ピンポーン
ん?
誰だろう?
今日は午後から沙魔美の買い物に付き合うことになっているので、そろそろ家を出なければいけないのだが。
新聞の勧誘かな?
「はーい。どちら様でしょうか。――ッ!?」
ドアを開けて目の前にいた人物を見て、俺は鳩が沙魔美のビンタを喰らったような顔になった。
「お休みのところすいません。今度お隣に引っ越してきた者です。これ、つまらないものですが……って、アレ!? 堕理雄君!?」
「……
そこには俺の元カノが立っていた。
彼女の名前は
俺が高校の時、付き合っていた元カノだ。
菓乃子とは高校三年間ずっと同じクラスで、席も隣になることが多かったから、自然と仲良くなった。
そして三年生の秋ぐらいに、どちらからともなく付き合い始めた。
ただ、常に成績がトップクラスだった菓乃子と違って、俺の成績は中の下くらい。
既に国立大学への推薦を貰っていた菓乃子と同じ大学に通うべく、俺なりに猛勉強したのだが、結果は敢え無く轟沈。
菓乃子は国立大学へ、俺はFラン大学へと旅路は別れた。
その後はよくある話で、なんとなくお互い気まずくなり、段々と疎遠になっていった俺達の関係は自然消滅――。
それなのに。
何故今、俺の目の前に菓乃子が立っているのだろう。
俺は訳がわからず、ただただ菓乃子の顔をボーッと見つめていた。
「ひ、久しぶりだね堕理雄君。まさか引っ越し先のお隣さんが、堕理雄君だなんて夢にも思ってなかったから、ビックリしちゃった」
「あ、ああ、俺もビックリしたよ……。でも、菓乃子はどうしてここに? ここは、あんま菓乃子の大学からも近くないだろ?」
「うん、そうなんだけど……。私、どうしても一人暮らしがしたくてね。でも大学の近くは、どこも家賃が高くて。折り合いをつけると、このアパートがちょうどよかったの」
「ふーん、そうなんだ」
どうしてそこまでして、一人暮らしがしたかったのかな?
確か菓乃子の実家も、大学からそれ程距離は離れてなかったはずだ。通学が辛いからって理由じゃなさそうだが、何か事情があるのだろうか?
まあ、今の俺に、そんなことを聞く権利はないのだが。
それにしても、改めて見ると菓乃子もすっかり大人っぽくなったな。
高校の時はいつもスッピンで、どちらかというと素朴な女の子だったが、今は髪も茶髪にして、うっすらとだがメイクもしている。
頬のラインも、いささかシャープになったようだ。
菓乃子と最後に会ってから一年ちょっとしか経っていないが、大学に入ってからの一年間というのは、女にとっては蛹から蝶に羽化するのに十分な年月のようだ。
「何だか大人っぽくなったね、堕理雄君」
「え、そう?」
菓乃子も同じことを思っていたのか。
自分ではまったくそうは思わないが、菓乃子の目にはそう見えるのかな?
「それを言ったら、菓乃子のほうがずっと大人っぽいよ。その髪もよく似合ってるし」
「ふふ、ありがと。でも、私のはただの背伸び。堕理雄君は、ちゃんと内面から大人になってる感じがする。まるで、数え切れないくらいの修羅場をくぐり抜けてきたみたいに」
「ハハハハ、そんなことないよ……」
女の勘スゲー。
それとも俺の顔に、歴戦の老兵みたいなシワが刻まれているのだろうか。
「……今の彼女さんの影響もあるのかな?」
「えっ!?」
今何と言った!?
今の彼女!?
なんで俺に彼女がいるってわかったんだ!?
今のも女の勘か!?
女の勘怖いッ!
女はみんな魔女なのかッ!?
「……なんで俺に彼女がいるってわかったのかな?」
「ふふ、大したことじゃないよ。――それ」
「あ」
菓乃子は俺の首に下がっているネックレスを指差した。
誕生日に沙魔美から貰ったものだ。
そういうことか。
俺は高校時代、こういったアクセサリーを身につけるのが好きじゃなかった。
周りがチャラついて、指輪やらピアスやらで自分を着飾るようになってからも、俺だけは頑なにそういったものから一歩距離を置いていた。
菓乃子もそれを知っているから、俺がネックレスを下げているのを見て、新しい彼女の影を感じたのだろう。
実際このネックレスが、俺が生まれて初めて身につけたアクセサリーだ。
「いや、あの、これは……」
「ふふ、別にそんなに隠そうとしなくてもいいじゃない。悪いことじゃないんだし。よかった、堕理雄君が幸せそうで」
「あ、ああ、うん。まあ……ね」
「――でも、ちょっと彼女さんが羨ましいな」
「えっ」
「どうも、私が伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンです」
「キャアア! ど、どちら様ですか!?」
「――!!」
マズい。
マズいマズいマズいマズいマズい――!!
いつからいたのかわからないが、今の現場を伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンに見られてたのか!?
だとしたら非常にマズい。
沙魔美にチクられたら絶対に誤解される。
そして俺の命はもちろん、今日で人類の歴史も終わってしまう。
沙魔美にチクられるのだけは、何としてでも阻止しなければならない。
「なあ伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサン! お前にシャンプーをプレゼントしたいんだけど、どのメーカーのが好きなんだ!?」
「えっ、堕理雄君、この方とお知り合いなの?」
「あー、まあ、ちょっとした腐れ縁でね。事情は後で説明するからさ」
「う、うん……」
「よし、伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサン、遠慮せず好きなメーカーを言ってみろよ」
「……SAB〇Nのが好きです」
「あーなるほど、SAB〇Nのね」
それ結構高いやつじゃねーかー。
くっ、だが全人類の命には代えられない。
「わかったよ! 今度SAB〇Nのシャンプー買ってくるから、くれぐれもこのことは沙魔美には……」
「……わかりました。私も……うっ!」
「!? どうした!? 伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサン!?」
「うっ、うっ、うがああああ!!!」
伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンが断末魔の叫びを上げると、伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサンの全身にヒビが入り、次の瞬間、木端微塵に弾け飛んだ。
そしてその中から……。
――ガイナ立ちの沙魔美が出現した。
「ヒ、ヒイイイイイイ!!!」
「キャアアアアアアアア!!!」
「ご機嫌麗しゅう、堕理雄。今日はいい天気ね。ところであなたの辞世の句は、『うわっ……私の余命、短すぎ……?』でいいかしら?」
「あ……あ……あ……」
「堕理雄君!? この方ともお知り合いなの!?」
「はじめましてカワイイお嬢さん。私は堕理雄の
「――! あなたが……」
……終わった。
600万年にわたる人類の歴史が今日。
これは俺のせいなのか?
だとしたらごめんね、アウストラロピテクス。
せっかく君達が渡してくれたバトンを、俺は後世に渡せなかったよ。
「これは別に深い意味があって聞くわけじゃないのだけれど、お嬢さんは先程、『ちょっと彼女さんが羨ましいな』と仰ってなかったかしら?」
「えっ、聞いてたんですか?」
胃が痛い……。
今にも胃に穴が開きそうだ。
頼む菓乃子、アウストラロピテクスのためにも、ここは上手く言ってくれ――!
「たまたま耳に入っただけよ。それで? どうなのかしら?」
「……確かにそう言いました」
「……へえ」
ファーーーーー!!!
ドンマイ、アウストラロピテクス!!
今までありがとう!!
そして、ありがとう!!
「でも別に、私が堕理雄君と付き合いたいって意味じゃないです」
「えっ?」
「えっ?」
「お二人の関係が羨ましいって意味です。だって今の堕理雄君、とっても幸せそうな顔してるんですもん。私と付き合ってた頃よりもずっと……。だから私がお二人の関係に割って入るなんてあり得ません。だってお二人は、こんなにもお似合いのカップルなんですから」
「ア、アラ、そうかしら」
「……」
そうだな。
菓乃子は昔からこういう子だった。
誰かの幸せを、自分の幸せのことのように心から祝福できる子。
だからこそ、昔の俺は菓乃子のことを好きになったんだ。
「だから病野さんが思ってらっしゃるようなことは、何も心配いりませんから安心してください。じゃあ、私はこれで失礼します」
「え、ええ」
俺達に軽く会釈すると、菓乃子は自分の部屋に消えていった。
沙魔美からも、ドス黒いオーラは消え去っていた。
何とか、アウストラロピテクスにも顔向けできそうだ。
「でも堕理雄。まさかあなたこれで、アウストラロピテクスにも顔向けできそうだ、なんて思ってないわよね?」
「え……思っちゃダメなの?」
とりあえず俺の部屋に沙魔美と入ったのだが、その途端、俺はベッドに押し倒されて上記の台詞を沙魔美に言われた。
「私はまだ全てを許したわけじゃないわよ。とりあえず、今あの女が堕理雄を狙ってないのは、百歩譲って認めるとしても、堕理雄とあの女が付き合っていた過去は、決して消えないのだから」
「……じゃあ、どうすれば許してくれるんだ」
「……堕理雄はあの女と、何回したの?」
「……ハ?」
したって?
アレをか??
「いや! そんなの覚えてるわけないだろ!」
「ふーん。少なくとも、覚えていられないくらいの回数ってことね」
「いや、それは、あの……」
「いいわ、ちょっと待ってて」
「?」
沙魔美は自分のスマホを取り出すと、それにフッと息を吹きかけた。
すると、スマホから禍々しいオーラのようなものが溢れ出てきた。
「沙魔美……それは……」
「静かにしてて」
そう言うと、沙魔美はスマホに話しかけた。
「堕理雄とあの女がした回数は?」
「!」
ピピッ
『堕理雄とあの女がした回数は、合計49回です』
「!!」
「なるほどね」
何だそのチートアプリ!?
もしかしてそれ、知りたいこと何でも教えてくれるのか!?
これは今まで見た魔法の中で、一番エグい気がする……。
「私と堕理雄がした回数は、聞くまでもないわ。私は全部覚えてるもの。合計41回よ」
「あ……そうなんだ……」
「というわけで、堕理雄、私が言いたいことはわかるわよね?」
「いや、どうだろう……」
わかりたくないというか……。
「今日は買い物に行くのはキャンセルしましょう。その代わり、あの女との回数を超えるまで、今からするわよ」
「えっ? 今から?」
しかも9回も?
それは流石に死んじゃうぜ。
「で、でも沙魔美、このアパート壁が薄いし……隣に聞こえちゃうよ」
「もちろんそんなの百も承知よ。だからいいんじゃない」
「……」
助けてママー!