「竜也君、起きて。もう朝だよ」
「ん? …………冴子。……そっか、朝か」
「また昨日も遅くまで麻雀の稽古してたの?」
「ああ……まあ、な。俺には一刻も早く師匠を超えるっていう使命があるからさ」
「そっか……。でもあまり無理はしないようにね」
「ああ、わかってるよ」
「じゃ、早く着替えて学校行こ」
「おう」
……今日も福与は来てないか。
あの日以来、福与は朝、俺の家に来なくなった。
まあ、幼馴染二人のあんな場面を目撃しちゃったらなあ……。
そりゃあ気まずいよなあ。
俺と冴子が廊下を歩いていると、向こうから咥え煙草の師匠が歩いてくるのが見えた。
「オウ竜也。今日も青春してるじゃねーか」
「だからそういうんじゃねーから、冷やかさないでくれよ。それより師匠、俺、ついに燕返しをマスターしたぜ! 今夜見てくれよ」
「へえ、ホントかねえ。ま、いいぜ。帰ってきたら見てやるよ」
「おはようございます師匠さん」
「ほいよ。冴子ちゃんも、大概物好きだねえ」
「えっ? えっ?」
「? どういうことだ、師匠?」
「何でもねーよ」
「? 変なの」
「うう……」
今までずっと三人で歩いてきた通学路を二人で歩くのには、正直まだ慣れていない。
冴子と昨日観たテレビ番組の話なんかをしていると、ふと、
「福与は観たか、昨日の番組?」
などと、誰もいない空間に話し掛けてしまい、その度に気まずい空気が流れた。
しかし冴子はあの時、何て言おうとしたんだろう……。
福与がダッシュで逃げていったことが、俺も冴子も衝撃的すぎて、結局冴子の「……私の好きな人はね……」という台詞の続きは、あのあと聞けなかった。
でも状況的に考えて、多分それって俺のことだよなあ……。
もういっそ、「お前の好きな人って俺?」って聞いてみるか!?
いやいやいや、ダメだダメだそんなの!!
万が一俺の勘違いだったら、恥ずかしくて憤死してしまう!
「どうしたの竜也君? 顔真っ赤だよ」
「あ、ああ! 何でもないよ!」
「……ふーん」
冴子は今、どういう気持ちなんだろう……?
あの日以来、冴子はあの日のことを一切口にしていない。
冴子と目が合う度にドギマギしてしまう俺とは対照的に、冴子は至っていつも通りだ。
もしかして、あれは俺が見た白昼夢だったなんてオチはないだろうな?
……いや、そんなことはない。
あれは紛れもない現実だった。
福与があれ以来よそよそしくなったのが、その証左だ。
それにしても、もしも本当に冴子の好きな人が俺だったら、俺はどうするんだ?
……正直、福与も冴子も当たり前の様にずっと隣にいたから、今までそういうことは考えてこなかった。
でも俺達ももう高三だし、恋愛とかするのが普通なんだよな?
俺は冴子のこと、どう思ってるんだろう……。
もちろん冴子のことは好きだ。
でもそれが、世間一般的に言う『好き』という気持ちなのかと聞かれると自信がない。
何せ恥ずかしい話だが、俺はまだ初恋すらしたことがないのだ。
ヤクザの息子として生まれた以上、そういうものとは縁遠いと思ってたしな……。
「……ねえ竜也君」
「え!? な、何だ冴子」
「あの日、竜也君は好きな人はいないって言ってたじゃない?」
「え……ああ、そうだっけ?」
ついにきたか。
あの日の続きが。
「今でもそう思ってる?」
「え……っと、それは……」
これは何て言うのが正解なんだ!?
「……私は、竜也君には好きな人がいると思ってるよ」
「は!? なんでそんなこと冴子にわかるんだよ!?」
「フフフ、わかるよ。ずっと側にいるんだもん」
「……そうなのか」
ホントに?
俺自身でさえ、わかっていないのに?
「もしかしてそれって……」
……冴子か?
「……福ちゃんだよ」
「…………え」
今何て言った?
「福……与?」
「うん。竜也君が好きな人はね、福ちゃんだよ」
「なっ!? なんでここで福与が出てくるんだよ!?」
「だって竜也君気付いてないでしょ? 竜也君は福ちゃんと喧嘩してる時、とっても楽しそうな顔してるんだよ」
「え……そんな……」
マジで!?
マジで俺そんな楽しそうな顔してるの!?
全然自覚なかったぞ。
「そして多分福ちゃんも……竜也君が好きだと思う」
「は!? 福与が!? 俺を!?」
そんなバカな!?
「そんなわけねーじゃん! あいつは何かにつけて俺に暴力振るってくるんだぜ!? 俺のこと好きだったら、そんなことしねーだろ!?」
「福ちゃんは照れ屋だから、ああいう形でしか自分の好意を示せないんだよ。普通女の子は、何とも思ってない男の子に、理由もなくちょっかいをかけたりしないよ」
「そ、そうなの……?」
冴子に言われると、そんな気もしてくるけど……。
「だから……ね? 一度福ちゃんと、二人で話してみて」
「え?」
「竜也君も、自分の本当の気持ちを確かめたいでしょ?」
「あ……うん、それは……」
そうだけど……。
――冴子はそれでいいのかよ、という言葉を、危うく俺は飲み込んだ。
それきり俺と冴子は、無言のまま、学校までの無機質な道を並んで歩いた。
「あれ、竜也? 何してんだよここで?」
「ああ、まあ、ちょっとな」
「?」
放課後、今日も一人でそそくさと部活に行ってしまった福与を、俺は部活が終わるまで一人で待っていた。
傍から見たら完全にストーカーだよなとソワソワしながら、それでも辛抱強く待った。
福与はいつも居残って、一人で日が傾くまで練習しているので、幸い今日も福与は一人で帰ろうとしていた。
「……実はさ、お前にちょっと話があるんだよ」
「話?」
「ああ……」
うおおお。
いざ目の前にするとメチャクチャ緊張してきた。
あれ?
そもそも俺、なんで福与に会いにきたんだっけ?
そうだそうだ!
冴子に変なこと言われたからだ。
俺と福与が『両想い』だなんて……そんなわけないのに。
だからそれとなく、それを確かめにきたんだ。
「あの……さ」
「……両想いなんだろ?」
「え!?」
まさか福与の方から切り出してくるとは!?
やっぱり俺達って……。
「冴子と」
「……は?」
冴子と??
「冴子と……誰が?」
「……アンタがだよ」
「へ?」
思わずマヌケな声が出てしまった。
いやでも、正直話の流れについていけない。
朝は冴子から、『俺と福与は両想い』だと言われ、今は福与から、『俺と冴子は両想い』だと言われた。
何だ何だ、いったい何が起きてるんだ!?
俺は、何を信じたらいいんだよ!?!?
「この間はごめん、急に逃げたりして。アタシもちょっとビックリしちゃってさ。……でも冴子から告白されたんだろ? よかったじゃん。アンタ昔から冴子のこと好きだったもんね」
「え?」
俺が?
冴子を?
それに告白って……。
俺はまだ、告白されたわけじゃないんだが。
「まあ、アンタは鈍いから、自覚はなかったかもしんないけどね。でもアンタはいつも冴子のこと気に掛けてただろ? 子供の頃、冴子が風邪で学校休んだら公園でお花摘んでお見舞いに行ったり、中学の時なんか、冴子にセクハラした変態教師をブン殴って停学になったりもしたよね」
「ああ、そういえば……」
あったな、そんなことも。
「その度にアタシは、冴子愛されてるな~って内心思ってたもんだよ。……だからアンタは絶対に冴子を幸せにしてやんなよ。冴子のこと泣かしたら、アタシがアンタの頸椎と心臓と股間と喉仏を潰すから、覚悟しときな」
「着々と標的が増えてる!?」
お前は何回俺を
「ま、そういうわけだからさ。また明日ね」
「お、おう……」
心なしか早歩きでさっさと帰っていく福与の背中を、俺はただ呆然と見ていた。
正直頭の中がグチャグチャだ。
俺は人気のない裏通りの家路を歩きながら、先程の福与との遣り取りを反芻していた。
結局俺は、誰が好きで、誰に好かれてるんだ?
自分の気持ちさえわからないとは、ほとほと自分が情けない。
「竜也君」
「え? …………冴子」
不意に声を掛けられ顔を上げると、そこには冴子が立っていた。
夕日が逆光になっていて、表情はよく見えない。
「……なんで冴子がここに」
「……待ってたの。竜也君のこと」
「俺を?」
「うん」
「……」
何のために?
「……福ちゃんとは話せた?」
「……ああ。でもあいつ何か勘違いしてたわ。俺と冴子が付き合ってると思い込んでたよ。冴子を泣かせたらタダじゃ置かないって脅されて、マジ怖かったぜ」
「! ……福ちゃんからそう言ったの?」
「え……そうだけど?」
「そう……」
その瞬間、冴子の表情は依然として見えなかったが、纏っている雰囲気が変わったような気がした。
「じゃあ、私ももう、遠慮はしないね」
「え? 遠慮って?」
ガバッ
「なっ」
あの日と同様、突然冴子に抱きつかれた。
だが今回は、あの日よりも俺に抱きつく冴子の力が強い気がする。
「さ、冴子……?」
その時、逆光で見えていなかった冴子の表情を、俺は間近で見た。
冴子は今にも零れそうな程、涙を眼いっぱいに浮かべていた。
「竜也君……私は……竜也君が好きです」
「!」
「ずっと……ずっと昔から竜也君のことが好きだったの。たとえ竜也君が他の誰を好きでも、竜也君のことが好きだって気持ちは誰にも負けない。……だから……お願いだから……私と付き合ってください」
「……冴子」
まだ残暑の厳しい季節だというのに、寒空の下で凍える幼子の様に、冴子の身体は震えていた。
冴子から伝わってくる胸の鼓動も、あの時よりも確実に早い。
そして、捨てられた子犬の様な眼で、俺の顔をジッと見つめている。
その眼を見た途端、俺は身体の中心が急激に熱くなるのを感じた。
その熱は瞬く間に全身に広がり、俺の心臓はドクンドクンと早鐘を打ち始めた。
気がつくと、俺は冴子のことを抱き締めていた。
「! ……竜也君?」
「……本当に俺でいいのか?」
「! …………うん」
「俺はヤクザの息子で、将来は代打ちを目指してるような、ろくでもない男なんだぞ?」
「ううん。竜也君はろくでもなくなんかないよ。周りの人からは勘違いされがちだけど、本当はとっても優しい人だって私は知ってる。それに代打ちだって、立派なお仕事じゃない」
「……冴子」
「……竜也君」
俺は冴子を抱き締めている手を緩め、冴子の肩の上に手を置き、冴子と見つめ合った。
「……ありがとう。俺、冴子のこと一生大事にするよ。約束する」
「! ……竜也君」
ついに冴子は堪えきれず、大粒の涙をボロボロと零した。
俺はその涙を指で拭った。
「冴子、好きだよ」
「私も、大好き」
俺達は軽く触れるくらいの、初々しいキスをした。
いつの間にか、夕日は西の空に沈んでいた。
「堕理雄! 堕理雄ッ!! 起きて堕理雄!!」
「ハアッ! ……沙魔……美……」
「あなたまたうなされてたわよ。またこの前の悪夢の続き?」
「……ああ、そうだ……って、えっ!?」
俺はパンイチに亀甲縛りで宙吊りにされていた。
「あれっ!? 沙魔美! これはどういうことだ!?」
「民間療法だけど、悪夢には亀甲縛りが良いって聞いたから……」
「息を吐くように嘘をつくな!! そんな治療法、聞いたこともない!!」
ただでさえ自分の親父がお袋以外の人とキスする瞬間を体感して、大変困惑しているというのに。
「ま、まあまあ、カリカリするとお肌に悪いわよ。ふわ~あ、むにゃむにゃむにゃ。何だか元気そうな堕理雄の顔を見たら眠くなってきちゃった。じゃ、おやすみー」
「え!? 待て沙魔美! そもそも明らかに俺は元気そうな顔じゃないし、寝るなら俺の縄を解いてからにしろ! 沙魔美コラ!」
「くかー、すぴー、むにゃむにゃむにゃ……バングラディッシュ!(?)」
「爆睡してやがる……」
寝付き良いにも程があるだろ……。
あ! どうしよう……トイレ行きたくなってきたんだけど……。