この世は、持つ者と持たざる者に別れて生を受ける仕組みになっている。
それは富であり、名誉であり、知性であるだけでなく、耳の長さや尻尾、
かくいうイヴォンヌも、この世界の交易の中心地と呼ばれる国・ケントラムの片田舎にある宿屋の娘としてだけでなく、あるものを持つ者として生まれてきた。
彼女はくすんだ金の長髪をおさげに結い、両頰から鼻にかけて点々とした雀斑がある、一見すると普通の村娘だが、この麦畑が広がるオリリ村での彼女の扱いは特別だった。
「イヴォンヌちゃん、ありがとねぇ」
「いいよ、これくらい。気にしないで」
礼を述べてくる杖をついた老婆の視線の先には、大きな水瓶を両脇に抱えて軽々と持ち上げてみせるイヴォンヌがいる。小柄であるにも関わらず、その様子は誰が見ても至難の業だ。たとえそれが大の男であったとしても、やってのけてみせるのはごく僅かだろう。
だが、イヴォンヌとて単純に自身の身体能力に頼って持ち上げることができたわけではない。
イヴォンヌの右肩に乗ったリスが、おさげ髪をさりげなく掴みつつも顔を覗かせる。
その姿は薄っすらと透けており、小さな身体で隠れて見えないずの麦畑をその身を通して老婆の瞳に映させていた。
この世には、精霊というものが存在している。
それは自然界から人々が行き交う街中まで至る所に暮らしており、生きとし生けるものに繁栄をもたらしてくれると言われている。
だが、精霊と対話できるのは、ごく一部の生者に限られている。それは、精霊が有するエネルギーと同等のもの、つまり魔力を持つ者だ。
魔力を持たざる人々は、この魔力を持つ者を魔法使いと呼んだ。
魔法使いは精霊と対話し、契約することで魔法を使うことができる。
イヴォンヌは、この世に魔法使いとして生を受けた、持つ者であった。
この水瓶の業は、イヴォンヌが契約したリスの精霊による力のお陰だった。腕力と脚力の強化魔法を使ったことで、イヴォンヌはこの老婆の助けとなっていた。
「また何かあったら呼んでね」
「あいよぉ。これ、良かったらお礼で持ってって」
井戸から少し離れた老婆の少し年季の入った木造りの家まで水瓶を運び終えたイヴォンヌは、そのまま自分の家まで帰ろうと踵を返したところで老婆に呼び止められる。
振り返れば、老婆が巾着を手にしており、それをイヴォンヌに手渡してきた。
受け取れば、気分を心地良くさせてくれるような甘く爽やかな香りが鼻孔を擽ってきた。
「裏庭で採れた薬草だよ。煎じて使っておくれ」
「…ありがとう」
イヴォンヌは困ったように眉尻を下げて微笑む。
彼女は魔法使いであるが、薬草の知識はからっきしで、せっかくの厚意を頂いても持ち腐れてしまうと思ったからだ。
かといって突き返すわけにもいかなかったので、イヴォンヌは受け取って手に提げて、砂利で整えられた道を再び歩いていった。
毎度毎度、先の老婆からは水運びの礼として薬草をもらっているが、そろそろ栞やポプリの量も溢れてきた。
いい加減、薬草学を齧ってみるべきかと思うのだが、イヴォンヌの興味の矛先が向けられているのは精霊に関する知識のみだった。それ以外は点で興味が持てず、本を読んでも頭の中に入ってこないのが実情である。
またもポプリ行きか、と肩を落としつつ深く溜め息を吐き、帰路に着けば、この村で唯一の煉瓦造りの我が家の扉の前に、フードを深く被った深緑色のローブ姿の人影があった。
顎に指を当てて、まるでそこから宿の中を全てを見透かしているような雰囲気を出しているその者にイヴォンヌは違和感を抱いたが、「あの」と声を掛ける。
そうすれば、その者はイヴォンヌに振り向いた。女性だ。フードに収まりきらなかった赤葡萄色の波がかった横髪がそよ風で揺れ動き、翡翠を思わせるしっかりとした眼差しが、イヴォンヌを捉える。
イヴォンヌは思わず目が離せなくなった。この農村の風景に似つかわしくない目の前の女性の美しさもあるが、イヴォンヌの中で経験したことのない底しれぬ何かを、この人は持っている気がしたからだ。
「…ごめんなさい。ここの宿の方かしら?」
女性が柔らかく微笑みながら尋ねてきたので、イヴォンヌはハッとして頷く。すると、彼女は安堵したようにはにかんだ。
「良かったわ。しばらくこの地に滞在しようと思っていたところなの」
「は、はぁ…」
「お部屋に空きがあるのなら、しばらくお邪魔してもいいかしら」
どうやら彼女は旅人らしい。女性一人、珍しいし大変だなとイヴォンヌは思う。
だが、こんな辺境の宿に泊まる者は数少ない。貴重な収入源、もとい客であるこの女性を拒む理由もなく、イヴォンヌは「もちろんです」と頷いた。
「ただいま〜」
イヴォンヌが扉を開けて女性を室内に招き入れれば、彼女はそこで羽織っていたロングケープを脱いで軽く畳んだ。
フードで隠れていたが、やはり美人だった。
これは村の男達がこぞってやって来るかもしれないと内心イヴォンヌが思っていると、母が「おかえり〜」とキッチンから間伸びた返事をして、姿を現してきた。
「今晩はアンタの好きなシュクメルリにしようと思ってるんだけど…って、あら、お客さん?」
「うん」
「うん、じゃないわよ!そんな呑気に!…さあさ、こちらへどうぞ〜」
自分を叱る時とは打って変わって声色を高くして女性を案内する母に、今更取り繕っても遅いよと思いつつイヴォンヌは息を吐く。
「もうすぐお夕飯の準備ができますから、もう少々お待ちくださいませ〜」
「ありがとうございます」
母は女性が食卓の椅子に座ったのを確認すると、そそくさとキッチンへと戻っていった。
さて、自分も屋根裏の自室に戻り、老婆からもらった薬草でポプリを作ろうと思い、歩みを進めようとしたところで、視界の端で女性が宙から本を出現させ、手に取ったのを捉えたので、思わず振り返った。
女性はなんてなさそうにスピンを指で摘んで本を広げて読書をしようとするが、イヴォンヌは思わず彼女の目の前で勢い良く音を立てて両手をついてしまった。
「お姉さん、魔法使いなの?!」
興奮気味に尋ねてしまったが、女性はイヴォンヌを見遣ると「ええ、そうよ」と、なんてなさそうに頷いてみせた。
女性は冷静だったが、この村で唯一の魔法使いで他の魔法使いと話したことのないイヴォンヌにとっては一大事件だった。
「どこの国の?」
「シルヴァーナよ」
答えられた場所は、このケントラムから見て北東の隣国である深い森に包まれた土地であり、数多くの魔法使いやエルフに獣人、そして多種多様な精霊が暮らしていることで有名だ。イヴォンヌも一度は訪れてみたいと夢見ている国でもある。
「え、え、じゃあ、契約精霊は?」
思わず前のめりになって尋ねたが、女性は答えるよりも見せる方が早いと判断したのか、右手を左肩に翳すと、純白の羽毛が見事な梟が現れた。
梟といえば、高位精霊だ。
その見たことすらない精霊の姿に、イヴォンヌの感情はさらに昂った。
「フクロウ…!フクロウだぁ!!」
だが、思わず断りもなくそのふさふさな羽根に触れようとしたところで、フクロウはスっと避けてしまった。そこでイヴォンヌは自分が我を忘れかけていたことに気付いて、冷静さを取り戻す。
「ごめんなさい、あたしったら…」
「いいのよ。この子は少し、気難しい子なの」
女性が苦笑いして許してくれたのにイヴォンヌはホッと一息を吐くが、目の前の彼女はその契約精霊から判断するに、間違いなく腕の立つ魔法使いだと悟る。
経験豊富そうな魔法使いと話せる機会なんて、この村にいる限り早々ない。
またとないチャンスを逃したくないイヴォンヌは、この魔法使いの向かいに座って両肘をつき、いろいろと話したい姿勢を示した。
そんなイヴォンヌの意向を察した魔法使いは、本を閉じて手を翳すと、本をその場から消してくれた。応じてくれるということだろう。
「それって、時空間魔法?」
「ええ」
「フクロウって、そういう魔法も使えちゃうんだぁ…すごいなぁ…。あ、だったらさ!」
「?」
「伝説の魔女に会ったことありますか?」
「伝説の魔女?」
聞き慣れないのか、その魔法使いは瞳を瞬かせながら小首を傾げてみせた。どうやら知らないらしい。
明らかに知識も経験も彼女の方が勝っているはずなのに、この様子を見て少しばかりの優越感を抱いたイヴォンヌは、人差し指を立てて得意げに口にしてみた。
「
その二つ名は、魔法使いならば誰もが知っているとされているものだった。
「魔力ある者を生贄にする
狂魔とは、魔力ある者を触媒にして魔界の扉を開き、禁忌とされている魔族との契約を犯してしまい、人々を脅かしている魔法使いのことを指している。
鴟梟の魔女は、その狂魔を討伐する、いわば正義の魔法使いとしてその名を馳せていて、他の魔法使いと関わりのないイヴォンヌでさえ知っており、そして、憧れの存在であった。
「…へぇ、そうなの」
「噂によれば、赤髪に透き通った緑色の瞳、それから返り血が目立たないように緑のローブを着てて、梟を連れているから、二つ名にふくろ、う…が…」
付いているらしい、と続けそうになったところで、イヴォンヌははたと気付く。
目の前にいる魔法使いの外見を。
芳醇なワインを思わせるような赤髪に、全てを見透かしてしまいそうな森のような色の瞳、その瞳の色に合わせたローブに、なぜかこちらを見てニンマリと笑って見せる白い梟。
「…え、は…」
「……」
「え?」
噂で聞いたとおりの特徴にあまりにも合致しすぎている目の前の魔法使いに、イヴォンヌの思考は固まってしまった。
まさか、そんな。
だが、そんなイヴォンヌを見て、魔法使いはくすりと可笑しそうに笑ってみせた。
「ふふ、真似っ子さんかもよ?」
「…ま、まねっこ…?」
「ええ。それに、あくまで噂でしょう?伝説の魔女なら、きっと姿がバレないように変装しているに違いないわ」
そう諭すように言われて、イヴォンヌは「ああ、確かに」と納得した。
こんな辺鄙な場所、しかも狂魔がいない場所に鴟梟の魔女がいるはずがない。
鴟梟の魔女は、狂魔討伐に奔走していると聞く。
こんなところで時間を潰すような魔法使いではないだろう。
「…でも、そうね」
「?」
「あなたの手にある薬草、ただポプリにするだけじゃ勿体ないわよ」
「え?」
魔法使いが指差してきた先を辿るように視線を動かせば、薬草が入った巾着が目にとまった。
「その薬草、疲労回復によく効くものなの。なかなかない薬草だから、ずっと防臭剤に回しちゃうのは可哀想」
「そうなんですか?」
「ええ。薬研で砕いて、他のハーブと合わせてお茶にしたり…薬湯に使うのもいいわね」
「やくとう」
「入浴剤のことよ」
その手があったのか、とイヴォンヌは目から鱗が落ちる心地を実感した一方で、ある疑問が浮かんだ。
「…でも、あの」
「ん?」
「なんであたしがポプリを作ろうとしてたの、知ってるんですか…?」
一言も彼女に言っていなかったことを尋ねれば、目の前の魔法使いは「ああ」と呟いたあと、耳を擽るような声で笑った。
「だってこの家から、この薬草の匂いが充満していて」
「…え」
「あなたからも香ってきたから、きっとそうなんじゃないかって」
指摘されて、カッと頬に熱が集った。
なんてことだ。自分が作り過ぎた防臭剤が、まさか我が家の香りとして定着していたなんて。
イヴォンヌ自身も気付かなかったことに恥ずかしさを覚えていると、魔法使いはおもむろに席から立ち上がった。
「入浴剤にするなら、もう少し新鮮な薬草がもっと必要ね」
「え、あ、でも、もうすぐ夕飯が…」
「近くにあるのでしょう?すぐに戻ってくるわ」
そう魔法使いはイヴォンヌに笑いかけると、ケープを羽織って宿の扉を開けて出て行ってしまった。
なんだろう、とてもマイペースなお人柄のようだ。
一人その場に残されたイヴォンヌは再び両肘をテーブルについて溜め息を吐く。
けれども、今まで持ち腐れてしまっていた薬草の使い道を彼女から学ぶことができたのは、イヴォンヌにとってはとても良い収穫であった。
しばらく滞在すると言っていたし、あの魔法使いから多くの知識を教わることができるだろう。
魔法使いとして一歩前進できることに、イヴォンヌが内心心を躍らせていると、母がキッチンからニンニクの程よい香りをさせる料理をそれぞれ片手に持ちながら現れた。
「お待ちどうさま!…って、あら?あのお客さんは?」
「村外れのおばあちゃんのところに薬草をもらいに行ったよ」
「あらまぁ…せっかく夕飯ができたってのに。ちょっとイヴォンヌ、呼んできてらっしゃい」
まあ、そうなるよなと分かっていたイヴォンヌは「はぁい」と気怠げに返事をして立ち上がり、足早に宿の外へ出た。
せっかくの好物が冷めては、自分としてもがっかりだ。
「ちょっと力を貸してね〜」
そう言ってイヴォンヌが地面に手を翳せば、現れたのはスラリとした脚と尻尾が特徴の猫であった。
この猫もまたリスと同様に、イヴォンヌが契約した精霊である。
猫はイヴォンヌの足元に擦り寄ると、その足に溶け込むようにして姿を消した。
だがその代わりにイヴォンヌの足がこれでもかというくらい軽くなる。
「…ぃよっと!」
そうしてイヴォンヌは跳躍すると、宿屋の隣の家にある屋根の上に着地した。
そうしてさながら猫のように、屋根の上を走っては飛び移り、目的の場所まで向かっていく。
村の中で遠くの地に行くまでにイヴォンヌがよく使う方法だ。
「あ〜…やっぱ屋根の上走るって爽快だわ〜」
イヴォンヌがそう少しだけ悦に浸って次の屋根に飛び移ろうとした、その時だった。
「魔法使い、み~つけた!」
まるで幼子のような高めの声が、耳元で囁かれた。
え、とイヴォンヌの理解が追いつく前に、イヴォンヌの左腹に衝撃が走る。
ついで、痛みを感じ得た。
次の瞬間には凄まじい音がイヴォンヌの耳から身体中に響き渡り、右半身を硬い何かにぶつけられ、イヴォンヌは身体を動かせなくなった。
…一体、何が起きて。
全身に痛みが走り、霞む視界の中、先ほどまで自分が走っていたはずの屋根を見上げることができた。
どうやら、自分は叩き落されたらしい。
「なんだなんだ?」
「イヴォンヌちゃん!」
地面に落とされた音を聞きつけた村人たちが、何事かと家の扉や窓から覗いてきて、イヴォンヌの状態をみた女性が悲鳴を上げる。
その様子を宙で浮きながら見ている何かが、腹を抱えて嗤っていた。
「あーなっさけな!この魔法使い、めっちゃ弱いじゃん!」
上からせせら笑ってきたのは、イヴォンヌと同い年ぐらいに見える少年だった。
銀髪の毛先は黒く、どこかの貴族のような紫のジャケットとハーフパンツを身に纏ったこの少年は、この田舎の村では見たことがない。
そして何より異様だったのは、その少年の腰から灰色の翼が生えていたことだった。
「…なん…なの、あなた…」
イヴォンヌがそう尋ねれば、少年は宙で胡座をかいたまま見下ろしてきた。
そして子供らしくない隈の深い目がイヴォンヌを捉え、口角は歪んだように上がる。
「んー…知らない?知らないか〜そっか〜」
「……」
「ボク、狂魔!」
「…え?」
「ここに魔法使いがいるって聞いて〜。触媒にしたらもっとすごい魔族と契約できるかと思ったんだけど」
期待外れかなぁ。
そう、自分を地面に叩き落としておきながら言ってのける少年に、イヴォンヌは悔しさを覚える。
狂魔は魔族と契約し、並ならぬ魔力を有した魔法使いだ。一介の魔法使いでは敵わないと聞いたことがある。
身体能力を特化させる魔法しか有していないイヴォンヌでは、赤子の手を捻られるような結果に終わるだろう。だが。
(せめて村の人を、ここから逃さなくちゃ…!)
その思いが、イヴォンヌを奮い立たせて、痛む身体を押しつつも身を起こさせようとしていた。
「ま、別に魔力なくてもけっこうな生き血があればそれなりの魔族は現れるっしょ〜」
「…!」
「ここの村、ぜーんぶイケニエ」
そう軽快な口調で少年が言うなり、地面が毒々しいピンク色に光り出した。魔法陣だ。それもかなり広範囲に渡っているようだ。
まずい、このままでは生まれ育ってきたオリリ村が、全てなくなってしまう。
「ま、待ってくれ!」
だめ、とイヴォンヌが少年に言う前に飛び出てきたのは、よく野菜を分けてくれる近所の農夫だった。
それに倣うようにして、他の村人もわらわらと家から出てきて、両膝をついて懇願する姿勢をとった。
「ね、狙いは魔法使いなんだろ?俺たちは関係ねぇ!」
「お願いよ、命だけは…!魔法使いは魔法使いでやっておくれよ!」
「アタシらを巻き添えにしないでおくれ!!」
口々に出される願い事は、イヴォンヌの頭の中を真っ白にさせた。
――彼らは、何を、言っているの?
自分で学んできた魔法を使って、これまでに幾度となくこの村の人達を助け、貢献してきたつもりだったのに、彼らにとっては違ったのだろうか。お互いに協力し合いながら、支え合って暮らしてきていたのだと。あたしはそう思っていたのに。
「魔族との契約は魔力あるヤツで十分なはずだろ!」
「そうよ…!私たちが生贄になる筋合いはないわ!」
どうやらこの村の絆は、自分が思っていたよりも脆いらしい。
誰も彼も、イヴォンヌを庇おうとしなかった。
それは、よく聞き知った声も混ざって耳孔に入り込んできた。
父と母だ。
倒れ伏す娘に近寄りもしないどころか、血の繋がらない他の者に同調するように命乞いをしている。
「…あ、ははっ…」
乾いた笑い声がイヴォンヌの口から零れ落ちたが、喧騒に紛れて掻き消された。
あたしの今までの思いって、なんだったんだろう。
ばっかみたい。
もういっそ、この村ごと自分も滅んでしまえばいい。
そう自暴自棄になった矢先のことだった。
村の地面中に広がっていた魔法陣の光が、砕けるようにして欠片となり、宙に浮かんで霧散した。
「…ん?」
宙から不思議がって見下ろした少年の肩を、閃光が穿つ。
少年はその力に押されて、後ろの屋根に叩きつけられた。
村人たちの間にどよめきが走る。
それはイヴォンヌも同様で、一体何事かと思っていると、瞬時に身体の痛みが引いていくのを感じた。
「…ごめんなさい。遅くなっちゃって」
イヴォンヌが身を起こして見上げれば、片膝を地面について自分の背中に手を当てて癒しの魔法をかけてくれている、あの赤髪の魔法使いがいた。
「もう、大丈夫よ」
「……」
「あとはわたしに任せて」
赤髪の魔法使いはそうイヴォンヌを安心させるように声をかけて立ち上がると、どこからともなく背丈以上はあるウッドスタッフを出現させて手に取った。
そのウッドスタッフを見てイヴォンヌは目を見開く。
まるで瞳のような大きな石が埋め込まれているのだが、意思を持っているかのように、それこそ人の眼のように動いていたからだ。
「…あっはは!なぁんだ、いるじゃん!」
「……」
「強い魔法使い!!」
少年は肩に空洞ができてもなお、嬉々として跳ねるように立ち上がり、赤髪の魔法使いをきらきらとした瞳で捉えていた。
「キミぐらいの魔法使いなら、悪魔と契約できそうだよ〜」
「…そう。やれるものなら、やってみたら?」
「言われなくても!!」
赤髪の魔法使いの挑発に乗った狂魔が、周囲にいくつもの火球を生み出す。
そうして上唇を軽く舌で舐めた後、「いっけぇー!!」と指差して、赤髪の魔法使いだけでなく無作為に飛ばし始めた。
これでは、家に被弾して村中に火事が起きてしまう。
「…
だが、赤髪の魔法使いがそう静かに唱えた途端、火球は何にも当たることなく、先ほどの魔法陣と同様に空気に消え入るようにして無くなった。
そんな様子を見た狂魔がきょとんとした表情を見せるが、赤髪の魔法使いはその隙を見逃さずにスタッフの先を狂魔に向けた。
杖に植え込まれた瞳のような二つの石が、一斉に狂魔に向いた。
「いつまでもそんな高い所にいないで、降りてらっしゃい」
「!?」
赤髪の魔法使いがそう言うなり、狂魔の身が一気に地面に吸い寄せられるようにしてグンと下がり、そのまま先ほどのイヴォンヌのように身を打ち付けた。
だが、それだけではなく、ずっと地面にめり込み続けている。
「おまっ…!何したんだよ!!」
狂魔が抗議の声を上げつつ手足を動かそうと足掻くが、まるで魔力が重石を乗せているかのように狂魔の身動きどころか魔法を使うことさえ封じていた。
そんな少年の狂魔に向かって、赤髪の魔法使いは冷ややかな目で見下ろし、スタッフの先を狂魔の頭に向けている。
そうすれば、少年の顔が焦ったように歪んだ。
「ま、待っ…」
「
赤髪の魔法使いが容赦なく呪文を唱えた瞬間、少年の眉間に穴が空いた。
何が起きたかすら分からない、そんな死相を浮かべた直後、少年の身体は黒い灰となった。直後、人魂のような炎が現れ、耳を劈くような断末魔を上げて空間に渦を作ったかと思うと、その人魂は灰とともに巻き込まれるようにしてその中に消え失せていき、あたりは何事もなかったかのような静けさを取り戻した。
イヴォンヌはただただその様子を呆然として眺めていたが、赤髪の魔法使いは先ほど戦いがあったことが嘘であったかのように、やれやれと息を吐いた。
「まったく、オーバンがこの村の近くで狂魔が現れたって言うから来てみたら、まさか自分からやって来てくれるとはね」
「……」
「でも、お陰で手間が省けたわ。早く家に帰れそう」
赤髪の魔法使いは独り言をブツブツと呟いていたが、一連の流れを見ていたイヴォンヌは確信した。
狂魔を圧倒してみせる程の実力の持ち主。
彼女こそが鴟梟の魔女――ウルラであると。
「…あの、ウルラさん」
そして、イヴォンヌはある決意もした。
あえて名前を呼べば、彼女はイヴォンヌを振り返ってきた。やはり、間違いないようであった。
「あたしを、連れて行ってくれませんか」
それは憧れの魔法使いと出会えたからという願いからではなかった。
狂魔と遭遇して、いつ自分の身が危険に晒されてもおかしくないことが分かったからだ。
だから、身を守る術をこの最強の魔法使いと謳われているウルラから学びたいと思った。
そして、何より。
「い、イヴォンヌ…」
「……」
言いにくそうに声をかけてくる父を、イヴォンヌは一瞥する。
村人どころか自分を産んでこれまで育ててくれた両親でさえ、先ほどの出来事のせいで何の感情も抱かなくなってしまっていた。
「その、さっきは…すまない」
「イヴォンヌ、ごめんね…あたしたち…」
謝罪の言葉を掛けられるが、何も響かなかった。
むしろ、言葉ってこんなに軽いものなのかと思えるくらいだった。
「…イヴォンヌ」
そんな中、ウルラがイヴォンヌに声を掛けてきた。
「わたしに弟子入りしたいってことで、いいかしら」
「はい」
「…そう」
ウルラは真っ直ぐに自分を見つめてきたイヴォンヌに対して、どこかもの寂し気な声色で頷いた。
「…支度をしてらっしゃい。もうここに用は無くなったから、すぐに発つわ」
「わかりました」
ウルラがそう言うなり、イヴォンヌは踵を返して我が家へと向かう。
その後ろから両親が付いてきたが、鬱陶しく感じた。
自室に辿り着いて、鞄に軽く着替えと、ずっと読み込んできた精霊図鑑を入れると、ほどなくして準備は整った。
鞄を手に提げて階段を降り、無言で外へ出ようとしたら、「イヴォンヌ!」と後ろから母に声を掛けられた。
振り返れば、言いにくそうに顔を引きつらせながら笑ってみせている父と母が自分を見てきている。
「…いつでも、戻ってらっしゃいね」
両親のその言動で、イヴォンヌの中で何かが吹っ切れた。
「もう帰ってこないから」
その呪いとも言える言葉を両親に吐き出して、イヴォンヌはウルラの待つところへ足早に向かった。
ウルラは、先ほどとは変わらぬ場所で一人立って待っていてくれていた。
その彼女を遠巻きにするようにして、村人たちが様子を窺っていたが、特段気にしてはいないようだった。
「…早かったわね」
ウルラはイヴォンヌの姿を見るなり、意外そうに呟いた。
「必要な物は、新天地で揃えたいと思いまして!」
そう笑顔を作ってみせてみれば、ウルラはそれ以上聞こうとはせず、ウッドスタッフの先を使って地面に二回鳴らすと、彼女の足先から宙にふわりと浮いた。
「わっ…」
それはウルラだけでなく、イヴォンヌも同様だった。
ゆっくりと空に漂っていく自分の身体に驚きつつも、気付けばその高さは村を一望できる位置まで高く上り詰めていた。
「…すごい…」
「すぐに慣れるわよ」
村人が集まってくる様子が見えた。
こちらに手を振って別れの挨拶を掛けてくる輩もいる。
イヴォンヌはそれに応えず、見上げているウルラにならって、人々を暗闇へと包む星空を見遣る。
今日は月の大半が欠けている分、小さな光の輝きが眩くちらついた。
「…それにしても、助かったわ」
「……」
「ずっと弟子を作るようにせっつかれていたの。あなたがいてくれるだけで、少しはそれも減りそうよ」
ウルラが安堵したように自分の都合をイヴォンヌに語りかけてくるが、今のイヴォンヌの頭の中には入ってこなかった。
いつもより近くなった星空を綺麗だと思う以前に、視界がひどく歪んで、せっかくの光が霞んでしまっていた。
自分が信じてきたものが崩れ去ったという実感が、今になって湧いてきて、目から溢れ出てきたそれを風が掬っていった。
「…テレポートでも良かったのだけれどね」
「…っ…」
「わたしの家までまだ時間はあるわ。…その間に、出せるものは出しておきなさい」
あなたの選んだ道は、茨の道よ。
ウルラは啜り泣くイヴォンヌにそう忠告してきたが、それが苛烈な異名を持つ魔女の優しさだということは、感情が昂っているイヴォンヌも理解できた。
そして、これからはこの人に付いていこう。
イヴォンヌは心からそう思えた。