか」
「そのまさかだよオッサン。
「そ、そんなバカな……。その捨て牌で、国士だと……」
無理もない。
国士無双は
しかし福与は奇跡的にも、配牌の時点で么九牌を過剰に持っていたらしく、捨て牌の初期の頃は么九牌が多く並んでいた。
これでは国士と読むのは難しい。
あるいはそれが俺だったら握井も警戒しただろうが、福与は明らかな素人だ。
無意識の内に、福与のことは視界から外してしまっていたのだろう。
だが俺はあの瞬間、福与が国士を聴牌していることに気付いた。
福与が唇を真一文字に引き結ぶのは、高い手を聴牌している時の癖だからだ。
その上福与はアガリ役を半分くらいしか覚えていない。
中でも役満は国士しか知らないのだ。
あの時点で福与が握井から上がるとしたら役満以外は有り得ないから、消去法で、福与は国士を聴牌していることになる。
だから俺の役目は、確実に握井から福与の当たり牌を引き出すことだった。
捨て牌の雰囲気から当たり牌は東と踏んだ俺は、俺の捨て牌にも東があることを確認した。
後は聴牌していない手配でリーチをかけ(バレたら反則だ)、握井の手牌に東があれば、高確率でそれを捨てるだろう。
結果は蜘蛛の糸よりも更に細い糸を、何とか登り切ってのゴールといったところだ。
正直今回は運が良かった。
でも勝ちは勝ち。
勝負の世界は結果が全てだ。
何とか師匠の名誉を、ギリギリ守れたか……。
恐らく師匠はこういう意味も含めて、『全体を見ろ』と言ってたんだな。
麻雀は機械と戦ってるんじゃない。
あくまで人間と戦ってるんだ。
つまり、自分の手牌だけを見ているのではなく、常に相手の顔を観察し、その人の気持ちになって場を考えるのが大事なんだと。
これは何も、麻雀に限った話ではないかもしれないけどな。
「竜也君! 福ちゃん!」
「冴子」
冴子は涙で目を真っ赤にしていた。
「ごめんなさい、私……何の役にも立てなくて……」
「そんなことないよ冴子。冴子がいてくれたから、アタシも頑張れたんだ」
「福ちゃん……」
「そうだよ冴子。謝ることなんてないよ。あんな状況で、図太く『アタシがやるよ』なんて言える、福与が異常なんだからさ」
「どうやらタコにされたいようだね」
「ヒッ」
パーン
「「「!!」」」
握井が天井目掛けて拳銃を発砲した。
「舐めやがって……。無効に決まってんだろ、こんな勝負」
「なっ!? キタネーぞお前!」
「何とでも言え。続きはあの世で喚いてろ」
握井が銃口を俺に向けた。
クソッ!
せっかく麻雀には勝ったのに!
ここまでなのか……。
「そこまでだ」
「!」
この声は。
「待たせたな。竜也」
「……兄貴」
振り返ると、そこには兄貴と桜紋会のみんなが、三十人近く雪崩れ込んでくるところだった。
「お、お前は桜紋会の若頭の……」
「うちの弟とセンセイが世話になったな、
「何だと!?」
「今しがた桜紋会総出で、仁凍会に話をつけに行ってきた。お前は仁凍会を正式に破門だそうだ。後は、俺達の好きにしていいとさ」
「そ、そんなはずはない……。俺が今まで仁凍会に、どれだけ貢献してきたと思ってるんだ!」
「そんなお前が、麻雀以外の方法で
「う、嘘だ……。俺は信じないぞ……。会長が、そんな……」
握井はうわ言の様に、「嘘だ……嘘だ……」と繰り返していた。
そうだったのか。
みんなで仁凍会に出向いていたから、誰も電話に出なかったのか。
「ちなみに破門は、ここにいる全員も同様だ」
「ハアアッ!? ちょっと待ってくれよ! 俺は握井さんに脅されて、仕方なくやっただけなんだよ!」
七三が泣きそうな声を上げた。
「それは俺の知ったことではない。とにかく全員来てもらう。オイ、連れていけ」
桜紋会の組員達が、握井達を外に連れ出していった。
七三は最後まで抵抗していたが、握井は魂が抜けた様に大人しくなっていた。
「……兄貴、あいつらをどうするんだ?」
「……お前は知らないほうがいい」
「……」
俺は握井に対して、同情とは違う、複雑な感情を抱いていた。
それは『代打ち』という仕事に対する、恐怖に似た何かだったのかもしれない。
ひょっとしたら、握井は未来の俺の姿なのか?
俺も一歩道を踏み外したら、握井の様になってしまうのか?
そんな疑問が、俺の心の中を支配していた。
「ガハッ!」
「っ! 師匠!」
師匠が突然、血を吐いて苦しみ出した。
「兄貴! 急いで救急車を呼んでくれ! 早く!!」
「……竜也、センセイは……」
「っ!? 何突っ立ってんだよ兄貴! 早くしてくれよ!!」
「いいんだよ竜也。どうせ救急車を呼んでも、無駄足になるだけだ」
「! ……師匠……嘘だろ? 急所は外れてるって言ってたじゃないか!」
「ああでも言わねーと、お前がそうなるのはわかってたからな。夜叉ジョークってやつだ」
「そんな……師匠……。笑えねーよ……そんなの」
「センセイ、本当に申し訳ありません。俺がもう少し早く、仁凍会と話をつけられていたら」
「お前が謝るこたぁねーよ。竜也には言ったが、こうなったのは全部俺が弱かったせいだ」
「そんなことはございません。俺は、センセイを……」
兄貴の声色が変わったので兄貴のほうを向くと、兄貴は涙を流しながら奥歯を嚙みしめていた。
「兄貴……」
あの常に冷静だった兄貴が、泣いているところは初めて見た。
「竜也」
「! 何だ、師匠」
「……頼みがある」
「! 師匠、嫌だ! そんな、今生の頼みみたいなのはやめてくれ!」
「……『夜叉』の名は、お前が継いでくれ」
「っ! ……師匠、ダメだよ……。俺にはまだ、その名前は重すぎるよ……」
「いいや、お前はもう大丈夫だ。それにな、お前は夜叉の名の、
「……え? どういうことだよ!?」
「先代が、
「兄貴!? 先代って……」
俺達のじいちゃんが!?
パラパラが趣味の、あのじいちゃんが!?!?
そんな話、初めて聞いたぞ!?
「俺達の苗字は『夜田』だろ? 夜田の『夜』から取って、先代は『夜叉』と名乗っていたそうだ」
「そんな……」
なんて安直な。
「お前がセンセイから夜叉の名を継ぐまでは、先代が初代夜叉であることは秘密にしてくれと先代から言われていたから、今まで黙っていたんだ。すまん」
「なんでじいちゃんは秘密に……」
「お前には、夜叉の名に縛られずに、自由に生きてほしかったからだろうよ」
「……師匠」
「だからお前が自分の意志で、二代目夜叉である俺の弟子として稽古に励む様を、先代はあの世で大層喜んでることだろうぜ」
「……そうかな」
パラパラの練習してるだけだと思うけど。
「ガハッ! ガハッ! ゴフッ!」
「師匠!」
師匠の吐血が、一層酷くなった。
「師匠! 死なないでくれよ! 師匠!!」
「竜也……本当のことを言うとな……俺は、お前のことを、自分の息子みたいに思ってたんだ」
「え」
「毎朝廊下で俺とすれ違ってただろ? あれは偶然じゃない。冴子ちゃんや、福与ちゃんが俺の部屋の前を通り過ぎる音を聞いてから、お前の部屋に向かって廊下を歩いてたんだ。お前の顔を見るためにな」
「師匠……師匠……」
俺は涙で、師匠の顔がぼやけて見えなくなっていた。
「冴子ちゃん、福与ちゃん」
「……はい」
「……うん」
冴子と福与も、涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。
「うちのバカ
「……はい」
「……任せてよ」
「フ……竜也」
「……ああ」
「今まで楽しかった……ありがとよ」
「……師匠!!」
「また……な」
師匠はゆっくりと、瞼を閉じた。
その顔は、とても安らかだった。
「師匠ーーー!!!!!」
「師匠!!」
「堕理雄!? 師匠って誰!?」
「……沙魔美」
「泣いてるわよ、あなた」
「……ああ。あれ!? なんでお前、巫女さんの格好なんてしてるんだ!?」
「やっぱり泣いてる堕理雄を慰めるには、巫女さんが一番かなと思って」
「まったく意味がわからないよ……」
俺の涙を返してくれよ。