気付けばイヴォンヌは自分の部屋のベッドの上で寝ていた。
恐らくセネクスが運んでくれたのだろうと思いつつ身支度をして礼を言うためにダイニングに向かえば、ウルラが帰ってきていたようで、朝食の準備をしつつ「おはよう」と声をかけてきた。
そしていきなり「朝食を終えたら、演習するわよ」と宣言されて、イヴォンヌは目が点になる。
自習期間が短くなったことに焦りを覚えたが、あれよあれよという間に告げられていた約束の時間になり、ウルラのツリーハウスで暮らしている者たちは今、その前に広がる草原の庭に集結していた。
昨日の野外料理の残り香がイヴォンヌの鼻腔に微かに入り込んできたが、緊張でそれどころではなかった。
――自分の目の前に、ウルラが杖を構えて立っている。
いよいよ本番だと思うと、頭の中が真っ白になる心地に襲われる。イヴォンヌはごくりと喉を鳴らして唾を飲み込み、身体の強張りを少しでも解そうとした。
だが、ウルラの杖を見やれば、あの奇妙な瞳のような二つの石が彷徨うようにして視線を動かしていたので、すぐにまた身体が硬直する。
「…あら。予想通りの並びね」
そんな不気味なウッドスタッフを手にしつつも、ウルラは対峙する三人を見て笑った。
ラウロ、セネクス、イヴォンヌと、昨日の事件もあってラウロに対し猜疑心を抱いたイヴォンヌは自然とセネクスの隣に立っていたし、ラウロもラウロで自分の自由を奪った魔女が憎いのもあり、イヴォンヌとは反対側のセネクスの隣に、人二人分の距離を空けていた。
そんな二人に挟まれたセネクスは肩を軽く竦めてみせると、ウルラがまた小さく笑みを溢した。
「…なんでオレまで…」
至極納得いかないといった風情で呟くラウロに、ウルラが有無を言わさぬ笑顔で不満を押さえつけた。
「昨日の事は聞いたわ」
「!」
ウルラのしっかりした声色に、イヴォンヌは身体をびくりと揺らし、ラウロは途端気まずそうな表情になり、その視線をウルラから逸らした。
そんな二人の様子を確認した後、ウルラはまずセネクスに向き合った
「…まずはセネクスからね。即座に危険を察知して、イヴォンヌを守ってくれてありがとう。さすがは元師団長だわ」
ウルラの称賛に対し、セネクスは表情を変えない。そんな彼に構わず、ウルラは次に「イヴォンヌ」と名を呼んだ。
「っはい!」
「猛牙猪に持てる力全て使って挑んだそうね。偉いわ」
「あ、ありがとうございます…!」
「でも、一点に囚われて周囲が見えずに自分の命を危険に晒すのは、無謀とも言えるわ。今後、そこは気をつけるようにね」
「は、はいっ…」
未だ強張った表情で頷くイヴォンヌを見て満足そうに目を細めたウルラだったが、次に視線を移した少年を捉えると、その瞳を吹雪のような凍てつく色へと変化させた。
「…ラウロ」
「……」
その声色も、イヴォンヌやセネクスに向けたものとは異なっていた。
自分に向けられたものではないと分かっているのに、イヴォンヌは途端、体の奥底から恐怖心が湧き上がってきた。
「イヴォンヌを殺そうとした理由は?」
「…別に言わなくても分かるだろ」
「ええ、そうね」
頑なに自分の非を認めようとしないラウロに対し、ウルラの表情も声も冷ややかだ。
「自分の都合の良い時にしか食事せず、後片付けも全部イヴォンヌ任せ。挙句の果てに、自由を得たいだなんて豪語してみせ、あなたに気を遣ってきた彼女に対し、隙を狙って殺そうとしてみせた」
「……」
「とんでもない悪童ね」
普段は柔和な態度で人と接するウルラが、ここまでラウロを謗るとは、相当腸が煮えくり返っているのが窺えた。
だが、そんな激情を垣間見せたウルラに対しても、はっ、とラウロは嘲った。
「言いたいことはそれだけかよ」
「いいえ。まさか」
だが、その瞬間、ウルラがウッドスタッフの先をラウロに向けて「
「っ!?」
驚いたラウロだったが、咄嗟に風を身体に纏わせてその槍の軌道を逸らした。
だが、風が槍の力に及ばなかったせいで、ラウロの頬と左肩、そして右腹を掠るようにして抉った。
その突然なウルラの行動に、イヴォンヌはおろか、セネクスでさえ目を丸くした。
「…なに、しやがる」
「人の大切な弟子を殺そうとしている輩を、わたしが守る理由はないの」
この意味が分かるかしら?とウルラは続けて尋ねる。
「あなたが今安全なのは、わたしとオーバンの庇護下にいるからよ。…でも、イヴォンヌを殺したら、わたしもオーバンもあなたを許さない」
「っだから、何が」
「あなたが一人の魔法使いを殺したら危険因子と見なされる。狂魔とオルタス、この二つから追われることになるって言いたいの。…少し考えたら、分かることじゃない?」
そのウルラの言葉は想定外だったのか、ラウロは目を見開いた。
そんなラウロに対し、ウルラも再び杖の先を向ける。
「あなたがイヴォンヌに対してやったことは、『狂魔』と同じことよ。だから、わたしにとってはもう排除対象でしかないの」
「!」
「そんな最低で、お馬鹿さんなあなたにひとつ教えてあげる。…自由なんて生きている限り本当に得られるものではないし、それでも求める権利があるのは、真に力ある強い者だけよ」
ああ、でもそうね、とウルラのラウロを見る表情が、嘲笑に変わった。
「あなたはただの最低なお馬鹿さんではなかったわね。…狂魔はおろか、魔法使いにも勝てやしない、哀れな負け犬だわ」
そうウルラが言ってのけた瞬間、ラウロの纏う魔力が一気に昂った。そして、烈火の勢いのごとく風刃がウルラに向かって飛んでいく。
だが、ウルラが静かに「
その様子を見たラウロは強く歯軋りをして、ウルラをきつく鋭く睨み上げた。
「っおまえは、絶対に殺すっ…!」
「やれるものなら、やってみなさい」
そう言うなり、ウルラの身が足先からふわりと宙に浮き始めた。
「演習を開始しましょうか」
大の男五人ほどの高さまで浮いたところで、ウルラが宣言した。
「『三人』で協力して、わたしに一撃加えてみせなさい」
その条件を提示されたセネクスは、冷や汗をかきながら苦笑いした。
「…やってくれるねぇ、ウルラ嬢」
セネクスはそう言いつつ、自らの少し離れた場所で熱り立つ少年を見遣る。
「こんなに怒り狂った坊やと、どう協力すりゃいいっていうんだよ…」
イヴォンヌもセネクスの視線の先を辿った後、どう見ても冷静な状態でないラウロを確認し、宙に浮くウルラを見上げた。
ただ静かにこちらを見下ろし、杖の先を向けている。
そして、先程の残酷ともいえるウルラの言動を突き付けられて、改めて実感する。
――ウルラは罪を犯した数多の同胞を処刑してきた、鴟梟の魔女であると。
「来るぞっ!」
「!」
セネクスの警戒の声にイヴォンヌがハッとすれば、ウルラが杖を掲げていた。
気付けば空一面に埋まりそうなほどの木の槍が矛先をこちらに向けて浮かんでいる。
そしてウルラがその杖の先を下ろすと、それらが一斉に雨のように降りかかってきた。
「サラマンダー!」
セネクスが咄嗟に大蜥蜴を呼び出して炎の壁を三人の前に作り出すが、それでもなお突き破ってくるものが幾つもあり、舌打ちする。
「散開しろ!」
「っはい!」
指示を受けたイヴォンヌは猫の精霊を呼び出して身体強化の魔法を使い、壁から出た後も槍の雨を身軽に避けていく。
だが、避けることしかできない。
「
降りしきる槍を躱しながら、イヴォンヌは呪文を唱えて空高く浮かぶウルラを見据える。
少しでも、攻撃に転じられないか。
イヴォンヌはウルラの隙を高まった視力と予測力で探っていくが、やがて焦燥へと変わる。
(…っダメだ、全然隙なんて見つからないっ…!)
この世で最強格と言われる魔法使い相手に無謀だったと痛感しつつ、イヴォンヌは降り止む気配の見せない槍をひたすらに避け続けるしかなかった。
気付けば、セネクスともかなり距離が空いてしまっている。
これでは、作戦の立てようがない。
なんとかして合流せねばと考えるが、それを分かっているかのようにウルラが誘導して遠ざけてくる。
どうすれば、とイヴォンヌが思考を巡らせているときだった。
宙に留まるウルラに向かって、一直線に飛んでいく影があった。
「っラウロ?!」
槍が身体を抉ってももろともしないラウロの特攻に、イヴォンヌが堪らず驚きの声をあげる。
その夕暮れ色の瞳は怒りと憎悪で滾っており、ウルラを睨みつけているが、対するウルラのラウロを見る目は氷柱のように冷ややかでその身を貫くような鋭さがあった。
「…言ったでしょう、ラウロ」
その目の様子と連なるような声色が、静かに少年に告げる。
「『三人』で協力しなさいと」
「っ?!」
瞬間、風を纏わせていたラウロの周囲からそれらがなくなり、勢いを失う。
宙高い場所でバランスを崩し、そのまま落ちそうになるラウロの身に対して、ウルラは杖の先を向けると、ラウロは金縛りにあったようにその場で動けなくなった。
「なに、しやがっ…」
「そうねぇ。このまま焼いちゃう?それとも隕石のように落としてしまいましょうか」
宙ぶらりんで身動きが取れないラウロに対して、顎に指を当ててうーんとウルラが人差し指を頬に当てて考える素振りをしてみせた後、彼女は挑発的な笑みを浮かべた。
「負け犬は負け犬らしく、地べたを這いずり回ってなさい」
次の瞬間、ウルラが杖を振り下ろすと、その動きに併せてラウロは砲丸を身に受けたが如く勢い良く地面に叩きつけられた。
「がっ…!!」
容赦のない攻撃に、ラウロは堪らず吐血した。内臓を損傷したのかもしれない。
そんなラウロに追い打ちをかけるように、ウルラは槍の雨を降らせる。
「っ!!」
ラウロが辛うじて身を起こし、今にもこちらを貫いてこようとする槍を瞳を大きくして捉えた時だった。
その前に、二つの影が躍り出た。
「火力全開だ、サラマンダー!!」
セネクスと大蜥蜴だ。
片腕を槍に向かって伸ばすセネクスの呼びかけに呼応するようにサラマンダーが鳴けば、先ほどよりも分厚い剛炎の壁が、ウルラの攻撃を防いだ。
「…ったく、やり過ぎだっての、ウルラ嬢っ…!」
未だその壁の向こうで攻撃を仕掛けてきているのを感じたセネクスが毒を吐く。
そんなセネクスの背をラウロが呆然と見ている時だった。
「…大丈夫?」
驚くラウロの背を気遣うように触れてきた手があった。
イヴォンヌだ。
先ほどラウロがウルラに対して単騎特攻をしたお陰で、ウルラの意識がラウロに向いたため、イヴォンヌはセネクスと合流することができた。
「…っオレに、触るな」
だが、そんなイヴォンヌの手をラウロは払い除けた。
「…そうだよ」
「え?」
空気に消え入りそうなくらい小さな声でラウロが呟いたので、イヴォンヌは首を傾げる。
「オレは狂魔に家族奪われて、魔女に助けられ、ウルラやオーバンに守られてないと生きていけない、ただの弱者だ」
「…ラウロ」
「自由になったところで、何一つ自分でできやしない…負け犬なんだよ」
瞳を揺らしながら自嘲するラウロは、そのまま笑い声を上げた。
「……わざわざこうして守ってくれなくても、自分のやったことのケジメくらいはつけるさ」
何もかも諦めた表情を浮かべたまま呟いたラウロが何をしようとしているのか分かったイヴォンヌは、その胸ぐらを思い切り掴んだ。
「っおい?」
「ふんっ!!」
そして、驚くラウロの額に向かって、イヴォンヌは思い切り頭突きした。